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さて、ここまでシュタイナーの弥勒菩薩に関する講義と出口王仁三郎の足跡を辿ることによって、その共時性を探ってきました。しかし、必ずしも現実的な視点では、全て符合しているようには感じられない部分もあります。
例えば、「釈迦・観音・弥勒とは誰か」(水声社)という書の中では、シュタイナーの「弥勒問題」について次のような内容が記されています。
「一九二一年の夏、シュタイナーは、シュタイナーの助言を仰いで創設されたキリスト者共同体(宗教改新運動)の司祭フリードリッヒ・リッテルマイヤーに、『もし私たちがもう十五年生きたら、イエス・ベン・パンディラが今世紀のはじめに生まれたことについて、何かを体験することができる』と語っている。イエス・ベン・パンディラ、すなわち弥勒は二十世紀初頭に生まれているという指摘である。
さらに、シュタイナーの講演の速記者であったヴァルター・ヴェゲラーンは、誰が弥勒菩薩なのかを知りたいと思った人智学者たちに、シュタイナーが一九一〇年、『私ではない。……私の個体はイエス・ベン・パンディラとは何の関係もない』と語った、と伝えている。」
以上のシュタイナーの言動をそのまま受け止めると、弥勒菩薩の生まれ変りであるイエス・ベン・パンディラは、一九〇〇年代初頭に出生し、一九二一年の十五年後の一九三六年頃になれば、何かを体験することができる。という意味に受け取ることができます。そのため、一九三六年には六十五歳になっていた王仁三郎の年齢とは符合しないのです。
しかし、一九〇〇年代初頭といえば、一九〇一年に出口王仁三郎にはスサノオの霊が降りた時期でもあります。また、一九二六年(五十五歳)にはパリで「国際大本」が創刊され、一九二八年(五十七歳)に「みろく大祭」が行なわれミロク神業が開始されています。そして、一九三四年(六十三歳)には人類愛善新聞が三月三日号をもって百万部拡張を達成し、その活動範囲は中国、東南アジア、北・中・南米、欧州大陸にまで及んでいたのです。
つまり、シュタイナーが「何かを体験する」の言うように、一九三六年頃にはヨーロッパにも大本の布教が届くようになっていったのです。しかし、残念なことにシュタイナーは、一九二五年に他界してしまうのです。これも、何らかの神慮と受け止めるべきかもしれませんが、シュタイナーがあと十年ほど長く存命していたら、出口王仁三郎に弥勒菩薩の存在を認識していたかもしれません。
以上から、イエス・ベン・パンディラの生まれるというシュタイナーの見解が、子供として受肉することだとすれば、王仁三郎ではないことになります。しかし、三十歳から三十一歳の肉体の自我に素盞鳴尊が降りたことが弥勒菩薩の誕生にあたり、五十七歳のみろく大祭で弥勒菩薩と一体になったと解釈すれば、それは出口王仁三郎であるということがよりいっそう真実味を帯びるのです。
また、先の書では、セルゲイ・プロコフィエフという人智学者が、『ルドルフ・シュタイナーと新しい秘儀の基礎』(一九八二年)のなかで、弥勒菩薩は、一九〇二、三年からシュタイナーのアストラル体に浸透しはじめ、シュタイナーは自分のアストラル体を犠牲にして弥勒菩薩の高次の霊的本質が自由に使えるようにし、一九〇六、七年からはシュタイナーを通して弥勒菩薩が語り始め、十九一〇年に完了したと推測していたといいます。
確かに、シュタイナーのこの時期(一九〇二―一九〇九年・四十一―四十八歳)は、人智学第一発展期として分類され、人智学協会などでもキリストや仏陀の霊的な活動の経緯などを集中的に語っています。その意味で、一九〇〇年代初頭、弥勒菩薩はシュタイナーのアストラル体に降りて自身の転生の「型」の秘密を明かし、同時に、出口王仁三郎を導くことでミロクの「型」を示し、王仁三郎が五十七歳六ヶ月の時に王仁三郎の自我に弥勒菩薩が完全に降って教えを説いたと推測することもできます。
いずれにしても、この一九三六年問題と王仁三郎の働きについては、第二章■六■で改めて詳細に考察してゆきます。その一端を明かせば、シュタイナーは聖書の預言の成就がこの一九三〇年代半ばであるとしており、この時に起こっていた第二次大本事件と注目すべき符合が数多く発見できるのです。