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このサイトはルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎という東西の二人の巨匠が残した言動について、その符合点から霊的真実とその法則性とを明らかにすることを試みています。
彼らが残した講義や文献は非常に膨大であり、ルドルフ・シュタイナーのみ、あるいは出口王仁三郎のみの霊的な認識内容を読み解くだけでも多くの時間と注意力を要する作業になります。
そのため、本編で取り上げている内容も非常に多義に渡り、その個々の符合点を深く掘り下げようとすればする程、複雑化してゆきます。そのため、「読んでいる方々がその本質や深意を理解する前に、読み進める事に嫌気が指してしまうのではないか……。」という懸念を常々感じてきました。
そこで、「本編では全体を通してどのような内容についての符合点を取り上げ、また、その符合点からどのような深意を読み取ろうとしているのか」を知っていただこうという趣旨で、本編のダイジェスト版も言える『概要』を設けることに致しました。
これを予備知識として携えて本編を読み進めていただければ、関心の無い部分を飛ばし読みしていただいたり、関心のあるテーマのみを拾い読みしていただいたりすることも容易になると思います。
まず最初に、ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎という人物を知らないという方のために、「ルドルフ・シュタイナーと人智学協会」と「出口王仁三郎と大本」と題して、彼らの生涯について簡潔にまとめています。
ただ、既に本やブログで内容を知っている方でも、本サイトではHPの利点を生かして You Tube や Googleマップ などを取り入れていますので、今までとは一味違った感覚で楽しみながら読み進んでいただけるとのではないかと思います。
次に、本編の最重要点を簡潔に表現するとすれば、
●第一にシュタイナーは当時、既に弥勒菩薩が転生していると霊的に洞察しており、講義の中でその特長を語っているのですが、その内容が同時代を生きた出口王仁三郎の足跡や言動と一致している点が非常に多いこと。
●第二に、シュタイナーは新約聖書の中でイエスが予言した「キリストの再臨」について、その準備を弥勒菩薩がすると語っているのですが、この聖書における「キリスト再臨」の預言が、第二次大本事件と当時の日本の状況に多くに点で一致していること。
●第三に、シュタイナーが語ったキリスト存在の霊的活動が、大本の出口直開祖に降りた艮の金神・国祖国常立之尊の働きと極めて多くの点で一致していること。
という三点であると言って良いと思います。
この三点の符合を第一章、第二章で探求し、このキリスト教と仏教の伝説の霊的融合を認識することが、私たち個々人、ひいては人類全体の、カルマ、死後の霊層、輪廻転生、来世の身霊の力、といった霊的道程に多大な影響力が生じることを第三章で取り上げています。
第四章では、彼ら二人の符合だけでなくエドガー・ケーシーのリーディングやシルバーバーチの霊訓、などとの符合点も取り上げています。それは、霊的な真実とその法則性を様々な角度から多面的に認識する訓練になり、同時に固定観念や独善を未然に防ぐことにもつながると感じるからです。これによって、「みろくの世」や「地上天国」と呼ばれる社会に必要とされる特定の宗教戒律に縛られることのない、霊的な寛容性による「信教の自由」と「万教同根」について認識を深めてゆきます。
それでは、下記に各章についてのより具体的な概要を示してゆこうと思います。
第一章と第二章を読み進める上での要点を取り上げておきたいと思います。
ルドルフ・シュタイナーは、現在私たちが地球と呼んでいる状態の星の過去と未来について、7つの文化期に分けています。
(1)インド文化期 〔紀元前7227〜前5068年〕
(2)ペルシア文化期 〔紀元前5067〜前2908年〕
(3)エジプト・カルディア文化期 〔紀元前2907〜前 748年〕
(4)ギリシア・ローマ文化期 〔紀元前 747〜後1412年〕
(5)第五アトランティス文化期 〔紀元後1413〜後3572年〕
(6)第六文化期(ロシア文化期) 〔紀元後3573〜後5732年〕
(7)第七文化期(アメリカ文化期)〔紀元後5733〜後7892年〕
シュタイナーは、このそれぞれの文化期を通して、私たちがキリストと呼ぶ存在が各時代の予言者たちを導き、人類の霊的な進化を推し進めてきたとしています。
その際に、各時代の預言者たちは、キリスト存在に対して各々独自の名で神を表現してきたことについて、次のように述べています。
「秘儀のなかでは、キリスト存在は常に知られていました。古代インドの七人の神仙たちはキリストをヴィシュヴァ・カルマン(毘首羯磨)と呼んでいました。ゾロアスターはキリスト存在をアフラ・マズダと名付けました。エジプトではキリスト存在はオシリスと呼ばれました。ユダヤ民族はキリスト存在をヤハウェと呼びました。そして、第四文化期にこの存在は三年間地上に生きました。」
(輪廻転生とカルマ)
(1)インド文化期 〔紀元前7227〜前5068年〕
古代インドの七人の神仙 → ヴィシュヴァ・カルマン
(2)ペルシア文化期 〔紀元前5067〜前2908年〕
ゾロアスター → アフラ・マズダ
(3)エジプト・カルディア文化期 〔紀元前2907〜前 748年〕
古代エジプト → オシリス
ユダヤ民族 → ヤハウェ
(4)ギリシア・ローマ文化期〔紀元前 747〜後1412年〕
キリスト(三年間イエスに降る)
(5)第五アトランティス文化期 〔紀元後1413〜後3572年〕
キリスト(エーテル界に再臨)
(6)第六文化期 〔紀元後3573〜後5732年〕
キリスト(アストラル界に出現)
(7)第七文化期 〔紀元後5733〜後7892年〕
キリスト(宇宙自我に出現)
この中で現在から未来の文化期(5)(6)(7)について、シュタイナーは次のように述べています。
「現在の第五文化期において、道徳的な行為に喜びを感じないとしても、知力が損われることはありません。第六文化期においては様子は全く異なってきます。紀元三千年頃から、悪徳は知能を崩壊させるようになります。知的でありながら不徳である人間の心的能力は、どんどん退化してゆきます。道徳を顧みない人間は全く知力を失った人間になります。知が全く徳に基づくものになるからです。第七文化期においては徳を有しない知は存在することができなくなります。」
(仏陀からキリストへ)
(5)第五文化期(魚座文化)
は、1413年頃からの約2160年間
(6)第六文化期(水瓶座文化)は、3573年頃からの約2160年間
(7)第七文化期(山羊座文化)は、5733年頃からの約2160年間
シュタイナーはこの地球の霊的な進化を導く中心的存在がキリスト存在がイエスを通して地上に3年間降ることを予見し、準備を重ねてきたのがゾロアスター、ヘルメス、モーゼ、釈迦、弥勒、マニ、といった預言者たちであったとしています。
こらの預言者は、昇天後から現在においても霊的に活動をしているのですが、その中で特に私たちが弥勒菩薩と呼ぶ存在は、地上に何度も繰り返し転生し、極めて重要な働きを続けるとしています。
現在、私たちが弥勒菩薩と呼んでいる存在は、イエスが誕生するおよそ百年前に、ユダヤ教の一分派であるエッセネ派教団の指導者イエシュ・ベン・パンディラとして地上に受肉し、キリストが地上に降る準備をしたのだとしています。
「キリスト事件は、エッセネ派に関係のある人物、イエス・ベン・パンディラをとおして準備された。彼は、二人のイエスがパレスチナに生まれる百年前に生まれた人物である。」
さらに、シュタイナーは、(4)ギリシア・ローマ文化期〔紀元前 747〜後1412年〕に『キリストが地上に三年間受肉』したことに次ぐ霊的な大変化が、(5)第五アトランティス文化期〔紀元後1413〜後3572年〕における『エーテル界へのキリストの出現』によってもたらされるとしているのですが、当時それが間近に迫っていることを予見していました。
1913年5月2日の、ロンドンにおける講義のなかで、次のように語っています。
「十九世紀における、このキリストの供犠は、ゴルゴダの秘儀における物質界での供犠に比較できます。それは、『エーテル界におけるキリストの二度目の磔刑』ということができます。」
(エーテル界におけるキリストの出現
「ゴルゴダの秘儀と20世紀のキリスト」)
この『エーテル界へのキリストの出現』は、イエス・キリストが新約聖書の中で預言していたことが成就されることによって起こるとしているのですが、ルカ福音書第二十一章(マルコ第十三章・マタイ第二十四章)では、『人の子の来臨の前兆』の次の『来臨』と題された福音の中で、次のように記されています。
「しかしエルサレムがローマの軍勢に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたと知れ。その時ユダヤの地平における者は急いで山に逃げよ。都の中におる者は立ち退け。田舎におる者は都に入るな。これは聖書にかいてあることが皆成就する“神の刑罰の日”だからである。
……中略……彼らは剣の刃に倒され、あるいは捕虜となってあらゆる国々に散らされ、また“エルサレムは”いわゆる異教人時代が終わるまで、“異教人に踏みにじられる”であろう。
日と月と星とに世の終わりの不思議な前兆があらわれ、地上では海がどよめき荒れ狂うため、国々の民は周章(あわ)てふためき怖じまどい、全世界に臨もうとしていることを思って、恐ろしさのあまり悶え死にするものがあろう。
するとその時、人々は“人の子わたしが”大いなる権力と栄光をもって、雲に乗って来るのを”見るであろう。そこでこれらのことがおこり始めたら、体を伸ばし、頭をあげなさい。あなた達のあがないの時が近づいたのだから。」
(福音書岩波文庫)
この『するとその時、人々は“人の子わたしが”大いなる権力と栄光をもって、“雲に乗って来るのを”見るであろう。』という福音は、地上にキリストは受肉するという意味ではなく、「エーテル界にキリストが出現する」という意味であり、それによって、人類の多くが徐々にエーテル界のキリストを見ることができる霊的な能力を発達させることになる、シュタイナーは霊的に洞察していたのです。
「――前略―― この心魂能力の最初の兆候は、個々の心魂のなかで、比較的速やかに気づかれるでしょう。一九三〇年代なかばに、その兆候ははっきりと示されるでしょう。およそ、一九三〇年から一九四〇年の間です。一九三三年・一九三五年・一九三七年が、特に重要でしょう。特別の能力が自然な素質として、人間に現われるでしょう。大きな変化が生じ、聖書の預言が成就されるでしょう。」
(エーテル界へのキリストの出現)
シュタイナーは、この『聖書の預言の成就』と、『エーテル界へのキリストの出現』という極めて重大な霊的見解を、弥勒菩薩から霊感を受けた事によって述べてているとして、一九一〇年九月十日の講義の中で、次のように語っています。
「弥勒仏となる菩薩からの霊感を受けて、私たちはこう語るのです。私たちはなんらかの宗教信条の意味で、キリストが再び物質界において知覚できるようになる、というつもりはありません。けれどもひるむことなく、語ろうと思います。―――『われわれは真理であると認識する故に語るのだから、どんな結論になろうが、かまわない。われわれは東洋の宗教教義を偏愛するつもりもないが、未来においてキリストがどのように出現するのかを、菩薩自身から霊感を受けて、われわれはこう語るのだ。』」
「(エーテル界への)キリスト出現の成果は、人間が高次の力を発達させて、霊界から作用するキリストを、この新しい力で霊視するようになることなのです。そして私たちの課題は、現代の歴史的な戦い(第一次世界大戦)の意味を理解して、かつてエッセネ派のイエス・ベン・パンディラがダビデ家の獅子キリストを予見したように、現代におけるキリスト出現の意味を指示することなのです。」
(シュタイナーコレクション5・第十講)
シュタイナーは、弥勒菩薩は一九〇〇年初頭に再び地上に誕生しており、一九三六年前後になれば何かを体験することができる、としていましたがこの時を待たずシュタイナーは一九二五年に他界してしまうのです。
また、シュタイナーは、弥勒菩薩は今後も転生を繰り返し、今から三千年後に最後の転生の時に弥勒仏となると予見しています。
「キリスト衝動の最も偉大な師は弥勒菩薩で、彼は三千年後に弥勒仏になるまで何度も地上に受肉します。東洋のアカシャ年代記の記憶は真実です。釈迦が菩提樹の下で悟りを開いてから五千年後に、弥勒は最後の地上への受肉をするのです。」
ここまで、ルドルフ・シュタイナーのキリストと弥勒菩薩に関するの見解を取り上げてきましたが、シュタイナーが予見しいた『聖書預言の成就』『エーテル界へのキリストの出現』『弥勒菩薩の転生』について、シュタイナーが他界した後の人智学教会では、公にはそれを証明するような見解は聞かれませんし、その決定的な証拠を明らかにしていないようにも思えます。
しかし、シュタイナーは次のような言葉も残しているのです。
「パンディラの子としてパレスティナでのキリスト出現のほぼ一世紀前に、投石刑に処せられたあのイエス(・ベン・パンディラ)が現代に生まれ変わって、キリストの出現を教示したと仮定しますと、そのキリストは肉身のキリストのことではなく、エーテルの衣装をまとって現れるのでなければなりません。ちょうどダマスコ郊外でパウロに現れたときのようにです。
そして私たちはこの点において、生まれ変わってきたイエス・ベン・パンディラを認めることができるでしょう。しかし、その一方で大切なのは、私たちがいつか弥勒仏となる存在から、キリストが私たちの時代に出現するであろうと学ぶことなのです。つまり新エッセネ派の存在を見つけ出すことなのです。」
そして、大本の出口王仁三郎の足跡や、出口直開祖に神懸りした艮の金神・国祖国常立之尊について認識を深めてゆく時、当時、シュタイナーや人智学教会の人々が見つけ出そうとしていた『弥勒菩薩が転生した存在』とは出口王仁三郎であり、その組織である新エッセネ派の存在とは綾部の大本だったのではないか、という事実を証明する証拠が無数に発見できるのです。
特に、出口王仁三郎は、霊界物語に次のような余白歌を詠み込んでおり、弥勒の教えが霊界物語の中に示されていることを強調しているのです。
この神書(しんしょ)もし無かりせば地の上に
弥勒の神世は開けざらまし
天火水地(てんかすいち)結ぶ紫色(ししょく)の宝玉は
弥勒神示の霊界物語(ものがたり)なり
古(いにしえ)の聖(ひじり)も未(いま)だ説かざりし
弥勒胎蔵の吾は道説く
第一章では特にシュタイナーの弥勒菩薩についての講義と出口王仁三郎の言動の符合点を簡単に取り上げています。
第二章の前半では、釈迦が弥勒菩薩の下生を予言した『弥勒下生仏経』と、それに関するシュタイナーの講義を下に、
■【弥勒菩薩が洞窟でを彼を待つ大迦葉と出会う経緯】と、
■【京都府丹波穴太の高熊山で修業をした出口王仁三郎と、その昔、穴太の皇子この山で一生を送ったとされる経緯】
を対比しています。
また、出口王仁三郎は『人間は木からうまれた』として語った「足魂(たるむずび)から生魂(いくむずび)が出る。大きな木が腐って人間が生まれた。恰(あたか)も小豆に虫が発生し、椚(くぬぎ)に甲虫(カブトムシ)が出来、また栗の木から栗虫ができるようなものである。」(一九二七年六月・水鏡) といった耳を疑うような言葉の真意についても、ゾロアスター教の神話に登場する「人間樹(リーワス)」や、シュタイナーの著書『アカシャ年代記より』の中で明かした「魂の大樹」との符合点を基に霊的な認識を深め行きます。
第二章■六■では第一章の内容を具体的に証明する証拠を、聖書の預言、第二次大本事件、第二次世界大戦、という歴史的事実から考察しています。
それによって、シュタイナーが予見した『聖書預言の成就』と『エーテル界へのキリストの出現』が当時の日本において、特にその中心地である綾部の大本において成就されていたことを証明することを試みています。
第二章■七■では古代エジプトのオシリス神の働きに関する人智学的見解が、大本における艮の金神・国祖国常立之尊の存在と極めて多くの点で符合していることを取り上げています。
さらに、新約聖書の中でイエス・キリストが残した『無花果の木をはじめ、すべての木を見なさい。すでに芽が出ると、それを見て、ひとりでにはや夏が近いと知るのである。そのようにあなた達も、これらのことがおこるのを見たら、神の国が近くに来ていることを知れ。』という福音の『無花果』について霊的に探求しています。
これによって、出口王仁三郎が残した「三千年に一度実る桃の実と云うのは、無花果のことである。桃の事ではない。」「三千年に初めて実る桃と云うのは、艮の金神様の事である。」という二つの言葉に秘められた霊的な真意に迫ってゆきます。それは、三千年の経綸を展開した中心的神霊である艮の金神・国祖国常立之尊と人智学におけるキリスト存在を、さらには古代エジプトと釈迦をも結びつける極めて重要な証拠でもあるのです 。
第三章では、私たちの運命や宿命を決定づけるとされる輪廻転生、業(カルマ)、徳、死後の生、に関する二人の符合点からその霊的な法則性について探求しています。
それと共に、「もし輪廻転生があったとしても、今世で前世のことを思い出せないように、来世でも今世のことを思い出せないはずである。そうだとしたら、今世で輪廻を信じることなど全く無意味なのではないか。ましてや三千年も先のミロクの世について考えても、まったく意味がないのではないだろうか。」といった、私たちが輪廻転生とカルマについて感じる素朴な問いに対する霊学的な見解を明らかにしてゆきます。
私たちはカルマや道徳、死後に赴く世界、そして輪廻転生についての法則性を知り、理解したとしても、その日々の生活や心持が一変し、突然、修行僧や聖職者のような別人になることはないと思います。
しかし、こうした法則性を知ることで、今までなら一週間は収まらなかった怒りが、5日間で収まるようになる可能性は高まります。今までなら心が深く傷付き憔悴して自殺してしまおうかと思えるような辛い経験に対しても、霊的には自殺しても何も解決しないことを認識していれば、自殺という選択肢以外から対処することができる可能性は高まります。
その場合、周囲ではなく自分自身の考え方、あるいは性格が徐々に変化しているだけなので、本人はその違いに気付けないかもしれません。しかし、実は霊的法則性を学び認識したことが半ば無意識的に物質世界の出来事を霊的に考察できるようになっているので、結果として本人の心を強くし、苦難を回避しているのです。実際、目に見えない信仰心の御神徳とはそういものなのです。
もし、霊的な法則性を深く認識していなければ、今より誰かをもっと強く憎み、深く怨んで自身の心を歪ませて健康を害したりしていたかもしれません。もし、霊学の認識を踏まえた信仰心がなかったら不運を悔やんで自殺して暗い霊界をさまよっていたかもしれません。大切な人の死に対しても、今まで分かち合ってきた愛や絆までも全て消えてしまったと思い込んで絶望してしまうかもしれません。
しかし、本人自身の中で霊的な法則性を考慮した考え方が常識になるにしたがって、不幸や不運な現実に直面しても、その現実を過去世・カルマ・徳・死後の生活・来世といった事を考慮して、その現実をスピリチュアル的に俯瞰(ふかん:高い所から見下ろすこと。全体を上から見ること。)して対処することができるようになってゆくのです。
当の本人自身は心にはそれほど大き変化や違いがあったのか判らないことが多いのですが、その変化、その違いこそが魂が磨かれ強くなっている証しであり、今世・死後・来世までも通用する御神徳のはずなのです。
最初、その違いは極々わずかであったとしても、例えば自分の人生の角度を1°だけでも霊的に高い次元へ進める努力ができたなら、道を進むにつれてその1°の違いは1日1m進んでも高さは1.74cm程しか変わりませんが、1か月で52cm、1年で6m37cmも高い場所を歩くことができるわけです。
霊的に向上が無く、平らな道を直進しているだけなら同じ目線でしか見ることはできませんが、6mも目線が高くなったら、これまでとは違うさまざまな発見(悟り)があるはずですし、同じ状況に直面しても俯瞰して対処できるのです。
しかし、この高さ6mの違いは霊的な視点なので、自分自身にも周囲の人にもその違いは肉体的に見ても判らないのです。そのため、シュタイナーや出口王仁三郎の著書のような霊的に見れば魂を広く大きく高く向上させてくれるはずの文献を読んでも、自分の中の霊的な変化や成長、つまり真の御利益を余り自覚できないまま、運命も変わらないし、何の御利益も神徳も感じられないと思ってしまう場合も多いのです。
シュタイナーは、人智学的認識は死後にキリストを見る能力を養い、縁の深い親族や友を救う力を養い、来世を強く美しく均衡のとれた人生にしてくれると述べています。
「今の人生はそれだけで終るのではなく、来世の原因を含むものであると確信している人の来世は、その考えによって意味あるものになります。輪廻転生など無意味だと考えている人の来世は、その考えによって無意味で空虚で荒涼としたものになります。」
「しかし、一方では、愛する友人・知人が人智学を知ろうとしないときでも、先ほど述べた絆が存在するので、『私がよい人智学者であったら、私が死の扉を通過したあと、私に残った力によって彼らの心魂を助けることができる』でしょう。これらの心魂(友人・知人)は、死と再誕のあいだの中間生の時間が短縮されることによって、密儀の真理を受け入れる機会を得ます。」
出口王仁三郎は霊界物語の中には“如意宝珠”が秘めてあり、拝読することでそれを受取るようにと即し、艮の金神様は筆先(大本神諭)を読んで腹の中(心)に納めておけば、輪廻転生しても徳が身につき、何事にも動じない強い精神でいられるとしています。さらに、王仁三郎は艮の金神様の教えを聞いたものは第三天国に席を置くことができるとも述べています。
如意宝珠黄金の玉もこの神書(ふみ)に
ひそみてありぬ探りて受けよ
(霊界物語 余白歌)
「……肉体の在る中(うち)に、変成男子の書いた筆先を能(よ)く腹へ置いたら、死にても、亦今度斯この世へ出して貰うても、人がたたき落としても落ちん、霊魂に徳が付くので在るから。」
「三千年に初めて実る桃と云うのは、艮の金神様の事である。しかして、其の教えを聞いたものは天国に入る事を得るのである。」
第三章の前半では、このような霊的な法則性の認識を深めることを目的としています。
カルマ・道徳・輪廻転生といった法則性とは、『その法則性を理解し、深く認識する行為によって、既に今世では些細な変化しかもたらしていないように感じられても、死後、あるいは来世においては、大きな違いとなって現われてくるものだということを、多くの神秘家が語っている』とを知っておくことは、霊学を学ぶ上で非常に大きな励みであり、支えになることだと思うのです。
そして、こうした霊学の深い認識よって輪廻転生・カルマ・死後の生といった法則性を理解するとき、そこには仏教とキリスト教を結びつける真理を見出すことができるのです。
シュタイナーは、一九一一年に「今日、私たちは仏教とキリスト教の合流点に立っている」と述べたといいます。また、こうした西洋と東洋の認識について次のようにも述べています。
「今日、人類はこの薔薇十字の偉大な教えに、二つのものをもたらすことができます。その二つは、将来キリスト教を理解しようとするときに、非常に重要なものになります。今日の精神科学=霊学をとおして、このことがなされるべきです。
精神科学=霊学は、スキティアノス、ゾロアスター、ゴータマ仏陀の教えを、古いままの形でではなく、今日研究しうる、まったく新しい形で世にもたらすべきです。私たちは彼らの教えから学ぶことのできる基本的な要素を、まず文化に合体させることからはじめます。
キリスト教は仏陀から、輪廻転生とカルマの教えを学ぶことができます。なぜ今日、輪廻転生とカルマの教えがキリスト教のなかに流れ込んでいるのでしょうか。仏陀が輪廻転生とカルマについての教えを仏陀の方法で理解したように、秘儀参入者たちが現代的な意味で輪廻転生とカルマを理解できるようになったからです。」
一方、王仁三郎も次のように述べています。
「……この物語もまた決して日本のみに偏重したことは述べていない。世界統一的に神示のままに記述してあるのだ。まだ新論的迷夢の醒めない人々は、この物語を読んで、不快に感ずる人もあるであろうが、しかし真理は石の如く鉄のごとく、感情や意志をもって枉(ま)ぐることはできない。
神道も仏教も耶教(やきょう:キリスト教)も、時代と地方との関係上、表面別々の感があるやうだが、その最奥をきはむれば、同一の神様の教えであることを覚り得らるるのである。ゆゑに神の道を研究する人は、広き清き偏頗(へんぱ)なき心をもつて、真面目にかかつていただきたいものであります。」
(霊界物語・第四十七巻・総説)
そして、シュタイナーと王仁三郎が語ったこうしたキリスト教と仏教の融合した真理こそ、第二章の弥勒菩薩とキリストの霊的な活動によってもたらされた如意宝珠の一つのはずなのです。
第三章の後半では霊的認識が深まり、私たちの精神のなかで常識的な知識となった未来を想定し、現代の国民あるいは人類が抱える諸問題の原因について考察してゆきます。それによって、霊的な認識が政治、経済、環境、科学、農業、芸術といった日常生活における個々の分野も深く大きな影響力があることを理解できると思います。
第四章では、「食事と血液と霊に関する法則性」や、「太古のムー大陸・レムリア大陸・アトランティス大陸の存在とその時代の人間の形姿」と「スフィンクスの形姿が意味するもの」について、さらに「宇宙創造の概観について」といった、現代の科学では証明の困難なテーマについて取り上げています。
この章では特に、ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符合に限らず、エマヌエル・スウェーデンボルグ、エドガー・ケーシー、シルバー・バーチ、他の霊的認識の符合点も複数引用しています。それは、二人の符合よりは三人の符合、三人より四人の符合である方が、こうした内容をより鮮明に理解できると同時に、推測と偶然性を脱し、信憑性と必然性を高めることができるからです。
中でも、ムー大陸やアトランティス大陸が存在していた『太古の人間のエーテル体の形姿』と、エジプトに数多く残されている『スフィンクスの形体の謎』については、彼らの認識は多くの点で一致しているのです。
出口王仁三郎はムー大陸の時代について霊界物語の歌の中で「羽根の生えたる人間や角の生えたる人が出る」という奇怪な言葉を残しています。
これについて、シュタイナーもアトランティス時代について、次のように述べています。
「今日の人間を見て、『かつては人間はこのような姿ではなかった。人間は今日の姿に至るために、四つの動物的な集合魂を通過し、今日の獅子、牛、鷹、人間の姿に相当する身体のなかに受肉しなければならなかった。そして、人間は上昇して、だんだん人間に似ていき、かつての集合魂の姿は消えていった。人間が人間に似た姿になったとき、集合魂はもはやなくなったのである。』ということができます。」
(黙示禄の秘密・第六章)
さらに、シュタイナーはこの集合魂について、次のようにも語っています。
「どうぞスフィンクスの姿を思い出して下さい。その姿は、人間生成の偉大な謎を示してくれているのです。その姿は、人間の課題をよく心得ている見霊文化によって人びとに示されたものです。スフィンクスのイメージは、人間本性の中に深く織り込まれています。見霊的に見ると、そこには人間形姿の本質が特別の仕方で現われています。
ライオンと牛の胴体に鳥の翼を持ったスフィンクスの姿を見霊的に受け取り、その背後に見える人間の影の形姿でその姿の補足をしますと、今ある人間の姿となって表れるのです。」
(シュタイナーコレクション4 第一部)
同様に、エドガー・ケイシーはスフィンクスについて、次のように語っているのです。
『……人は自分を物質的に表現しようとして物質の中に魂を投じて以来、このような付属物を身に引き継ぐことになった。』(3333−1)
『犠牲の宮で人々がどのような体験をしたかと言うと、腫瘍やコブ、イボなどが体にできた時に入院する今の病院での作業によく似ていた。馬の姿、頭だけが馬で体は人間といったような姿にまでこの症状が及んでいたのである。物質に支配されてしまうほどに霊を物質の中に押し出した結果、様々な状態が体に現れ出していた。』 (281−44)
こうした彼らの言動から、伝説とされてきたムー大陸やアトランティス大陸の存在が、より明確に理解できると同時に、その存在を確信することができるのです。
同時に、こうした天才たちが明かした神秘的真実を重ね合わせた時、次にあげるような宗教に伴う素朴かつ根源的な質疑について、霊学の観点からはどのように応答ができ得るか、という点についても全体を通して触れています。
「神に敵対する悪魔の起源と、その存在の意義とは?」
「人間(人類)が絶対神を信じることで、多宗教への寛容と相互理解を得るために必要な霊的認識とは?」
「全知全能の神が存在するにも関わらず、地上に戦争が絶えない理由とは?」
「自らの生命の維持のために、動植物の生命を奪って食するということは、永遠に罪が伴い、救われないのではないか?」
「信教の自由の中で特定の宗教に洗脳されずに、自己の信仰を維持・向上をすることを可能する万教同根の思想とは?」
こうした霊的な質疑に関して霊学的に応答を導き出すとき、実は一見すると個別の質疑に対する応答が、霊的真理の中で相互に関連していることに気付かされるのです。
例えば、本編の中では、「高次の神霊が悪魔の存在を許容したことによって、人間の中に自由が生じ、物質界の多様性や創造性、霊的な進化の可能性が生じた」という霊的認識を取り上げています。
すると、人間に『自由』を与えた高次の神霊が人間が『戦争をする自由』に干渉し、その可能性を奪うことは、矛盾を呈すると同時に、人間の進歩を後退させることになる、ということも理解できるようになります。
高次の神霊とは、悪魔の存在をも許容できる存在であり、当然、人間に可能な偽・悪・醜の可能性をも許されているはずなのです。そうでなければ、現在のような人間は存在できないはずだからです。
同時に、人間は悪魔の存在によって偽・悪・醜に相対する真・善・美を認識する可能性が開かれることになります。その可能性は、輪廻転生による多くの苦難の経験から次第に真・善・美を選択する能力となり魂が純化し、進化してゆくことになります。同時に、『偽・悪・醜に対する一種の霊的な免疫機能』を得ることになるはずなのです。
死後の霊界では、そうした霊魂の進化段階にって各々に適した霊層の霊界にゆくことになりますが、物質界である地上では、どのような霊層の霊魂も地上という同じ大地の上に受肉することになります。
この霊層の違いは、たとえ同じ環境で同じ事象であっても、感受性が異なるため、全く個別の意見を持つことになります。その霊層の違いは、当然のように個々人の価値観の違いや、罪悪感の違い、審美眼の違い、といった様々な違いとなり、お互いの意見に対立や摩擦が生じるのです。
この時、個々の人間が「自分の意見こそ絶対である」と考えて、他の人間の意見を完全に否定してしまったとすれば、口論や喧嘩が起こるはずです。それが民族や宗教の固有の認識であれば、他宗教や他民族との迫害や戦争が起こるはずです。
しかし、高次の神霊は人間の霊魂の進化のために、悪魔の存在を許容し、霊界に天国から地獄までの様々な霊層の人間を許容しているわけです。高次の神霊には、なぜそのようなことが可能なのかを多くの聖言や福音を紐解けば、高次の神霊とは高次の愛なる存在であり、絶対神とは絶対愛の存在だからということになるのです。
端的に言えば、絶対神が創造し、絶対神が許容し、絶対神が寛容されていない存在というものは、この世にも霊界にも絶対に存在できないはずなのです。
だとすれば、絶対神とは全存在を絶対的な愛で育み寛容している存在ということになるので、高次の存在は人類に対して「人を裁くな、自分が神に裁かれないためである。」、「敵を愛せよ」、「求める者には与えよ、借りようとする者を断るな」という福音を発することが可能だったはずなのです。
霊界に地獄があるとすれば、この逆の考え方を正しいと感じている人間の霊たちが集まる霊層のはずです。彼らは「他人の過ちを許さず、神に代わって他人を裁くことを良しとし、過ちを犯した人を憎み、赦しを乞う者や助けを求める者の願いを断る事が絶対神への忠誠であり、絶対的な信仰の証明である」という神への信仰ゆえに、他の霊たちから些細な過ちを厳しく罰せられ、許されず、いつまでも憎まれ続けるでしょう。また、他の人の些細な過ちに対しても、厳しく罰し、許さず、いつまでも憎み続けるのですから、客観的には地獄なのですが、彼らは絶対神への忠誠心に満ちた天国だと感じ、思い込んでいるのです。
このように考える時、絶対的でない未熟な人間が絶対神を信仰する時、すべての宗教信徒は、「絶対神は未熟な全ての宗教の存在を偉大な愛によって育みながら許容されている」ことを認める必要がでてくるのです。そして、自分自身が「他のすべての宗教とその信仰者を肯定する寛容な態度をとることこそが、自己の信じる絶対神の絶対愛の寛容性と赦しを自ら実証することになる」のです。
それによって、あらゆる宗教徒の間に絶対神の偉大な愛が流れ込み、あらゆる宗教徒同士の争いに終止符が打たれ、恒久的な和解の道が開かれることになり、それこそが全ての宗教が求める地上天国の礎となるはずなのです。
しかし、地上においてこのような寛容性を維持し続けるには、先に示したように、「悪の存在によってもたらされた自由から『真・善・美の認識』を獲得すること」と同時に、「偽・悪・醜に対する一種の霊的な免疫機能」を獲得することが不可欠なのです。
このような信仰に立脚しているのであれば、もはや個々の人間が信仰する宗教と他者が信仰する宗教も、共に寛容し合えるはずであり、認識の相互理解も容易になり、個々人においても自ずと「信教の自由」が確立されるのです。
こうした霊的な法則性による認識が確立された時、自分とは無関係に思われていた多くの人々の努力によって、今の生活が維持されていることを再認識できるようになるはずです。それだけでなく、人は自分の命が周囲の無数の動植物の生命の犠牲によって生かされていることを痛切に感受できるようになるはずです。
そして、「私の生命は、単に自分の努力によって維持されているものでは無く、過去に生きた祖先や先祖、周囲の人々、動物、植物、微生物といったあらゆる存在の犠牲によって維持され、救われれ続けてきたはずだ。だから私も彼らのために、自らの労働によって社会に恩返し(奉仕)をし、労働の時間だけでも自らの人生(生命)を犠牲(供犠)し、動植物のためにも資源や自然環境を大切にしてゆこう。それによって、私自身の命も地上の生命に供犠することになると同時に、私がこれまで奪ってきた動植物の生命も無駄にしぜずに役に立ったことになるだずだ。」という精神性を維持できるようになるはずです。
こうした精神性は、信仰における神への供犠へと通じるものであるため、同時に、この人が食するために犠牲になってきた動植物の生命も、神への供犠に役立っていることになるはずなのです。この時、人間同士はもちろん動植物の生命も神への奉仕の色合いが強くなるはずです。それゆえ、これまで個々人のカルマであったものが周囲の人々や動植物との繋がりを通して、高次の神霊とカルマと合流することが可能になるはずなのです。
こうした一連の霊的な認識は、当然死後の世界(霊界)の法則性にも通じるため、生前の信仰は死後の復活にも大きな違いとなって現われるはずです。それは、輪廻転生の法則を考慮する時、第三章の内容とも深く関連してくるはずなのです。
さらに、このような認識の相互性や関連性は、第一章でシュタイナーが予見したように、第六文化期、第七文化期へと進むなかで、「神の世」、「みろくの世」、「地上天国」を現出するためには極めて重要な認識になるはずなのです。