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                The agreement of Rudolf Steiner and Onisaburo Deguchi
                   ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符合
                                                                   咲杜憩緩

■六■ シュタイナーが預言した            
     「聖書の預言の成就」と大本弾圧の符合

(一)キリストの出現を準備する弥勒菩薩 (その1)

 弥勒菩薩の再来としてイエス・ベン・パンディラという人物が転生していたことは第一章で説明しましたが、シュタイナーはこの人物について次のようにも語っています。

 

 「彼(イエス・ベン・パンディラ)は自分のうちに新しい菩薩の個体を担い、ゴータマ仏陀の後継者となった。彼の弟子の名マタイを、後の弟子が継いだ。ある意味で、『マタイ福音書』は最初のマタイのときから、古代の蜜儀の書として存在していた。

 その内容が、後にキリスト・イエスによって物質界で現実に行なわれた。蜜儀のイメージが、後に現実になったのである。 キリストの蜜儀が古代のなかで象徴的に演じられ、のちに物質界で一度かぎりの現実として出現したのである。」
            (シュタイナー仏教論集・弥勒菩薩)

 

 「キリスト事件は、エッセネ派に関係のある人物、イエス・ベン・パンディラをとおして準備された。彼は、二人のイエスがパレスチナに生まれる百年前に生まれた人物である。」
           (シュタイナー仏教論集・弥勒菩薩)

 したがって、弥勒菩薩の再来であるイエス・ベン・パンディラとは、仏陀の後継者であると同時に、100年後に物質界にキリストが降臨するための準備した人物であったということが解ります。

 

弥勒菩薩(仏陀の後継者)→イエス・ベン・パンディとして転生
           (100年後のキリスト出現を準備)

    ↓     

◆弟子:マタイ(密議) → 後継者もマタイを名乗る
                (マタイ福音書を記す)

 

 さらに、シュタイナーは、三千年後に現われる弥勒仏の説く教えの特徴について、一九一一年十月一日にバーゼルでの講演『キリスト秘教と人類の霊的指導』の中で、次のように語っています。

 「東洋の神秘主義は、炎のなか、太陽の光の中に浸った純粋な阿迦捨形姿(アカシャけいし)が、偉大な仏陀の悟りの五千年後に到来することを表象できた。光と炎の子が、肉体に受肉した姿ではなく、純粋な阿迦捨形姿として、純化された地球の道徳的雰囲気のなかを巡るであろう。

 そして五千年後には、そのすばらしい炎と光の形姿について教える師も存在するであろう。その師とは、今から三千年後に現われる弥勒仏であり、人々にキリスト衝動を教える。こうして、東洋の神秘主義は西洋のキリストの智と、すばらしく美しい一体をなす。」
               
(シュタイナー仏教論集) 
 このことからも、仏陀の後継者となった弥勒菩薩は、人々を仏教的にではなく、むしろキリスト衝動に導く存在であることが解ります。

 

 「いまから三千年後に、ゴータマ仏陀の後継者は弥勒仏として地上に受肉するであろう。彼の受肉のひとつは、紀元前百年前に生きたイエス・ベン・パンディラのなかに、いつか弥勒仏になる存在が受肉したのである。この存在は毎世紀、菩薩として肉体に現われる。現在もこのいつか弥勒仏になる存在は、キリスト存在およびインドの『火の子』について重要な教えを説く。」
                (シュタイナー仏教論集)

 

 つまり、弥勒菩薩は一九一一年の当時も転生しており、キリスト衝動を与える法を説いていたこと考えられます。 すると、第一章■八■「イエス・ベン・パンディラ、すなわち弥勒は二十世紀初頭に生まれている」という言葉をそのまま物質的・肉体的に受け取れば、一九一一年にはまだ11歳に満たない子供が重要な法を説いていることになるので、「このような人物は少年時代に、彼が三十歳頃に菩薩になるであろうという前兆を現しはしません。」 (第一章■五■参照)というシュタイナーの見解と矛盾することになります。

 

 これに対して、出口王仁三郎は一九〇一年に正確に三十歳となった直後の七月二十日に須佐之男命の神霊が降り、火水の戦いが開始されています。したがって、「弥勒菩薩が転生した人物は、一九一一年には四十歳になっており、十六年後の『みろく大祭』に向けて弥勒菩薩としての修行をしながら、その教えを説いている出口王仁三郎である」という仮説を立てることも許されると思います。

 

 そして、水鏡の中で「……自分は阿弥陀を弥勒仏として現実化せんとするために努力しているのである。」 (一九二八年・昭和三年十月)としています。

 また、王仁三郎は、霊界物語・第六巻・第一章・「宇宙太元」の冒頭では、次のようにも口述しています。

 大宇宙の元始にあたって、湯気とも煙とも何とも形容のし難い一種異様の微妙のものが漂ひたり。この物はほとんど十億年間の歳月を経て、一種無形、無声、無色の霊物となりたり。

 之を宇宙の大元霊といふ。我が神典にては、天御中主神と称へ又は天之峰火夫神(あまのみねひをにかみ)と称し、仏典にては阿弥陀如来と称し、キリスト教にてはゴットまたはゼウスといひ、易学にては太極といひ、支那にては天主、または単に天の語をもって示さゐるなり。国によっては造物主、または世界の創造者ともいふあり。

 この天御中主神の霊徳は、漸次宇宙に彌慢(びまん)し、氤化醇(いんうんかじゅん)して遂に霊、力、体を完成そ、無始無終、無限絶対の大宇宙の森羅万象を完成したる神を称して大国治立尊(おおくにはるたちのみこと)(一名 天常立命)といひ、ミロク大神といういふなり。」

 

 つまり、弥勒仏とは宇宙創造の主神(阿弥陀如来=大本における大国常立尊)と現実界において合一する存在であり、王仁三郎はそのために弥勒菩薩から弥勒仏になる努力しているとも解釈できます。

 

(二)キリストの出現を準備する弥勒菩薩 (その2)

 

 次に、一九一〇年九月十日の「マタイによる福音書」講義においては、人智協会の正確な認識に基づいて、当時生まれ変ってきているイエス・ベン・パンディラからエーテル界にキリストが出現することを学ぶためにも『新しいエッセネ派を見つけることが人智学にとっても大切だとして、次のように語っています。

  

 「パンディラの子としてパレスティナでのキリスト出現のほぼ一世紀前に、投石刑に処せられたあのイエス(・ベン・パンディラ)が現代に生まれ変わって、キリストの出現を教示したと仮定しますと、そのキリストは肉身のキリストのことではなく、エーテルの衣装をまとって現れるのでなければなりません。ちょうどダマスコ郊外でパウロに現れたときのようにです。

 そして私たちはこの点において、生まれ変わってきたイエス・ベン・パンディラを認めることができるでしょう。しかし、その一方で大切なのは、私たちがいつか弥勒仏となる存在から、キリストが私たちの時代に出現するであろうと学ぶことなのです。つまり新エッセネ派の存在を見つけ出すことなのです。」
     (シュタイナーコレクション5・イエスを語る)

 

 ◆紀元前1世紀に転生した弥勒菩薩 
       ↓
 エッセネ派で、イエス・ベン・パンディラとして、キリストが
イエスの肉体に降臨する準備をした。

 

 ●20世紀に転生する弥勒菩薩
       ↓
新しいエッセネ派で、肉体ではなく、エーテル界にキリスト
を出現させる準備をしている。 

 

 「私たちは現代に甦るエッセネ派について、間違った判断をしないように、よくよく自重しなければなりません。現代に甦ってくるイエス・ベン・パンディラを示す確かなしるしを、一つ挙げることが出来ます。それは、この人物が自分をキリストであるとは名乗らないことです。

 現代において、なんらかの仕方で、自分の中にはナザレのイエスと同じ力が生きてきる、と示唆する人はすべて、そう主張することで、キリストよりも一世紀前に生きたあの先駆者の偽者であることを示しているのです。
     (シュタイナーコレクション5・イエスを語る)

 ここで、シュタイナーが『現代に甦ってくるイエス・ベン・パンディラを示す確かなしるしを、一つ挙げることが出来ます。それは、この人物が自分をキリストであるとは名乗らないことです。』 と断言していることは、ルカ福音書・第二十一章(マタイ第二十四章・マルコ第十三章) 『人の子来臨の前兆』の中で、イエス・キリスト自身が 『いまに多くの人があらわれて「救世主(キリスト)はわたしだ」とか、「最後の時は近づいた」とか言って、わたしの名を騙(かた)るにちがいないから。そんな人たちのあとを追うな。』 と預言している事と一致しています。

 

 一方、これを証明するかのように出口王仁三郎は「キリストの再来」 と題して、「大本人の中に自分(王仁三郎)をナザレのイエス、キリストに擬するものがまゝある様だが、実に迷惑千萬である。自分が嘗て霊界物語に説いたキリストとナザレのイエスは全然別人である事をここに言明しておく。」(一九三〇年・昭和五年九月・月鏡)と語っています。(第二章■八■(三)参照

  さらに、その五年前にも「我はキリストの再来に非ず」とした上で、自身の霊的使命を次のように語っています。

「人あり、我を目してキリストの再来なりと云う。我が弟子達、亦(また)我を見てキリストの再来なりと信じ、それを我が為に名誉なりとさえ考え、バイブルを引証して力説するものあり、甚(はなは)だ有難迷惑の次第である。

  彼キリストは、ヨハネによって『彼は火をもて洗礼を施す』と預言されながら、遂に火の洗礼を施すに至らずして帰幽せり。彼の事業は未熟の侭(まま)、悪魔の妨害によって中絶せしに非ずや。
 我の来たれるは神業完成のためなり、火をもって洗礼を施さんためなり。世界隈なく神の福音を述べ伝えんがためなり而(しか)して我は已(すで)に既(すで)に、全世界に向かって火の洗礼を施しつつあるは、我が信徒等の日夜親しく目撃する所に非(あら)ずや。

 僅かに小亜細亜(しょうあじあ)の一部分に水の洗礼を施したるキリストをもって我に擬し、栄誉を感じつつあるいとも小さき心の持ち主等よ、今些(いますこ)し偉大なる志をもって我に従へ。」
         
(一九二五年・大正十四年十月・水鏡)

 

 つまり、王仁三郎は、自分自身が新約聖書の「イエス」でも「キリスト」でもはないと、断言しているのです。この点において、シュタイナーの示す転生したイエス・ベン・パンディラの特徴と出口王仁三郎の言動は一致しています。

 すると、人智学的には、新たらしいエッセネ派の特徴を、当時の出口王仁三郎と大本が満たしていることになるのです。

 余談ですが、火の洗礼とはいったい何かということになりますが、王仁三郎は「火の洗礼と水の洗礼」について、「火をもって、パブテスマを行なうと云う事は、人間を霊的に救済すると云う事である。これ大乗の教えであって、今の誤れる総てのものを焼き尽くし、真の教えを布かれる事である。水をもってパブテスマを行なうと云う事は、人間を体的に救済する事である。火は霊であり、水は体である。」(一九二四年・大正十四年八月・水鏡)と語っています。つまり、火の洗礼とは大乗の教えであり、霊的な救済であることが解ります。

 

 さらに、シュタイナーは『キリストは肉身のキリストのことではなく、エーテルの衣装をまとって現れるのでなければなりません。』と述べていることは、聖書の『来臨』のと題された中でキリスト自身が「するとその時、人々は『人の子わたし』が大いなる権力と栄光をもって、『雲に乗って来るのを見るであろう」と預言している事を示していると考えられます。
 つまり、「雲の上に乗って」というのは、「肉体より次元の高いエーテル界に」という意味の比喩ということです。

 

 一方、キリストと弥勒菩薩が別の存在であるという認識については、霊界物語・第六十四巻上・第二章の中に登場する三五教の宣伝師が語った次の言葉にも示されています。

 「左様です。メシヤの再臨は世界の九分九厘になって、このエルサレムの橄欖山(かんらんざん)上に出現されることと確信いたしてをります。既にメシヤは高砂島(たかさごしま)の桶伏山麓(おけぶせざんろく)に再誕されておりますよ。再誕と再臨とは少しく意義が違いますからなア。」
            (一九二三年・大正十二年七月十日)

 ●再臨のメシヤ → エルサレムの橄欖山の上に九分九厘にな
          って出現。 

 ●再誕のメシヤ → 高砂島の桶伏山麓に既に出現している。

 

 つまり、メシヤ(救い主)には、『肉体を持って再誕する者(弥勒菩薩)』と、『肉体を持たずに霊的に再臨する者(キリスト)』がいるという解釈もできるのです。

 

 そして、霊界物語においては黄金山としても語られているエルサレムの橄欖山(オリブ山)上に再臨するのは「エーテル界のキリスト」のことであり、高砂島の桶伏山麓に再誕しているのは「肉体を持った王仁三郎自身」であると考えられるのです。ちなみに、高砂島は日本、桶伏山は綾部の本宮山を示していると考えられます。(第二章■八■(六)参照

 

 勿論、読み方によっては、王仁三郎は桶伏山麓で再誕し、その後、船でエルサレムに渡ってオリブ山の上に再臨する、という仮説も立てられます。
 しかし、王仁三郎はエルサレムには渡っていませんし、「我はキリストに非ず」と語った王仁三郎がオリブ山を昇っても、キリストの再臨にはならないはずなのです。したがって、王仁三郎自身がエルサレムや日本の橄欖山に足を運ぶという仮説では、神の経綸(しくみ)も新約聖書の預言も共に成就していないことになってしまうのです。

  

 以上から、ここでは 『弥勒菩薩は、紀元前一世紀頃にはイエス・ベン・パンディラとして、イエス・キリストの物質界への誕生を準備した存在であり、二十世紀初頭には出口王仁三郎として、エーテル界のキリストの出現を準備した存在である。』 という仮説を立てることが許されると思います。

 

(三)エーテル界へのキリストの再臨と第二次大本事件

 

 では、エーテル界のキリストの出現を準備した弥勒菩薩が、出口王仁三郎であったという確かな証拠は、第一章の講義以外にもあるのでしょうか。マルコ福音書・第十三章(マタイ第二十四章)の 『人の子来臨の前兆』 では、イエス・キリストはオリブ山で次のような預言をしています。 

「イエスが宮を出てゆかれるとき、一人の弟子が言う、『先生、御覧なさい、なんと大きな堂々たる建築でしょう!』

 イエスは言われた、『この大きな建築物を見ているのか。このまま重なっている石が一つもなくなるほど、くずれてしまうであろう。』」 
                 (福音書岩波文庫)

 大本では、第一次大本事件の際に一九一〇年(大正十)に建てられた綾部の本宮山山頂の長生殿が破壊されてます。

 さらに、一九三六年(昭和十一)には、基礎が完成した状態で、第二次大本事件の際に、再び破壊されています。

 その他、一九二八年(昭和三)に亀岡の天恩郷の高台に建設された月宮殿も一九三六年にダイナマイトによって破壊されたほか、あらゆる神殿や施設が徹底的に破壊されているのです。


  
[本宮山神殿の取り壊し(第一次弾圧)] [引き倒された弥勒殿(第二次弾圧)]

 
[埋め立てられた金龍海]          [ダイナマイトで破壊された月宮殿]

 
[取り壊された天声社印刷工場]     [取り壊された祖霊社]

 
[破壊された光照殿の石垣と土塀]     [掘り起こされた弥勒殿への石段]
                    (手前の橋も間もなく取り壊された)
  
[綾部警察署で焼却される信者からの押収物] [ハンマーで砕かれた石の手洗い]

 
[破壊されて日本海に投げ込まれた    [文字まで削られた島根別院の歌碑]  
         沓島の神祠の跡] 

 したがって、出口王仁三郎が地上に再臨するイエス・キリストとは別の再誕の救世主(メシヤ)であるとすれば、このまま重なっている石が一つもなくなるほど、くずれてしまうであろう。というイエス・キリストの発した聖書の預言は一九三六年の大本の『型』として成就していることになります。

 

 さらに、ルカ福音書・第二十一章(マタイ第二十四章・マルコ第十三章) 『人の子来臨の前兆』の中では、イエス・キリストは、次のような預言をしています。

 「彼らがイエスに尋ねた、『先生、では、そのこと(オリブ山の宮がくずれること)はいつ起りましょうか。』

 そこで話された――『迷うことがないように気をつけよ。いまに多くの人があらわれて「救世主(キリスト)はわたしだ」とか、「最後の時は近づいた」とか言って、わたしの名を騙(かた)るにちがいないから。そんな人たちのあとを追うな。戦争や暴動と聞いた時に、びっくりするな。それらのことはまず、“おこらねばならないことであるが、しかしまだすぐ最後ではないのだから。』

 それから言われた、『この世の終わりが来る前に、“民族は民族に、国は国に向って敵となって立ちあがり、また地震や、ここかしこに疫病や飢饉があり、いろいろな恐ろしいこと、また天に驚くべき前兆があらわれるであろう。

 しかし、これらすべてのことがある前に、人々はあなた達に手をかけて迫害する。すなわち礼拝堂や牢屋に引き渡し、またわたしゆえに、王や総督の前に引き出すであろう。これは結局あなた達が福音を証しする結果となるのである。

 だから、前もって弁明の準備をしておかないことに、心を決めなさい。いかなる反対者も、反抗し弁駁(べんばく)することの出来ない言葉の知恵で、わたしが授けるから。あなた達はまた親、兄弟、親族、友人まで裁判所に引き渡される。殺される者もあろう。

 また、わたしの弟子であるために皆から憎まれる。しかしあなた達の髪の毛一本も決して無くならない。あなた達は忍耐によって、自分のまことの命をかち取ることができる。』(以下、キリストの『来臨』の預言がつづく)」
                    (福音書 岩波文庫)

 本章■二■(四)において、シュタイナーは一九一〇年一月二十五日の「エーテル界にキリストの出現」の講義の際に、カリ・ユガ時代の説明の中で、 

 「この心魂能力の最初の兆候は、個々の心魂のなかで、比較的速やかに気づかれるでしょう。
 一九三〇年代なかばに、その兆候ははっきりと示されるでしょう。およそ、一九三〇年から一九四〇年の間です。
 一九三三年・一九三五年・一九三七年が、特に重要でしょう。特別の能力が自然な素質として、人間に現われるでしょう。大きな変化が生じ、聖書の預言が成就されるでしょう。」
           (エーテル界へのキリストの出現)

、と語っていたことは、既にご紹介した通りです。

第二章■二■(四)を参照
第一章■二■(一)を参照


 つまり、シュタイナーは、聖書の預言が成就されるためには、一九三〇年代の半ばに、その兆候がはっきりと示されるとしているわけです。

 そして、大本においては、正に次のような象徴的な事件が起きているのです。

   一九二五年  →  王仁三郎は、「我はキリストの再来に非
           ず」と言明。

   一九二八年  →  みろく大祭。弥勒下生を宣言。

   一九三〇年  →  王仁三郎は、自身が「ナザレのイエスと
           は全くの別人である」ことを言明。

   一九三三年  →  みろく大神の神霊を高天閣から月宮殿に
           遷座。

   一九三五年  →  第二次大本事件が勃発し、王仁三郎や幹
           部ら六十一名を検挙。

   一九三六年 →  長生殿や月宮殿など複数の神殿を破壊。

          →  出口日出麿(王仁三郎の娘婿)が拷問に
           よる強度の精神衰弱で入院。

           → 栗原白嶺と岩田久太郎という二人の大本
           信徒が獄死。

           → 綾部・亀岡の聖地を強制売却。

   一九三七年  → 第二次大本事件のために王仁三郎は山
            科刑務所未決監に拘束。

   一九四〇年  →  第一審の判決。

 

 このように、シュタイナーが示した一九三〇年代には、聖書に書かれているイエス・キリストの預言通りに、迫害を受け、牢屋に引き渡され、親族が裁判所に引き渡され、殺される者があることなど、全て大本において起っているのです。
 それも、シュタイナーが特に重要だとしている予言した一九三五年に第二次大本事件が起きていることは、非常に象徴的であると言えます。

 

 では、イエス・キリストの言葉、 「民族は民族に、国は国に向って敵となって立ちあがり、また地震や、ここかしこに疫病や飢饉があり、いろいろな恐ろしいこと、また天に驚くべき前兆があらわれるであろう。」という預言は、実際にあったのでしょうか。

 

◇国家間の戦争→ 一八九四年(明治二十七)日清戦争が勃発
         一九〇四年(明治三十七)日露戦争が勃発
         一九一四年(大正 三)第一次世界大戦が
          勃発

◇地震         →   一九二三年(大正 十二)関東大震災

◇疫病         →  一九一八年(大正 七)世界的規模で猛威
          を奮い感染者六億人、死者四千〜五千人
          を出したスペイン風邪が猛威を奮う

◇飢饉          →  一九一八年(大正 七)富山県魚津市を中
          心に全国規模で米騒動

◇天の前兆  →  一九一〇年四月二十日 ハレー彗星が
          三・三等級に達する

 特に、ハレー彗星についてシュタイナーは、唯物論との関わりを強調すると共に実際にハレー彗星が接近していた一九一〇年二月二十日には「キリストの再臨」と題する講義の中で、次のように述べています。

 「私たちは非常に重要な時期に生きています。明視的な人間が体験するキリストの再臨という出来事の特徴を、私たちは述べねばなりません。私たちは宇宙に注意を向け、いま近づいている出来事を示唆することによって、キリストの再臨の特徴を述べることができます。

 その出来事というのは、ハレー彗星の出現です。これは薔薇十字神智学の研究対象です。彗星の出現は神霊世界の出来事に関連しています。太陽を回る惑星の働きのような、規則的なものが人類に合っています。彗星の出現は規則的な出来事に影響を与えます。それぞれの彗星が人間の進化に特別の影響を与えることを、薔薇十字神智学は証明しました。」
           (エーテル界へのキリストの出現)

 

 ちなみに、霊界物語・第五巻・第二十九章においては、艮の金神の忍耐に忍耐を重ねた嘆きの息がかすかに洩れて大彗星となり、人類の寿命を極端に縮める邪気なる瓦斯体(がすたい)となったとしています。 

 このように、シュタイナーは一九三〇年から一九四〇年の間に聖書の預言が成就されることを、その二十年以上前の一九一〇年に既に預言していたわけですが、この聖書の預言とは、単なるエーテル界へのキリストの来臨というだけではなく、その前に起らなければならない迫害の預言が成就することをも示していたはずなのです。そして、それは第二次大本事件の歴史と極めて高い符合を示しているのです。

 

 そして、弾圧から六年後に王仁三郎は、次のような言葉を残しています。

 「大本の用が済んで家を壊さなならんと思っていたら、王仁が壊すと信者が不足を言うが政府が壊したので、どこへも不足を言うところがない。そして、土地まで取り上げてくれたので、税金を払わんでよいのや。うまいことなっているのや。」 
                  (新月の光・上巻)

 

 この言葉だけでなく、王仁三郎自身は、第二次弾圧を事前に予知している言葉を多く残しており、弾圧を必然的なものとして予感していながら数々の神殿を建立していたことが解ります。

 

 ここで補足しておきますが、ルカ福音書では「しかし、これらすべてのことがある前に、人々はあなた達に手をかけて迫害する。」という言葉の、「これらすべてのこと」が地震や飢饉や疫病を示すとすれば、第二次大本弾圧との前後関係が一致しないことになります。

 

 ただ、マタイ福音書では「しかしこれは皆まだ、新しい世界が生まれるための陣痛の始めである。その時あなた達は苦しめられ、殺される。」と記されているため、飢饉や疫病という前兆の後で迫害を受けると解釈できるのです。
 したがって、ルカ福音書の「これらすべてのこと」とは、キリストの来臨と世の終わり(第二次世界大戦)、を示していると考えられるのです。

 

  

(四)エルサレムと日本、第二次世界大戦の霊学的解釈

 ルカ福音書第二十一章(マルコ第十三章・マタイ第二十四章)では、『人の子の来臨の前兆』の次

には『来臨』と題され、次のように記されています。

 

 「しかしエルサレムがローマの軍勢に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたと知れ。その時ユダヤの地平における者は急いで山に逃げよ。都の中におる者は立ち退け。田舎におる者は都に入るな。これは聖書にかいてあることが皆成就する『神の刑罰の日だからである。

 

……中略……彼らは剣の刃に倒され、あるいは捕虜となってあらゆる国々に散らされ、また『エルサレム』はいわゆる異教人時代が終わるまで、『異教人に踏みにじられるであろう。

 

日と月と星とに世の終わりの不思議な前兆があらわれ、地上では海がどよめき荒れ狂うため、国々の民は周章(あわ)てふためき怖じまどい、全世界に臨もうとしていることを思って、恐ろしさのあまり悶え死にするものがあろう。

 

 するとその時、人々は〝人の子わたしが?大いなる権力と栄光をもって、『雲に乗って来るのを見るであろう。そこでこれらのことがおこり始めたら、体を伸ばし、頭をあげなさい。あなた達のあがないの時が近づいたのだから。」
                  
 (福音書岩波文庫)

 では、『異教人に踏みにじられる』という『エルサレムにあたる国とは何処なのでしょうか。

 それは、日本の歴史が非常に明確に証明しています。

 一九四五年当時、首都東京、大阪、名古屋、兵庫、北九州をはじめ全国各都市に大空襲を受け、広島と長崎に原爆を投下されたように、田舎にいる者が都市に行くことは非常に危険でした。

 つまり、日本国内の人々は地方に疎開を余儀なくされており、『急いで山に逃げよ。都の中におる者は立ち退け。田舎におる者は都に入るな。』という情勢だったのです。

 

 また、大陸に渡った兵士はロシアの捕虜となり、あるいは太平洋に向った兵士たちは南太平洋の島々に散らされています。したがって、『彼らは剣の刃に倒され、あるいは捕虜となってあらゆる国々に散らされ』てしまっていました。 さらに、本土はGHQによって占領され異教人であるアメリカ人によって踏みにじられたのです。

 つまり、あらゆる預言が日本に符合しているのです。

 

 霊界物語・第一巻・第二十四章では、【附言】として「神世開基(ヨハネ)と神息統合(キリスト)は世界の東北に再現されるべき運命にあるのは、太古よりの神界の御経綸である。」 (一九二一年・大正十年十月二十一日)としています。

 

 この世界の東北とは、国祖が隠退された艮の方位にあたる日本をであることを意味しています。つまり、エルサレムは日本、ローマ人はアメリカ人という形で聖書の予言は再現された事になります。

 

   キリストの信者   → 大本信者

   キリスト信者の迫害 → 大本事件(大本弾圧)

   エルサレム     → 日本

   ローマ人(異教人)  → アメリカ人(GHQ)

 

 また、王仁三郎が活動していた当時の日本人について、シュタイナーは次のようにも語っています。 

 「民族移動の前後にヨーロッパに生きていた人々に目を向けることができます。民族移動のころに、南から広まってきたキリスト教に出会ったヨーロッパ人たちです。彼らはキリスト教を、今日とはちがって、根源的、本源的な、生命全体に作用していた計り知れない力を持った形で受入れました。

 キリスト教は抽象的で悟性的な神学にまだ浸透されておらず、魂の基本感情に働きかけました。この当時ヨーロッパにいて、このような方法でキリスト教を受入れた魂の大部分は、ほかの場合よりもやや長い期間を死と再受肉のあいだで過ごして、今日アジアに受肉しています。

 とくに、当時キリスト化された魂の多くは今日、日本の身体に受肉しています。今日アジアには前世でキリスト教的な感情を受け取った魂が、すでに言語をとおして子どものころから、退廃した古い東洋文化に囲まれていることを明らかにしなければなりません。」
   
 (いま、シュタイナーの『民族論』をどう読むか)

 

 つまり、キリスト教を根源的、本源的、生命全体に作用していた計り知れない力を持った形で受け入れてキリスト化された魂の多くが当時の日本人として転生していたわけです。

 このシュタイナーの認識は、大本神諭における艮の金神が大本に引き寄せた「因縁の身魂」という言葉を連想さます。

 

 そして、一九四五年(昭和二十年)王仁三郎が七十四歳の年、八月六日に広島に世界最初の原子爆弾が投下されます。その前年の秋から王仁三郎は「広島はひどいめにあう」と語り、信徒の疎開を指示していたといいます。

  

 さらに、八月十五日の終戦に際して、王仁三郎は「こうならぬとこの神は世に出られぬ」と発言したとされています。これは、決して自分を理解しない日本国民に対して警告や憎しみを込めて発言したものではなく、「聖書の預言が成就し、神(キリスト)が世に出る(再臨する)ためには、日本は外国に負けて占領されなくてはならない。」ということを意味していたはずです。

 

 つまり、イエス・キリストの福音とその預言が、完全な真実であることを証明することで、神の存在を全世界に対して明確に示す必要があったということです。それには、大本は弾圧されなければならず、日本は異教人に占領され踏みにじられなければならなかったはずなのです。

 

 さらに、福音書の「人々は『人の子わたしが大いなる権力と栄光をもって、『雲に乗って来るのを見るであろう。」という預言は、シュタイナーの「エーテル界へのキリストの出現(再臨)」を意味しているといえます。

 

 そして、これによって人類が今後二千五百年の間にエーテル界のキリストを見る可能性が準備されたのです。

1913年5月2日の、ロンドンにおける講義のなかで、シュタイナーは次のようにも語っています。

 「十九世紀における、このキリストの供犠は、ゴルゴダの秘儀における物質界での供犠に比較できます。それは、『エーテル界におけるキリストの二度目の磔刑』ということができます。」 
(エーテル界におけるキリストの出現 「ゴルゴダの秘儀と20世紀のキリスト」より)


 また、それは大本神諭の「二度目の天の岩戸開き」であり、エーテル界を通して「神が世に出られた」はずなのです。同時に「神が表に現われて、善と悪とを立て別ける」(大本「基本宣伝歌」より)時代の到来ともいえるはずなのです。

 

 さらに、聖書ではこのキリストの来臨の前に、「日と月と星とに世の終わりの不思議な前兆があらわれ、地上では海がどよめき荒れ狂うため、国々の民は周章(あわ)てふためき怖じまどい」としていますが、日本においては、特に一九四五年に次のような事が起きています。

 

 一九四五年 四月     →  『こと座流星群』が出現。

 一九四五年 八月六日   →  広島に原子爆弾を投下。

 一九四五年 八月九日   →  長崎に原子爆弾を投下。

 一九四五年 八月十五日  →  日本敗戦。

 一九四五年 九月     →  枕崎台風で死者二四七三人。

 一九四五年十二月    →  『こぐま座流星群』が一時間に
               百個以上出現。

 

 そして、福音書の『来臨の日』では、 「こういったあと、また一つの譬えをひいて彼らに話された。――『無花果の木をはじめ、すべての木を見なさい。すでに芽が出ると、それを見て、ひとりでにはや夏が近いと知るのである。そのようにあなた達も、これらのことがおこるのを見たら、神の国が近くに来ていることを知れ。……後略……』」と記されています。

 

 では、この「神の国が近くに来ていることを知れ」とは、どういう意味でしょうか。それは、他でもない「みろくの世」ではないでしょうか。そして、「無花果の木をはじめとする木」とは、私たち人類の主への信仰と魂の成熟を意味しているはずなのですが、それについては、以降の第二章■七■(五)~(九)をご参照いただければと思います。

 ※ 注:第二章■七■(五)~(九) 参照 

 

 シュタイナーは1910年2月6日の講義の中では、次のように語っています。

 「明視意識は、キリストをそのエーテル体のなかで、いつも見出します。人類がこのように進化すると、人間はダマスクスの出来事を体験するでしょう。この能力は、一九三〇年~一九四〇年に現われるでしょう。この時点を盲目にやりすごさなければ、私たちはキリストに到達できるでしょう。これが秘密の学院で『キリストの再臨』と言われるものです。」 
            (エーテル界のキリストの出現)

 

 さらに、第一章で紹介した弥勒菩薩についての講義の中でシュタイナーは、次のようにも語っています。

 「今まで話してきましたようなキリスト理解も、物質界においてのみ得られるのです。そして、今から三千年の間に、人類は霊的なキリストを見る力を物質界で獲得してゆくことになります。物質界において、キリストを理解する条件を作り、霊的なキリストを見る能力を用意するのが人智学の使命です。

 今日、エーテル的キリストは人間界の中で働いています。物質界においてエーテル的形姿のキリストを見る能力を得ますと、地上に生きている間、あるいは死と再受肉との間の時期に、キリストを見ることができます。キリストのエーテル的形姿を見ることができないまま死んだにもかかわらず、物質界でキリストを理解した人は、死後キリストの姿を見ることができます。霊的生活から遠ざかり、キリストを理解しなかった人にはキリストは見えず、その理解を得るのに次の転生をまたねばなりません。」

 ※ 注:第一章 ■二■ 参照

 以上によって、第一章における弥勒菩薩(王仁三郎)の働きと、キリストの再臨、キリストの預言、大本事件、日本(エルサレム)の結びつきがより一層深く符合していることが理解されると思います。

 同時に、シュタイナーが語った『キリストを理解する条件を作り、霊的なキリストを見る能力を用意するのが人智学の使命です。』という言葉も、王仁三郎の働きによって理解されるのではないでしょうか。

 

 このように、シュタイナーの霊的洞察による弥勒菩薩とキリストに関する預言は、大本における出口王仁三郎の活動が証明しており、王仁三郎の活動は、聖書の預言の深遠かつ重要な真実を全て実証していることがわかるのです。したがって、現代の私たちはこれまでの仮説を次のように結論付けることが許されると思います。

 

 『霊的な観点からすれば、第二次大本弾圧と第二次世界大戦における日本の敗戦とは、聖書におけるイエス・キリストの預言成就の証しである。』

 

 

(五)弥勒菩薩とパラクレートス


 ヨハネ福音書・第十四章 『弁護者(パラクレートス)・神、キリストとの同居』 以降では、パレクレートスは次のような存在として語られています。

 「あなた達は皆別れを悲しんでいるが、本当に私を愛するなら、わたしの掟を守り互いに愛しなさい。そうすればわたしも父上に願って、わたしに代わるほかの弁護者パラクレートスをおくっていただき、いつまでもあなたたちと一緒におるようにしてあげる。これは、真理の霊である。この世の人には見えもせず、わかりもしないから、これを受けいれることが出来ない。しかし、あなた達にはこの霊がわかる。いつもあなた達のところをはなれず、また、あなた達の中におるのだから。」

 

 つまり、弁護者(パラクレートス)とはキリストを忘れないように、真理を説く聖霊存在であるといえます。

 「もう少しするとこの世の人はもはやわたしを見ることができなくなるが、あなた達は間もなくわたしを見ることができる。……わたしの掟をたもち、これを守る者、それがわたしを愛する者である。わたしを愛するものはわたしの父上に愛され、わたしものその人を愛して、その人に自分を現すであろう。だからわたしを愛する者だけが、わたしを見ることができるのだ。」

 つまり、キリストの掟(互いに愛せよ)を守る人は、霊的にキリストを見ることができることが解ります。(第一章■二■(四)参照)

 「わたしが去ったあとで、父上がわたしの名で遣わされる弁護者(パラクレートス)、すなわち聖霊が、あなた達にすべてを教え、またわたしが言ったことをすべて思いださせるであろう。」

 「また、わたしが父上のところからあなた達に遣わす弁護者(パラクレートス)、すなわち父上のところから出てくる真理の霊が来る時、それがわたしのすべてを証明するであろう。」

 

 このことから、キリストの全てを教えられ、キリストの福音を思い出させ、キリストを証明する者は、パラクレートス(聖霊)に導かれていることがわかります。さらに、真にキリストを信仰している信徒について、イエスは次のようにも告げています。

 

 「このことを話したのは、わたしがいなくなったあとで、あなた達が信仰につまずかないためである。彼ら(父上を信じない者)はあなた達を礼拝堂追放するにちがいない。それどころか、あなた達を殺す者が皆、神に奉仕しているかのように思う時がくるであろう。彼らがそんなことをするのは、父上をもわたしをも知らないからである。」

 

 つまり、万民を愛する真のキリスト信仰者は、偏狭な信仰をもった偽善者らによって礼拝堂を追放され、命をも狙われる「型」を歩むことが解ります。

 

 実際、シュタイナーは講演の際にナチスに命を狙われ、後にゲーテアヌムに放火されています。また、王仁三郎も大本の中で命を狙われ、二年ほど大本を離れた時期がありましたし、国家からも二度の弾圧を受けています。そして、そういった追放を企てる偽善者は、真に父上やキリストを知らず、信じていない証拠であることが解ります。

 

 「そして彼(弁護者:パラクレートス)が来ると、罪について、義について、罰について、この世の考えの過りを認めさせるであろう。すなわち、罪についてとは、人々がわたしを信じないことが罪であること。義についてとは、わたしが父上のところに行って、あなた達がもはやわたしを見ることができなくなることが、わたしが父上に義とされた証拠であること。また、罰についてとは、この世の支配者(悪魔)がわたしを殺したのは、わたしが罰されたのではなく、自分が罰されたのであること。―――この三つを認めさせるのである。」

 

 つまり、罪とは、主の言葉を伝え、何一つ間違ったことを話さなかったイエス・キリストを信じないことは、主を信じないことであり、それが全ての罪の発端であることを示していると考えられます。(第三章■一■(十)参照第四章■五■(三)参照

 

 次に、義とはイエスがユダの裏切りを寛容したからこそ、父の下に帰ることができたことを示したと考えられます。なぜなら、もしイエスがユダの裏切りを憎み、裁き、罰していたとすれば、イエスは「裁くな、そうすれば神に裁かれない。」「敵を愛せよ。」といった自らの福音を守らなかったことになってしまいます。

 

 したがって、イエスはユダに裏切られ、支配者に殺されたという事実こそが、父なる主の教えに忠実であったことを証明し、父に義を示しているともいえるはずなのです。(本章■四■(三)参照)

 

 最後に、罰とは、「罪のないイエスを裁いた者は、自分が神に裁かれる」ことを意味しており、同時に、この福音がカルマの法則を暗示していることが解ります。つまり、イエスは自分自身の罪によって神に罰せられて殺されたのではなく、イエスの言動を信ぜずにイエスを殺した支配者こそがカルマ的に自分自身を罰する結果になるということです。(第三章■一■(五)参照

 

 そして、イエスはこれらのことを弁護者(パラクレートス)が認めさせることを預言しているのです。 実際、シュタイナーは、輪廻転生とカルマの論理を詳細に説いていますし、「薔薇十字会の神智学」の中でもユダや罪についても言及しています。

 

 一方、王仁三郎は輪廻転生やカルマを認めるだけでなく、「大本に起きたことは、日本や世界にも起きる」という「大本の雛型」を示し、「大本を潰せば、日本も潰れる」というカルマの法則を、現実的に証明しているのです。すると、イエスが預言したパラクレートとは、仏教的な因果の法則を示唆した存在であることも解ります。

 

 したがって、 『仏陀の後継者を弥勒菩薩』 と呼び、 『イエス・キリストの遣いをパラクレート』 と呼ぶわけですが、両者は同一存在か、もしくは同じ身魂に降って導いていた存在なのではないか・・・という推測もできるのです。

 そして、その働きは大本において「弥勒菩薩」と「キリストではない救世主である須佐之男命」という二重の働きをした出口王仁三郎とも重なってくるのです。(第二章■八■(三)参照

 また、シュタイナーも弥勒菩薩に霊感を受けていたことは、既に解説した通りです。

(六)シュタイナーと出口直のお筆先  (その1)

 シュタイナーは一九一〇年九月十日に「マタイによる福音書」講義の中で、自身が弥勒菩薩から霊感を受けて、エーテル界のキリストの出現を知らされていることを次のように述べています。

 

 「弥勒仏となる菩薩からの霊感を受けて、私たちはこう語るのです。私たちはなんらかの宗教

信条の意味で、キリストが再び物質界において知覚できるようになる、というつもりはありません。けれどもひるむことなく、語ろうと思います。―――

 

 『われわれは真理であると認識する故に語るのだから、どんな結論になろうが、かまわない。われわれは東洋の宗教教義を偏愛するつもりもないが、未来においてキリストがどのように出現するのかを、菩薩自身から霊感を受けて、われわれはこう語るのだ。』」

 

 「・・・(エーテル界への)キリスト出現の成果は、人間が高次の力を発達させて、霊界から作用するキリストを、この新しい力で霊視するようになることなのです。そして私たちの課題は、現代の歴史的な戦い(第一次世界大戦)の意味を理解して、かつてエッセネ派のイエス・ベン・パンディラがダビデ家の獅子キリストを予見したように、現代におけるキリスト出現の意味を指示することなのです。」 
        (シュタイナーコレクション5・第十講)

 

 つまり、シュタイナー自身はイエス・ベン・パンディラの転生した人物とは直接の関係を持たない立場であるとしながらも(※注)、霊的には弥勒菩薩から霊感を受けて、エーテル界のキリストの出現を知らされていたことを断言しているのです。

 ※注:第一章 ■八■ 参照 

 

 そして、これは私の個人的な推測に過ぎませんが、次の大本神諭の内容とも関連性があると感じられます。

 「世界国々所々に、世の立替を知らす神柱は、沢山(たっぴつ)現われるぞよ。皆艮の金神、国常立尊の仕組で、世界へ知らしてあるぞよ。大方行き渡りた時分に、綾部へ諸国の神、守護神を集めて、それぞれの御用を申し付ける、尊い世よの根の世の本の竜門館の高天原であるから、何を致しても綾部の大本の許しの無き事は、九分九厘で転覆るぞよ。」 (明治二十五年旧正月) 

 「世界には、誠の者を神が借りて居るから、漸々(だんだん)結構が判りて来るぞよ。善き目醒ましも在るぞよ。又悪しき目醒ざましもあるから、世界の事を見て改心を致されよ。新たまりて、世を替えるぞよ。」 (明治二十六年)

 

 これらの神諭は、大本の宣伝師が世界中に布教に行くことだという解釈もできますが、むしろ世界の所々にシュタイナーのような「誠の者」が数人現われ、 「世の立替えを知らす神柱」として活動する、という意味だったのではないかということです。(第四章■五■(二)参照

 もし、そうであればパラクレートス(聖霊)を遣わした父上とは、大国常立尊であるということになりますが、これは後で考察します。

 

 また、次の神諭を読むと、国常立尊は外国にも良い神霊がいることを認めていることが解ります。

 「此の神の取次ぎいたす人民は、余程心広く持ちて、一方に偏らぬ様に致して、外の神、仏事の教えを悪く申すような事では、艮の金神の気勘には叶わんから、――中略――

 外国は外国
の神を拵(こしら)えて、其れだけの守護がさして在るなり、仏事は仏事で又其の国の人民に、相応の守護がいたさしてあるのじゃぞよ。

 日本には、日本相応の神があるぞよ。日本の神国に生まれた人民は、日本の神の教えを守りておりたら、天下は泰平に治まるぞよ。外国の神にも、善の神と悪の神とがあるから、悪神斗りで無いぞよ。」 (明治三十二年旧七月一日)

 

 また、ルドルフ・シュタイナーは、霊的な能力だけではなく、非常に学識にも優れた人物であり、もしシュタイナーが大本神諭を手にすることができたとすれば、国常立尊の言葉の意味を深く理解できていたはずです。

 

 その意味では、大本神諭の「一層学力の勝負(ずぬ)けた霊魂(みたま)に使われて居る肉体でありたら、筆先が良く解るなれど、途中の学では解らんから、……」 (一九一七年・大正六年旧五月六日)という言葉も納得できるのです。その他にも、大本神諭には次のような言葉もあります。

 

 「この世を是まで利己主義(われよし)で、他人は如何でも我さえ良けら能(よ)い行(や)り方で来た、此の世界の大掃除を、今の上の守護神人民に為(さ)せたところで、誠の掃除は出来は致さんから、実地の活神が世界の大掃除をはじめると申して、日々(にちにち)知しらして居(お)るなれど、近所くほど何も分からん、気の毒なもので在るが、遠国から開けて来て、遠国の明りで、足元が依然(じっ)として居れんように成るという事が、明治二十五年から筆先で知らしてあるぞよ。遠国から明りが刺して、足元がそろそろと判りかけると申してあるぞよ。……」 (一九一六年・大正五年旧二月三日)

 

 「外国の方が早(はよ)う解るという事も、お筆先で知らしてあるぞよ。」   (一九一七年・大正六年旧八月二十二日)

 

 これらも、単なる戦争の預言と受け取る事も出来ますが、シュタイナーは一九一七年には既に、エーテル界へのキリストの出現や、弥勒菩薩の活動を講義の中で預言していますし、フリーメーソンの陰謀も人智学協会員に明かしていたので、弥勒菩薩や聖書預言や第一次世界大戦の真相も、同時代の大本信者と比較するとかなり詳細にわたって熟知していたことになります。

  

 その意味で、ここでの「遠国」や「外国」とは、シュタイナーの活動したドイツやスイスのことを示しているという解釈もできると思うのです。

  

 

(七)シュタイナーと出口直のお筆先  (その2)

 

一九一二年神諭には、外国の鼻高と神秘について次のように綴られています。

 

「遠国から出て来る鼻高者に、割りと早く改心が出来て、立直しの御用が予想とは早くなりて、外国の方が改心が早(はよ)うなろうとも知れぬということも、知らしてあるぞよ。」

 

「今度の御用は、人民が何程ほど寄よりて来たとしても、因縁のある身魂で無いと、大本の神秘(しょうまつ)の御用は出来んぞよ。人民力でも、智慧でも、学でも出来きん大望(たいもう)な事があるのじゃぞよ。

 

 又人民で出来きん御用は、太初(もと)の荒神が、実行(しょうまつ)を致すから、此の世にはえらい神があるという事を悟るぞよ。又真正(まこと)の鼻高が一度にわかりて来て、えらい御手伝いをなさるぞよ。」(大正元年旧十月五日)

 

この神諭についても「鼻の高い高慢な人間」という意味だけではなく、「鼻の高い顔立ちの外国人」という意味という解釈もできます。そして、その遠国の鼻高が、人民には理解できない「神秘の御用」について、えらいお手伝いをすると預言されているのです。

 

実際、それを示すかのようにシュタイナーは日露戦争について、一九一一年の講義の中で興味深いことを語っています。

 「もっと近い例を挙げてみましょう。一九〇四年から五年にかけての日露戦争にアストラル的諸存在が参加したのですが、その中にはロシアの死者たちもいて、彼らはロシア民族に対抗して戦ったということが霊的な観察から明らかになります。

 ごく最近のロシアの歴史の中で、多くの高潔な理想主義者たちが牢獄や断頭台で命を失いました。彼らは立派な理想主義者でしたが、自分たちを処刑したもの達を赦すことができませんでした。このような復讐心は、俗界期(死後間もなく通過する現実に近い霊的期間)においてのみ存在することができます。

 死後、彼らはアストラル界から日本の兵士の魂に、ロシア民族に対する憎しみと復讐心を浸透させました。神界に至ったとき初めて、彼らは自分たちの敵を赦すことができるのです。

 ――― 神界では、内にあった憎しみと復讐の雲が外から自分たちに向ってきて、このような感情かいかに恐ろしい、自分たちにふさわしくないものであるかを知るのです。霊的な探求は、いかに民族全体が祖先の影響下にあるかを明らかにしています。」
          (薔薇十字会の神智学・第五章)

 

 一方、それから約五年後の一九一六年の大本神諭には、次のように記されています。

「今度の外国の大戦争(おおたたかい)は、人民同士の戦争と思うて居ると、大間違いであるぞよ。日本の国の天と地との先祖と、向こうの国の先祖と、神と神、国と国との大戦争(おおたたかい)であるから、日本は霊(ひ)の元(もと)の根の国であるから、露国へ上げて在る悪の強い極悪神が、茲(ここ)まで悪を拓(ひら)く位な悪魔力(わるじから)が有るから、今までは、我の思うように、不足の無いように好き候(そうろう)に致して来たのを、末代の事をモウ是で為る事の無いように、日本の国の天地の先祖が陰に成りて、斯(こ)の世に無い神に成なりて、世を潰さんように守りて居りたから、未(いま)だ是位で、世が乱れなりに立ちて居るのであるぞよ。

世の本(もと)の力のある生神は、斯の世にないと思うて、此(こ)の世を悪で搦(から)みて、仕放題ほうだいの贅沢をいたして居りたが、茲までに致したらヨモヤ不足は在ろまい。不足がモ一ひとつ在あるのは、天地の先祖が許さんぞよ。

日本の国に神は無いと、未だ今に思うておる、露国へ上がり手て居る先祖の悪神の精神は、茲までの悪を働く極悪の性来の霊魂(みたま)なれど、末代の企(たく)みを為して居る事は、天地の先祖がモウ許さんぞよ。

 茲までは極悪神の思うように来たなれど、此の先の末代の仕組みて居る事は、モウ時節が許さんから、全部水の泡となるぞよ。

此の先の戦いの経綸(しぐみ)も、エライ企みを致して居るなれど、日本にも一寸(ちょっと)の経綸が為(し)てあるから、日本の国では地面が狭いから、海外(むこう)の国で、日本は神力なり、がいこくは学力なりの力比(ちからくら)べをいたして、日本の先祖の神力を見せてやるぞよ。」
               (大正五年七月二十三日)

 

 このように、シュタイナーも大本神諭も日露戦争が人間同士ではなく先祖あるいは祖先同士の戦いであるという霊的洞察をしていることが解ります。

 そうすると、この符合によって「人民が為て居るか、今度は神が為て居るかという事が、明白(ありあり)と分かる世が参りて来て、これは、此の世には神があると云う事が、天地から……。」(大正四年旧六月十五日)という預言も非常に説得力があるのです。

 

 また、先のシュタイナーの講義における、「恨みを持つ俗界期の死者の霊」は霊界物語では「副守護神」、「神界に到達した霊」は霊界物語では「本守護神」として描かれていることが解ります。

 

 (人智学)            (霊界物語) 

「恨みを持つ俗界期の死者の霊」 → 「副守護神」

「神界に到達した霊」       → 「本守護神」

 

 勿論、大本神諭の場合は、一八九二年には既に、「からと日本の戦いがあるぞよ。此のいくさは勝ち軍(いくさ)、神が蔭から仕組が致してあるぞよ。神が表に現われて、日本へ手柄致さすぞよ。露国から始まりて、モウ一戦あるぞよ。あとは世界の大たたかいで、是から段々判りて来るぞよ。」(明治二十五年旧正月)として、日清(一八九四年・明治二十七年)日露戦争(一九〇四年・明治三十七年)と第一次世界大戦(一九一四年・大正三年)の預言も明確に発していたことは、序章でも紹介したとおりです。

 

 いずれにしても、大本神諭の真相は我々凡人には理解が難しく、常に取り違いしている可能性を疑う必要がありますので、ここでは「このような可能性もあるかもしれない」、と言うに留めておきたいと思います。

 

 

(八)弥勒菩薩による救済の型

 未来に出現する弥勒仏の救いとは、何でしょうか。それには、人間にはいったい何が足りないために現在のような問題が生じているのかを認識する必要があります。そうすることで、現在の人間が必要としている救いの形が明らかになるはずだからです。

 

 人智学によれば、現在の人類の祖先が地上に現れたのは、はアトランティス時代を更に遡ったレムリア時代とされています。

 

【地球紀の七小循環】

.ポラール時代                (過去)

.ヒェペルボレイオス時代      (過去)

.レムリア時代                (過去)

.アトランティス時代          (過去)

.(ポスト)アトランティス時代(現在)

.第六根幹人類期              (未来)

.第七根幹人類期              (未来)

 

 ※注:付録:シュタイナーの哲学体系■3■参照 

       

 しかし、この時期は、月紀(地球記の前世時代)に天使存在から脱落したルシファーが、人間の進化を妨害し遅らせようとした時代でもあり、この時からルシファーは人間のアストラル体に影響を及ぼしはじめたのです。これによって、人間はそれまでのような霊的な状態に留まり続けることが出来なくなる危険に陥っていったとされます。

 

 さらに、ルシファーの影響が人間のエーテル体にまで及ぶようになると、そのままではエーテル体を使用できなくなり、人間は神々の慈愛を受け取る事すら出来なくなるという危険性が強まってゆきます。それは、同時に人間が地球進化期を歩めなくなることを意味していたといいます。

 ※注:付録:シュタイナーの哲学体系■2■参照 

        

 そこで、高次のヒエラルキアたちによって、人間のエーテル体を保護する必要性が生じたわけですが、シュタイナーは、その人間のエーテル体を各次元の働きによって次の四段階に別けています。

    

第一段階 …… 意志に相応する「火」あるいは「熱」のエーテ
       ル

第二段階 …… 感情に相応する「光」のエーテル

第三段階 …… 思考の表現形態としての振動である、霊的で精妙
       な「音響」のエーテル

第四段階 …… 思考感覚を付与する全ての生命基礎となる「生命
       」のエーテル

 

 レムリア時代には、ルシファーから人間を守るために、第一、第二段階のエーテルのみを人間が自由に使えるように残し、第三、第四段階のエーテルは人間から取り上げられ、神界に保存されます。そのため、人間は個人的に意志と感情を自由にできますが、言語と思考を民族の中で共有することになり、このために民族神(大天使)が存在することになります。つまり、現在の私たち人間は、さらに深い霊的の段階である「音響」のエーテルが自由に使えずに、神に守られながら隠されている状態にいるわけなのです。

 

     第一段階「火・熱のエーテル」
   第二段階「光のエーテル」     ⇒ 人間が自由にできる

       第三段階「音響のエーテル」
   第四段階「生命のエーテル」     神界に保存されている

 

 そして、シュタイナーは次のように述べています。

 「ゾロアスターは霊界を指さして、弟子たちに『天から熱、火が下ってきている。天から光が下ってきている。熱と光はアフラ・マズダの衣だ。だが、この衣の背後に、まだ霊の高みに留まって地に下っていない存在がいる。アフラ・マズダは、物質世界における人間の思考と言葉の中に自らの影を留めている。』と説きました。

 太陽の熱と光の背後に音と感覚の中に生き、光の背後を垣間見ることができる者にだけ自らの姿を顕わに示す神が存在するのです。天界の言葉が、人間から取り上げられた部分の生命に相当するように、この太陽神は地上の言語に関係しています。『アフラ・マズダを見上げよ。光と熱の衣の中にアフラ・マズダは示現する。そして、光と熱の衣の背後には創造する言葉が或る。この創造する言葉は地に下りつつある。』とゾロアスターは説きました。

 それでは、ヴィシュヴァ・カルマン、アフラ・マズダ、キリストの真の姿は何なのでしょう。

 神的な創造する言葉です。ですから、ゾロアスターが秘儀に参入して、光の中にアフラ・マズダを感得した時、神的な創造する言葉であるホノヴェルを感得したのは注目すべきことです。

 この言葉は地に下り、ヨハネによる洗礼によって、一人の人間のエーテル体に受肉することになります。レムリア時代に人間から取り上げられて霊界に保存されていた言葉は、ヨハネによる洗礼によって、エーテルの高みからナータン系のイエスのエーテル体に下ったのです。この洗礼によって、『言葉』は肉となったのです。

 ゾロアスターは熱と光の背後にある『言葉』について説きました。彼は、『言葉に仕える者』だったのです。ルカ福音書の著者も、『自己を霊視すること』によって言葉に仕える者となった人々が説いてきたことを書き留めたのです。

 福音書に記されていることは言葉通りに受け取る必要があります。ルツィフィル(ルシファー)のために人間から取り上げられていたものが、一人の人間の中で肉となり、地に下り、地上で生きたのです。

 この偉大な存在の本質を理解するために、私たちは地上で菩薩から智を受け取る必要があります。菩薩たちはいつも、自分たちの源根に十三人目の太陽神がいることを告げてきました。霊学は、ヴィシュヴァ・カルマン、アフラ・マズダ、すなわちキリストの存在と本質に貫かれた叡智と霊的探求の成果を総合するものなのです。」
        (シュタイナー著「仏陀からキリストへ」)

 

 以上のように、ゾロアスターは、アフラ・マズタの衣を光と熱とし、その背後には「創造する言葉」が存在し、その創造する言葉が地に降りつつあることを解いていた、とシュタイナーは述べています。

 

では、この「音響のエーテル」「創造する言葉」とは何かということですが、第一章では「弥勒仏の語る言葉には霊力があり、それを聞いた人の中に道徳的衝動が喚起されます。聖ヨハネがキリストについて『そして言葉は肉となった』と書いたのに対して、弥勒仏の福音は『そして肉は言葉となった』と記されるでしょう。」という内容がありました。

 

 

この『そして言葉は肉となった』の解釈ついて、シュタイナーは「レムリア時代に人間から取り上げられて霊界に保存されていた言葉は、ヨハネによる洗礼によって、エーテルの高みからナータン系のイエスのエーテル体に下ったのです。この洗礼によって、『言葉』は肉となったのです。」 (上記参照)と述べているのです。

※注 : 第一章■四■(一)参照

 

 これに対して、弥勒については「未来仏は言葉(ロゴス)をとおして善をもたらす者である。」と語っていたわけです。

すると、弥勒菩薩とは、「音響のエーテル」(キリスト、アフラ・マズダ)によってそれを聴く人に道徳的衝動を喚起させる存在であると考えられるのです。それは、日本的に解釈すれば「音響のエーテル=創造する言葉=言霊」に他なりません。

 

つまり、熱(愛)、光(叡智)のエーテル次に人類にもたらされるエーテルは、音(言霊)ということになります。そして、『肉は言葉となった』という弥勒菩薩の福音とは、「人間(肉体)を霊化する言霊」なのではないか、と推測することができます。

 

 霊界物語四十四巻・第八章の中では、光と熱、また聖者の言霊について次のように記されています。

「高天原の天国に   住む天人は人のごと

 智性と意思とを皆有す   智性的生涯を作り出す

 ものは天界の光なり   そはこの光は神真の 

 中(うち)より出づる神智ぞや その意思的生涯作り出す

 ものは天界の熱と知れ   そのこの熱は神の善

 これより神愛出づるなり。」  

 

 「天地の太初(はじめ)に道(ことば)あり 
              道(ことば)は神と共にあり

 道(ことば)は即はち神なるぞ 万物これにて造らるる 

 造られたるもの一(いつ)として 之に由らずして造られし

 ものは尠(すこ)しもあらじかし 之には清き生命あり

 生命は人の光なり   かれ世に在(いま)し世は彼に

 全く造り上げられぬ   けだし道(ことば)は肉体と

 なりた吾曹(われら)の間に宿る
              吾その光栄を見たりてふ

 聖者の道(ことば)は主(す)の神の 
              力を意味するものぞかし

 いかんとなればそは道(ことば)
              肉体となれりといふに由る

 されど道(ことば)はことさらに 何を表はすものなるか

 知るもの更に無かるべし   
        これより進むで亀彦(物語の登場人物)は

 いと細やかに説示せむ   道(ことば)といふは聖言ぞ

 聖言すなはち神真ぞ   この神真は主の神に

 存し玉へば主(す)神より   現はれ来る光なり

 光は主神の神真ぞ   高天原にて一切の

 力を保つは神真ぞ   神真なくば力なし

 故に一切の天人を    呼びて力と弥ふなり 

 実(げ)に天人は神力の  所受者なるのみならずして

 神力を収むべき器なり   
          如上(にょじょう)のごとく観ずれば

 天人すなはち力なり   この神力を保つゆゑ

 地獄界まで制裁し   そこに反抗するものを

 全く制禦(せいぎょ)し得らるなり たとひ数万の叛敵の

 現れ来る事あるも   高天原の神光と

 称えまつれる神真ゆ   かがやき来る一道の

 光明に遭ひしその時は   ただちに戦慄するものぞ

 以上のごとく天人の   天人たるは神真を

 清けく摂受し得るゆゑに   全天界の根源を

 組織するものは神真の   光に決して外ならず

 そは天界を組織する   ものは天人なればなり。」

 

 つまり、聖者の道(ことば)は主の神の力を意味し、道(ことば)は聖言であり、聖言は神真であり、神真は主神の光であるので、一切の天人はその神力を収める器であり、その天人の聖言の神光は地獄や多数の敵をも制し得る神力があるということです。

 

 さらに、昭和十七年には「一厘の仕組みとは言霊であって、これを呼び起こすのである。大本では演習したのである。」(新月の光・上巻・三章)とも語っているのです。

 

 私たちは、現代においても美しい歌声を耳にすると、その声に心が共鳴し、歌詞に共感を呼び起こすことができます。また、生理的にも脳波が変化したり、病気に対する抵抗力が向上したりするなどの変化もあります。
 したがって、六千年目に実る桃の時代には、弥勒仏は人間の心魂に直接響くような言霊を発することで、音楽によって歓喜を呼び起こすように人類を道徳に導くのかもしれません。

 

 そして、その説法は、神霊界の法則と現界の法則を一致させるためであり、人間においては道徳によって智と行を一致させるためでもあるはずです。
 人間が道徳的に知行合一すると、人間の「言葉」とは常に「真実」を意味することになり、真実の「言葉」は神徳による力を宿し、人の心と現実を動かします。
 それが龍神や妖精といった霊的対象に及べば天地を動かす「言霊」となり、この世は「言霊の幸はふ国」となってゆくとも考えられるのです。

 

 つまり、私たち人間は神愛(熱のエーテル)と、神智(光のエーテル)を深めることによって、言葉に神力(音響のエーテル)を得るようになるわけです。そして、先の霊界物語の続きには次のように口述されています。

    「思想や言語は自身にて   力を有するものならず

    主神の命に従ひて   活動する時始めてぞ

    力を生ずるものとなす」 

 


制作者関連

制 作:咲杜憩緩

ブログ:地球の救い方
     ルドルフ・シュタイナー
        の人智学に学ぶ


著書:ルドルフ・シュタイナー
   と出口王仁三郎の符合