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                The agreement of Rudolf Steiner and Onisaburo Deguchi
                   ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符合
                                                                   咲杜憩緩

 ■四■ 弥勒菩薩の言葉の力



シュタイナーによる弥勒菩薩についての講義より

「今日の霊学の内容は、浄飯王(じょうぼんのう)の子である菩薩が仏陀となった時に説いた東洋の霊智とは変わることころはありません。釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の説いた教えを実現するのは次に仏陀になる菩薩の仕事だと言われています。

 この菩薩は全世界に、真のキリストを啓示する光の智を伝えることになります。パンディラのイエスに受肉した菩薩はキリスト衝動の偉大な師となりました。

 このことは、菩薩ヨサファットがいかにキリスト教の師バルラームから教えを受けていたかを伝えている。『バルラームとヨサファット物語が』明瞭に示しています。

 将来、弥勒仏となるこの菩薩を、東洋の神秘学者は『善をもたらす者』と呼んでいます。今日の人間にはその概念を持つことができない程の高次の段階の言葉の力が弥勒仏の中に存在することになる、と神秘学は考えています。

 高度の霊的感覚器官によって世界の進化を知覚することによって、三千年後に弥勒仏が説く教えを知ることができます。その説法は、象徴的な形で語られますが、人類はまだ十分に成熟していないので、弥勒仏が語るような言葉を語ることはまだできません。

 仏陀は、正しい意見、正しい判断、正しい言葉、正しい行為、正しい見地、正しい努力、正しい記憶、正しい確認の八正道(はっしょうどう)という形で、偉大な智を与えています。

 弥勒仏の語る言葉には霊力があり、それを聞いた人の中に道徳的衝動が喚起(かんき)されます。聖ヨハネがキリストについて『そして言葉は肉となった』と書いたのに対して、弥勒仏の福音は『そして肉は言葉となった』と記されるでしょう。」

 

以上は、R.シュタイナーの邦語訳書『仏陀からキリストへ』(書肆風の薔薇)第七講より、『弥勒菩薩の特徴』の講義の一部を抜粋

 

(一)高次の段階の言葉の力を持つ弥勒菩薩について

  

 シュタイナーは、自身でも言葉の持つ母音と子音の解釈を西洋的な表現で説明しており、アイウエオの母音を霊的なものとし、子音を物質的なものだとしています。
 さらに、魂は母音によって表現され、霊的な高次元の世界に移行すると、子音は消え、母音だけで歌われる宇宙の歌が聴こえるのだといいます。

 

  「地上界では、空気のおかげで話したり歌ったりできます。音を空気によって形成するとき、そこに私たちは、霊的=魂的なものの地上的模像をもっているのです。

  音の霊的=魂的なものは、もともと超感覚的世界に属しています。地上界で空気の中に模像として生きているものは、音の身体なのです。

 ですから音の実体が霊界にあると聞かされても、驚く必要はありません。地上に由来する子音の働きだけは失われていますが、母音の働きも音の働きも、霊界で失われることはありません。

 ただその音には内的に魂が込められています。母音は、外的に子音によって形が与えられるのではなく、その代りに内的に魂を吹き込まれるのです。このことは、霊界では常に言えることです。」

 

 「牡羊座を背後から見ますと、子音が聴こえます。そのとき、多分土星が牡羊座の背後で、子音を響かせています。土星から宇宙空間へ輝き出ている、この母音の中に、牡羊座または牡牛座の子音が生きているのです。母音によって宇宙空間に歌いかける惑星領域の歌唱に、子音の魂を吹き込む恒星たちがいるのです。
 どうぞこのことを生き生きと心に思い浮かべて下さい。より静止している恒星領域その背後で移動する惑星群のことをです。或る惑星がある星座のかたわらを移動しますと、音というよりは、一大音響世界を鳴り響かせます。
 それぞれの惑星は、それぞれ別の音響を鳴り響かせます。
 恒星天はすばらしい宇宙楽器であり、その背後で、私たちの惑星群が演奏者として、恒星天の楽器を奏でます。
 ですから――もともと、宇宙での霊的な位置確認から歩行が地上生活のために生じたように――地上生活のための言語をもとの歌唱に還元しますと、その歌は、私たちを生まれる以前の霊的生活へと戻るようにいざなうのです。そもそも芸術とは、そういうものなのです。芸術は次のように語ります。――「人間は地上に生まれて、地上の状況に適応しなければならない。しかし芸術生活を営む人間は、一歩後退する。周囲では地上生活が続いていくが、一歩後退して、生まれる以前の、霊的=魂的な生活に戻る」。

             (1922(大正11)年12月2日)

(シュタイナーコレクション2内面への旅 第三部・音と言葉の由来)

     (音楽の本質と人間の音体験 音と言葉を通しての人間表明)


  シュタイナーは、こうした叡智を舞踊芸術オイリュトミーとして芸術・教育・治療にも応用しています。

 

 一方、出口王仁三郎は、山口志道の言霊学(ことだまがく)を「体」とし、中村孝道の言霊学を「用」として位置付け、この双方を統合した言霊学の偉人です。

 王仁三郎は祖母が言霊学者・中村孝道の妹であったため、十歳の頃には言霊学を既に学んでいたといいます。
出口王仁三郎と大本(1)参照

 その後、27歳の時には大石凝真素美(おおいしごりますみ)と出会い、ここでも言霊学について学ぶ機会があったとされています。
第二章■三■(四)参照
第四章■二■(六)参照

 そして王仁三郎自身も、次のように述べており、これについては、シュタイナーの母音と子音の解釈に通ずるものがあります。

 「一霊四魂を代表する音声は、アオウエイの五大父音である。宇宙の根本の造化作用は、要するに至祖神の一霊四魂の運用の結果なのである。」

 「『道(みち)』は充ち満つるの意である。この宇宙には言霊が充ち満ちている。すなわち一つの機械でも動かせば非常なる音響を発するごとくに、この宇宙も大旋回しているから、非常な大音響をいつも発している。

 すなわち、アオウエイの五大父音が鳴り鳴り鳴り止まずにいるのである。音響もまた言葉の一種である。意識的に発するのが言葉であり、無意識に発するのが音響である。とにかく、言葉は『道』であり『神』である。」 

                    (昭和七年四月・玉鏡)

 

 「この大宇宙には、アオウエイの五大父音が鳴りなりなりて鳴りやまず不断に轟いている。そしてこの父音より発する七十五声音の音響は、種々さまざまに相交錯して、音楽のごとく、鳥の声のごとく、秋野にすだく虫の音のごとく、微妙の音声を絶えず放っている。 
 この微妙の音声は、天地進展の響きであって、これによって森羅万象一切が育成発達を遂げているのである。」

                       (昭和六年・玉鏡)

 

 「宇宙にはアオウエイの五大父音が間断なくなり響いているが、人々が発する正しからざる言霊によってはこれが濁るのであるから、つねに天津祝詞を奏上して音律の調整を行うのである。」   
                     (昭和八年十月・玉鏡)

 また、大本の本部、綾部の金龍海(写真:右)には、言霊の五大父音を象徴する五つの島が造られ、その湖面には言霊の水茎文字が現われるとされています。

 1919年(大正8)には、その湖畔に言霊閣を建立し、七十五声を象徴する言霊の鈴(写真:右下)と天津金木が鎮斎されています。

金龍海
言霊の鈴









 さらに、大本幹部の中から「言霊隊」を組織し活動したほか、合気道の創始者である植芝盛平翁にも影響を与えています。

 

 その他にも王仁三郎の言霊に関する逸話は実に多く、彼は言霊によって神を示し、信仰を広めたと表現しても過言ではないほど、言霊学に根ざして教義を語っていたのです。

 

 このように、言霊を西洋的に解釈していたシュタイナーが示す弥勒菩薩の特長を、王仁三郎が存分に発揮していたことは明らかなのです。


   

「大霊能師 出口王仁三郎 奇跡の肉声」 YouTubeより(三木神戸氏)
  「出口王仁三郎 言霊録CD(みいづ舎)」の一部抜粋と思われます。

 下画像は現在の金龍海

  

(二)弥勒仏の福音は「そして肉は言葉となった」と記されることについて

  

 ここでは、シュタイナーは弥勒菩薩ではなく三千年後に弥勒仏となる存在の福音について述べているので、この言葉の真意はその時が来るまでは解らないといえます。

 ただし、出口王仁三郎は言霊学について、次のようにも述べています。

 「新約聖書のヨハネ伝首章には、言霊の秘事を漏しあり。

  曰く『太初に道(ことば)あり。道は神と供にあり。道は即ち神なり。この道は太初に神と供に在りき。万の物これに由て造らるる。云々』

即ち宇宙万有の主宰に座しませる全一大主神は、言霊を以て天地を創造し、且つ経綸を創め玉ひし事を知るべし。

 現代の世界の大難を救ひ、万民を安堵せしめ万世不易の神国を招来せむとするは、到底今日の軍器や軍法や教育や政治や宗教や哲学では絶対に不可能である。

  然らば最後の秀斎は何を以て之に当るか。他でも無い天津神の依さし給ひし八咫鏡、即ち言霊の妙用にほかならぬのである。」

                   (神霊界 大正七年四月一日) 

 この王仁三郎の言葉は「肉は言葉となった」という解釈とは異なるものの、肉体を持った人間が善言美詞を常とすることによって、万民が安堵できる神国(みろくの世)を招来するためには必要不可欠であることが解ります。それは、ある意味では物質次元から霊的次元への上昇であり、肉が言葉になることを暗示しているのかもしれません。



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制 作:咲杜憩緩

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著書:ルドルフ・シュタイナー
   と出口王仁三郎の符合