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この第二章■八■の内容については、■六■、■七■のように歴史的な事実や文献との符合が少なく、また、これまでのシュタイナーと王仁三郎の符合からの推測の延長の域を免れないことを予めご了解下さい。
また、私自身、霊界物語や人智学についてもまだまだ勉強中ですし、もう少し詳細かつ明確に考察を加えてゆきたいとも感じておりますので、今後、内容を訂正もしくは書き加える可能性が多分にありますので、予めご了承下さい。
シュタイナーのキリストに関する認識の中で、『イエス』と『キリスト』が区別されて論じられていることは、以前、第二章 ■三■(二)で簡単に取り上げました。
※注 第二章■三■(二)参照
シュタイナーは、ナザレのイエスは地上に下る以前、キリスト存在に貫かれるような進化をするために、神霊世界で太陽神霊に三度貫かれたと述べています。
「いま私たちが話題にしてる存在は、最初は、惑星から地球へと下る道を選びませんでした。のちにナタン系のイエスとして出生する存在、太古に暫定的に神霊世界のなかにとどまった存在は、高次の神霊存在たちの世界のなかにいたときに、神霊世界でしばらくキリスト存在に貫かれることができるような進化をたどろう、と決意をしました。」(聖杯の探求・第三講)
一度目は、レムリア時代の人類の危機の時に、
二度目は、アトランティス時代の人類の危機の時に、
三度目は、ポスト・アトランティス時代の第三文化期
(エジプト・カルディア文化期)に、
合わせて三度、太陽神霊に霊的に貫かれたとしています。
「危機に襲われた人類の心魂の思考・感情・意思が、ふたたび彼に叫びを発しました。彼は自らの内面で、人類進化の悲劇を感じようとしました。そうして、彼はふたたび高い太陽神霊を呼びました。太陽神霊は三度、彼を霊的に貫き、彼に下りました。このように、宇宙の高み、地球外でナタン系イエスは、私たちがキリストと呼ぶ高次の太陽神霊に三度浸透されました。」
(聖杯の探求・第三講)
そして、第三の行為の際、後にこのイエスとなる存在はギリシア神話においてアポロンとして描かれたとしており、次のようにも述べています。
(聖杯の探求・第三講)
「治療者、超感覚的な治療者がアポロンです。私たちは、彼の三段階の進化を見ました。アポロンの原型となった治療者は地上に生まれ、イエスと名付けられました。」
(聖杯の探求・第三講)
このことは、マタイ福音書講義では、次のようにも語られています。
「キリスト教を生み出した人たちの居住地域である西南アジアでは、『霊的治療師』という言葉が『イエス』と訳されていました。『イエス』とは『霊医』を意味していました。当時の生活感情から言えば、こう訳すのはとても正確だったのです。」
(シュタイナーコレクション5・第十講)
ナザレのイエス (天使のごとき存在)
→ 太陽神霊による3段階の進化を経る
→ 三度目の進化した天使をギリシア神話でアポロンと呼ぶ
→ アポロンはナザレのイエスとして地上に誕生
→ 霊的治療師の意味で、イエス(霊医)と呼ばれる
一方、霊界物語では、国大立之命(瑞御魂)の幸魂である言霊別命は(第三巻・第四十三章)、後に少名彦神(蛭子の神)として現われ(第六巻・第二十二章)、「少名彦命は幽界を遍歴し、天地に上下し、天津神の命をうけ猶太(ユダヤ)に降臨し、天国の福音を地上に宣伝したまふ。」 (第六巻・第二十三章)としています。
また、「医薬(くすし)の術(わざ)を禁厭(まじなひ)の道に幸(さち)はひ玉ふてふ少彦名(すくなひこな)の神御魂(かむみたま)」 (第十四巻・序歌)とも詠われています。実際、古事記における少名彦命は、神産巣日神の御子(出雲系)であり、後に日本では医神として篤く信仰されているのです。
そして、王仁三郎は 「アポロの神というのは、天津日の神ということで、アは天、ホは日、ロは御子の意である。」(月鏡)と述べています。
瑞御霊の幸魂(言霊別命)
→ 幽界を遍歴し、天地に上下
→ 天津神の命をうけて少名彦神(蛭子の神)
として猶太(ユダヤ)に誕生
→ 福音と伝えると共に、医薬・禁厭(まじない)の神となる
→ 天津神の命を受けて降臨(天津日の神 = アポロン)
つまり、 『ユダヤに降臨したイエスの御魂は少名彦命であり、少名彦命は医神であり、神産巣日神の御子であり、天津日の神はアポロンであり、アポロンはイエスである』 という解釈が出来るのです。
このことから、シュタイナーの言うナザレのイエスは、王仁三郎の言う瑞霊の幸魂(言霊別命)の化身ある少名彦神として描かれており、ギリシア神話においてはアポロンであり、共に医神として信仰されている異名同一の神使存在であること推測されるのです。
そして、双方共にイエス(天使)とキリスト(太陽神)を、全く別の存在として認識していたことも共通しているのです。
もし、仮にそうだとすれば、「宇宙の高み、地球外でナタン系イエスは、私たちがキリストと呼ぶ高次の太陽神霊に三度浸透されました。」というシュタイナーの洞察は、「少名彦命は幽界を遍歴し、天地に上下し・・・」という王仁三郎の洞察と同じことを意味している可能性もあります。
さらに、霊界物語には 「素盞鳴尊は、その分霊言霊別命を地中に隠し、少名彦命として神業に参加せしめ給ひしが、今また言依別命と現して、三種の神宝を保護せしめ給ふこととなった。」 (霊界物語・第二十二巻・第一章)とあり、後に言依別命は黄金(こがね)の玉を自転倒島(日本)の高熊山に埋蔵し、弥勒菩薩出現の世を待つことになります。
そして、「黄金の玉の神業に奉仕したる言依別命は、少名彦名神の神霊と共に斎苑(いそ)の館を立ち出で、アーメニヤに渡り、エルサレムに現はれ、立派なる宮殿を造り、黄金の玉の威徳と流の玉の威徳とをもって、普く神人を強化したまふこととなった。」 (霊界物語・第三十三巻・第十八章)としていることから、少名彦命と言依別命は共に素盞鳴尊の分霊であり、少名彦命とは言依別命の前世もしくは兄弟魂と推測されます。
また、黄金の玉については、西洋におけるイエス・キリストと聖杯の秘密にも関係してくると考えられますが、それについては後で説明を加えます。
その他、霊界物語では、国大立命(瑞の御魂)の和魂を大八洲彦命とし(第三巻・四十三章)、後に月照彦神と改名し(第五巻・十八章)、月氏国に出現し釈迦として生まれたとしています(第六巻・二十三章)。
この霊界物語の内容をまとめると、おおよそ次のように表すことができます。
◇ナザレのイエス → 瑞霊の幸魂 (言霊別命、少名彦神、
言依別命、アポロン神)
◇釈迦 → 瑞霊の和魂 (大八洲彦神、月照彦神)
◇孔子 → 瑞霊の奇魂 (神国別命、弘子彦)
◇達磨 → 瑞霊の荒魂 (大足彦、足真彦)
◇キリスト存在 → 厳の御魂(国常立尊、国治立命、
埴安彦神、国武彦命)
ちなみに、霊界物語によれば老子とは、国治立大神が天教山に現れた時の神格である野立彦命の分魂であり、「孔子の教理余りに現実的にして、神界幽界の消息に達せざるを憂慮したまひ、野立別命吾が身魂の一部を分けて、同じ支那国に出生しめ給ひぬ。これ老子なり。」霊界物語・第六巻・第二十四章)とされています。
ここで、イエス・キリストについて、もう少し詳細に考察をしておく必要があります。
例えば、もし仮にシュタイナーの洞察に厳と瑞という原則を照合させるとすれば、「ナザレのイエス(瑞の御魂の幸魂・少名彦神)に、三年間キリスト(厳の御魂・国常立尊)が降臨した」ということになります。
一方、王仁三郎は、神息統合(キリスト)は瑞の御魂であり、神世開基(ヨハネ)は厳の御魂、としており、双方の認識は一見すると全く逆に感じられてしまうのです。
そのため、どうして、シュタイナーは厳の御魂(太陽神)をキリストであるとし、王仁三郎は瑞の御魂(月神)を神息統合(キリスト)であるとしたのか、という問いが生じてくると思います。
勿論、シュタイナーはイエス・キリストの説明に厳と瑞というような概念を用いていませんし、アフラ・マズダとアポロンを同一視している発言もしています(西洋の光の中の東洋)。
また、ゾロアスターの自我は、ナザレのイエスに十二歳から三十歳まで降っていたことから、ナザレのイエスはゾロアスターの転生の一つということにもなります(マイタイ福音書講義)。
このため、人智学的な観点を大本の厳と瑞という概念に分けて考察するのは、非常に困難なのですが、この矛盾を解くためにも、その一つの理由を補足しておくこうと思います。
では、そもそも厳と瑞とは何を意味しているかというと、 第一に、王仁三郎は 「厳の身魂は、荒魂、和魂もっとも重きを占め、瑞の身魂は、奇魂、幸魂もっとも重きを占めるなり。」 (第六巻・第二十六章)としています。
第二に、「大国常立尊は、太陽、太陰の主宰神が決まったので、ご自身(厳霊)は地上の神界を主宰したもふことになり、須佐之男大神(瑞霊)は物質界の主宰神となり給ふたのである。」 (第一巻・第二十章)としています。
厳の身魂 → 地球の神界の主宰神
(荒魂・和魂が重きを占める)
瑞の御魂 → 地球の物質界の主宰神
(奇魂・幸魂が重きを占める)
この二点から、「地球の神界の主宰神である厳の御魂は、荒魂と和魂の働きを重んじ、神界において善と悪の御魂を天国・中有・地獄の三段に厳格に立て別け、これによって、善の御魂を称え、悪の御魂を改心させている存在である。」といえます。
一方、 「地球の物質界の主宰神である瑞の御魂は、奇魂と幸魂の働きを重んじ、物質界において愛と叡智を説きつつ、救いを求める人の罪を贖い、善悪の差別無く清濁併せ呑んで救済をする存在である。」ということになります。
そのため、厳と瑞、両神の働きは、神界においては「厳主瑞従」であり、物質界においては「瑞主厳従」と映るはずなのです。その意味で、大本神諭は「厳主瑞従」、霊界物語は「瑞主厳従」の観点でそれぞれ綴られているとも表現できます。
そして、神霊界の主である国常立尊は、現実界の主である須佐之男命の神業を補佐し、現実界の主である須佐之男命は、神霊界の主である国常立尊の働きを現実界から補佐しているわけです。これによって、地球は神現二界で顕幽一致の法則にも適合することになります。
こうした経緯から、地球には再誕のメシヤ(現実界の主宰神・瑞霊)と、再臨のメシヤ(神霊界の主宰神・厳霊)という二柱のメシヤが存在することになるのです。
このとき、シュタイナーは「神界のメシヤをキリスト」と呼んでおり、王仁三郎は「物質界のメシヤを神息統合(キリスト)」と呼んでいることが解るのです。
ただし、メシヤとは油を注がれた者の意味で、そのギリシア語訳がキリストであり、日本語訳が救世主であるため、本来は全て同じ意味ですが、王仁三郎は贖いによって衆生を救う須佐之男命こそが真の救世主であると主張してきたということです。この内容を要約すると、次のようになります。
■神霊界の原理(厳の原理・五大教・経の経綸)■
◇聖霊・母 →
豊雲野大神・イシス(妻から寡婦になる)
◇子 → 国祖国常立尊(神霊界の主宰神)
→ 太陽神(日の大神、厳の御魂)の化身
再臨のメシヤ・シュタイナーの示すキリストに
相当・幽冥界のオシリス
(この時、イシスがオシリスの母)
〇荒魂と和魂を重視 → 父性原理
→ 新約聖書・筆先の視点
→ 厳主瑞従 → 内柔外剛
〇冥界の主として地上のすべての因縁を知り、人間を水の
洗礼で救済する
〇天国・中有・地獄に厳しく立て別け、善を救い悪を改心
させる神策
〇神霊界から現実界に働きかける
→ 神霊界から素盞鳴尊の神業を補佐
〇アトランティス時代の北方系に由来する上位の神
「アフラ・マズダ」
〇「誕生から死までの間の生活」の叡智を説く
〇オシリスの秘儀、無花果の秘密、シナイ山の秘密を開示
する
■現実界の原理(瑞の原理・三大教・緯の経綸)■
◇聖霊・母 →
豊雲野大神・イシス(妻から寡婦になる)
◇子 → 須佐之男命・ホルス(現実界の主宰神)
→ 月神(神素盞鳴尊、瑞の御魂)の化身
再誕のメシヤ・シュタイナーの示す弥勒菩薩
に相当・寡婦の息子(ホルス)
〇奇魂と幸魂を重視 → 母性原理
→ 霊界物語の視点
→ 瑞主厳従 → 外柔内剛
〇地上で霊的修行を重ねることで、人間を火の洗礼で救済
〇善悪の分け隔てなく愛と叡智によって、清濁併せ呑んで
救済する神策
〇現実界から神霊界に働きかける
→ 現実界から国常立尊の神業を補佐
〇アトランティス時代の南方系に由来する下位の神ミトラ
〇「死から誕生までの間の生活」の叡智を説く
〇イシスの宇宙言語(言霊)の秘儀、トト・ヘルメスの秘儀
を開示する
この二つの原理から、シュタイナーの神霊界の観点に立つと『神霊界の厳の御魂の救世主の神業(水の洗礼)を、現実界の瑞の御魂が補佐をしている』と映ります。
一方、王仁三郎の現実界の観点に立つと、『現実界の瑞の御魂の救世主の神業(火の洗礼)を、神霊界の厳の御魂が補佐をしている』と映るのです。その意味では、どちらも正しいことになります。
ところが、紀元二十世紀の来臨の際は、新約聖書にあるように、キリスト(再臨のメシヤ)は雲に乗って(エーテル界に)出現しました。
そのため、新約聖書でも『迷うことがないように気をつけよ。いまに多くの人があらわれて「救世主キリストはわたしだ」とか、「最後の時は近づいた」とか言って、わたしの名を騙るにちがいないから。そんな人たちのあとを追うな。』 と語り、キリストの来臨の時に肉体を持った救世主が「私はキリストだ。」と名乗ることは偽者の証明であると示されているのです。
そして、シュタイナーもこの点を重要視したので、弥勒菩薩(再誕のメシヤ)が自らをキリストと名乗ることは過ちであることを『現代に甦ってくるイエス・ベン・パンディラ(弥勒菩薩の転生した人物)を示す確かなしるしを、一つ挙げることが出来ます。それは、この人物が自分をキリストであるとは名乗らないことです。』 として、忠告していたのです。
こうした経緯から、王仁三郎も「我はキリストの再来にあらず」(水鏡)という発言をしたはずなのです。
しかし、この発言は「瑞の御魂である王仁三郎がキリストではないということは、瑞の身魂が神息統合(キリスト)であり、真の救世主であるという主張との間に矛盾が生ずる」と感じさせてしまうのです。
その上、霊界物語・第一巻・第二十四章の「神世開基(ヨハネ)と神息統合(キリスト)」の説明を読むと、神息統合(キリスト)が王仁三郎であることを暗示しているため、さらに理解が困難になってしまうのです。
これは、霊界物語の「神息統合(キリスト)」と三境の「キリスト」という言葉の違いを解り難くさせてしまった最大の要因であるといえます。
そのため、一般的に太陽神と呼ばれる新約聖書のキリストは、厳の御魂(神霊界の原則・シュタイナーの観点)とした方が明確に理解できるのです。
一方、霊界物語では、「瑞霊の息子である須佐之男命に、厳霊と瑞霊が働きかけて伊都能売となった存在(弥勒)が神息統合(キリスト)の型に生きる」という意味を込めたと解釈する必要があるはずなのです。
別の表現をすれば、「二十世紀に神息統合(キリスト)の型を示す存在は、火(か:厳)と水(み:瑞)の息の統合(神息統合)である伊都能売の御霊(弥勒)である」ということです。
これは、出雲の火と元伊勢の水の神業や、神島開きで厳と瑞が統合された結果、弥勒存在が顕かにされた経緯にも深く関わってくるはずです。
同時に、シュタイナーが 「弥勒仏の説法は、キリストの力が浸透したものです。」 (第一章■五■参照)と語った事は、厳の身魂がキリストとして瑞の御霊である須佐之男命に浸透すると解釈すれば、神息統合の働きを示していることが理解できると思います。
このように解釈した時、王仁三郎自身が語っている通り、王仁三郎とイエスとは別人であり、「霊界物語の神息統合(キリスト)」と「新約聖書のキリスト」も全く違う存在であることが理解できるのです。
これは、王仁三郎の示すキリストという言葉を解釈する上で重要な点となると思われます(第一章■二■(三)、第二章■六■(二)参照)。
同様に、『神世開基(ヨハネ)』とは「神世の基を開く存在」もしくは「神世を開く基督(キリスト)」という解釈もできます。
つまり、「国常立尊の懸った出口直は、神世開基(ヨハネ)の型に生きる」という意味を込めのだと推測できるのです。
そのため、「新約聖書のヨハネ」と「霊界物語の神世開基(ヨハネ)」も、全く別の存在であると解釈すべきはずなのです。
実際、王仁三郎自身も霊界物語の神世開基(ヨハネ)、神息統合(キリスト)について、昭和十八年に 「ヨハネは世の初めの根で、開祖で、国常立尊である。キリストは世を救う者、油を注ぐ者で素盞鳴尊である。キリストは救う役である。『霊界物語』に説いたキリスト(神息統合のこと)とナザレのイエス(少名彦神のこと)とは全然別人である。」 (新月の光)と断言しています。
しかし、神霊界の原理では「幽冥界に降るオシリスは子となり、イシスは寡婦となった母」という母子関係になります。
一方、現実界の原理では「オシリスを亡くしたイシスは寡婦、地上に誕生したホルス(弥勒)は寡婦の息子」という母子の関係になるのです。(第二章■4■(二)参照)
◇神霊界(月) 豊雲野尊 瑞
→ 夫のオシリスを亡くした寡婦であり、母のイシス
◇幽冥界(地球) 国常立尊 厳
→ 幽冥界に降ったオシリス(再臨のメシヤ・キリスト)
◇現実界(地球) 須佐之男命 瑞
→ 地上の寡婦イシスの子(再誕のメシヤ・神息統合)
新約聖書においては、聖母マリヤは処女懐胎によってイエスを産むわけですが、これも寡婦イシスと幽冥界のオシリスとの関係に相当します。
そのため、古代エジプトの影響が強かった当時、イエスだけではなく、聖母マリヤも信仰の対象となっていったと考えられるのです。
つまり、キリスト教では、父・子・聖霊を三位一体としていたために、母の原理が欠落してしまいます。そのため聖母マリヤに母イシスの存在を求めたのではないか、ということです。
実際、シュタイナー助言で創設されたキリスト者共同体の牧師、ヘルマン・ベックの著書『秘儀の世界から』では、『イシス=ソフィア』という言葉が登場しており、その訳注には次のように解説されています。
「イシス=ソフィア・・・・・エジプトでオシリスの妹にして妻、ホルスの母とされる女神イシスは宇宙叡智存在=ソフィアであるという見解による呼称。シュタイナーのよれば、この宇宙叡智存在は聖霊存在としてのマリアとしても出現した。」
つまり、父・子・聖霊という存在と言われるものの、父・子・聖霊のマリア(母)という意味でも解釈されてきたことが解るのです。
そして、このマリアとイシスの共通点は、マニ教における「寡婦の息子」の概念にも通じるわけですが、これは出口王仁三郎の出生の秘密にも現れています。
王仁三郎自身 「王仁は有栖川の宮の熾仁親王の落胤である。」 (新月の光・第三章)と語っており、それは王仁三郎の母が他界する直前に直接聞かされたことであるとしているのです。
そして、出口王仁三郎の母と有栖川宮家とが関わった経緯については、「うのさん(上田うの。仁三郎の祖母)のお父さんが中村孝道である。―――中略――― 中村孝道は有栖川宮家の侍医であった。それで、母が伏見に行っていた時、叔父さんの家に有栖川(熾仁親王)宮様がお寄りになったのである。」(新月の光・下巻・第四章)とっ語っています。
また、「祖母はまた彼(か)の有名なる言霊学者・中村孝道の家に生まれたので言霊学の造形は深かった。」 としています。
中村孝道(言霊学者) →(娘)上田うの : 王仁三郎の祖母
→ 上田吉松 :王仁三郎の育ての父
→ 上田よね :王仁三郎の母 ⇔ 有栖川宮
(王仁三郎の実父)
↓
出口王仁三郎(上田喜三郎)
その意味で、出口王仁三郎は、上田家においては「寡婦の息子」であったともいえるのです。
さらに、上田喜三郎は、寡婦となっていた出口ナオの娘である出口澄子の婿養子として結婚したのので、出口王仁三郎は、ここでも夫のいない出口直を母としているので「寡婦の息子」なのです。
シュタイナーは古代秘儀に関する講義の中で、民を率いてエジプトを出たモーセを導いた「私は〈我あり〉である」と語った神が、のちにキリストとしてイエスの肉体に現れた存在である、という「エジプトの密儀」について語った後、次のように続けています。
「――前略―― 人間が受け取った新しい贈り物から、一連の文化現象が非常に深められた姿をとって成長してゆくのを、私たちは見ます。神殿・ピラミッドがロマネスク教会へと変化してゆくのを、私たちは見ます。六世紀から、イエスの死体の掛かった十字架が出現するのを、私たちは見ます。
そして、このキリストの流れから、注目すべき存在が現れてきます。その存在の秘儀は深く隠されています。この存在を素晴らしい姿で描いた絵画があります。ラファエロの「サン・シストのマドンナ」です。画面の中心に、素晴らしい処女が描かれています。
マドンナは子供を抱いています。皆さんはこの絵のまえで、畏怖を感じるはずです。三つの文化段階における人類の精神的努力を見事に表現しているのがこの絵です。ラファエロがマドンナを、多数の子ども・天使が現れている雲で囲んだことには意味があります。
私たちが深く考察すれば、雲の天使たちは非常に意味深いことを私たちに語っています。私たちがこの絵に深く沈潜すると、意味深いことが私たちの心魂に語りかけられます。言葉の最高の意味で、私たちのまえに奇跡があるのです。
マドンナが腕に抱く子どもが普通の方法で女から生まれたとは、私たちは思いません。雲のなかの天使形姿たちは素晴らしく、つかの間に発生したように私たちには思われます。腕に抱かれた子どもは、この儚い天使形姿たちよりも結晶化した、凝縮したものを表現しています。
この子どもは女から生まれたものではなく、雲から取ってこられ、腕に受け取られたように見えます。子どもと処女的な母との不思議な関連について、私たちは示唆されます。私たちがこの絵を精神のなかに描くと、私たちの目のまえに別の処女的な母が現れてきます。古代エジプトのイシスと、その子ホルスです。
キリスト教のマドンナとエジプトのイシスの形姿とのあいだに、私たちは不思議な関連を推測できます。イシスの神殿には「私は、かつて在り、いま在り、これから在る者である。死すべき者は、私のヴェールを取り去ることはできない」という言葉が書かれています。
イシスが受胎してホルスが生まれたのではありません。オシリスから発する光線がイシスに当たることによって生まれたのです。これは一種の無垢な誕生です。複数の意図が結ばれているのを、私たちは見ます。私たちがそこで探究するものは、地上的な関連のない(霊的な)ものです。――後略――」
(『シュタイナー古代秘教講義 ― エジプト文明と現代』アルテ・西川隆範訳)
以上はシュタイナーの霊的洞察によるものですが、近年の古代エジプトについての考古学的研究においても、古代エジプトの死生観が後のユダヤ教やキリスト教の宗教観に大きな影響を与えているという複数の研究者たちが語っています。
例えば、民を率いてエジプトを出たモーセの『十戒』も、この『審判の否定告白』と共通点が多く、モーセとも深く関わっていたとされています。
また、初期のキリスト教の布教者もその多くがエジプト人であったことから、聖書には書かれていなかった死後の世界(霊界)のイメージを、死者の書から得ていたとしています。
そして、新約聖書の時代においてもキリスト教を布教してゆく上でオシリス、イシス、ホルスいったエジプトの神々は競合相手であったようです。
つまり、先のラファエロの絵画『サン・シストのマドンナ』について語ったシュタイナーの霊的な認識内容が、現代の考古学的な研究からも事実であることが証明されつつあるわけです。
同様に、第二章の中で取り上げたシュタイナーの下記のような認識も、より現実味を帯びてきます。
「古代エジプトの秘儀の中でオシリスの誕生を体験できた時代と、ただ、無言で、沈黙し、悲しげなイシスに出会って、寡婦の子となった時代との境目にあたるのが、モーセの時代です。
モーセが単にエジプトの秘儀の秘密に参入しただけでなく、その秘密を持ち去ったことによって、エジプトのカルマは満たされたのです。 ――中略―― エジプトの秘密は古代ユダヤ人の秘密になったのです。」
(『秘儀参入の道』R・シュタイナー著 西川隆範訳)
こうした考古学的見解は、『死者の書』をはじめとする古代エジプトのパピルスの内容と後のキリスト教関連に最初に気付いた人物である、E.A.ウォリス・バッジ(1857−1934)の功績が大きいとされています。
彼は、後に「死者の書」の代名詞となったアニのパピルスや、多くの埋葬品を時に窃盗まがいともいえるあらゆる手段を使って大量に収集し、それを大英博物館に持ち帰った人物であし、それが先のような研究成果に結びついてゆくことになります。
彼ウォリス・バッジ(右写真:大英博物館 古代エジプト展 より)は、エジプトに関する非常に多くの書物を残しているようですが、日本語訳されているものには、『世界最古の原典エジプト死者の書』、『古代エジプトの魔術―生と死の秘儀』などがあります。
私たち日本人は特に、古代エジプトとユダヤ教、キリスト教などを全く別の時代の別の宗教として把握してしまいがちですが、 『古代エジプト人の死生観がキリスト教に影響を与えてきた』というバッジ(1857−1934)の研究が、まったく同時代を生きたシュタイナー(1861−1925)の霊的認識と一致しており、古代エジプトの研究者がシュタイナーの人智学を証明しつつあることは、非常に興味深いことだといえます。
先に、マリアに抱かれたイエス、イシスに抱かれたファラオ関連性についてとりあげましたが、古代エジプトのファラオについて、『名探偵コナン推理ファイル エジプトの謎』(小学館)には、次のように説明されています。
「ファラオの王位は『母系』で受け継がれていた。つまり、王の血をひく女性か、その女性と結婚した男性しかファラオになることができなかったのだ。これはファラオが国を治めることの正統性を説いたホルス神の両親(オシリスとイシス)が兄妹だったことに基づいている。
ただし、三千年のファラオの歴史のなかで、王女はたった数人しか存在しなかったらしい。王の息子が実の姉妹などの王族女性と結婚して即位する場合がほとんどで、まれに重臣が皇女と結婚してファラオになった例もあった。」
この古代エジプトの国王・ファラオが『母系』で受け継がれるという点は、「艮の金神」が大本神諭に示した内容と一致しています。
実際、大本では、開祖・出口なお → 二代教主・出口澄子(夫:王仁三郎) → 三代教主・出口直子(夫:日出麿)・・・・・というように、代々、母系(女系)で出口家が受け継がれて現在に至っているのです。
そう考えると大本の場合は、天皇制とは異なる、現代版ファラオ制度であるといえます。
実際に大本において(最初のファラオとして)大きな功績を遺した存在は養子である王仁三郎であり、この王仁三郎の働きは、オシリスが冥界に降った後にこの世を収めた王ホルスの働きに重なります。
ということは、エジプト最初のファラオであるホルス=スサノオというイメージも自然と連想されてくるのです。
霊界物語では、宣伝歌を歌う東彦について 「これは、黄金山(エルサレムの傍の橄欖山の別名)の麓に、この混乱紛糾の世を救ふべく、埴安彦といふ大神(国常立尊の化身)現はれて、五大教といふ教を立てられ、その宣伝使なる東彦といふ神人なりき。」 (第六巻・第三十三章)と述べられています。
つまり、太古に黄金山(橄欖山・オリブ山)で教えを立てたのは厳御魂の神霊であることが解ります。すると、霊界物語・第六十四巻上・第二章で宣伝師が語った「橄欖山上に出現する再臨のメシヤ」と、シュタイナーの示す「エーテル界のキリスト」と、「新約聖書の雲に乗って来臨するキリスト」の正体は、厳御魂(国常立尊)の神霊である可能性が高いことになります。
また、王仁三郎は大本神諭の密意の解釈について 「(前略)……ゆゑに人間は、その精霊を善と真とに鍛へあげ、生きながら高天原の団体に籍を有するに非ざれば、大本の神諭は、容易に解釈し得るものでないことを悟らねばならぬ。 大本の神諭は、国祖大国常立尊、厳霊と顕現し、稚姫君命、国武彦命等の聖霊にその神格を充たし、さうして天人の団体に籍を有する預言者なる出口直開祖の肉体に来たし、大神の直々の御教えを伝達されたものである以上は、よほど善徳と智慧証覚の全きものでなければ、これを悟ることは出来ない。・・・」 (霊界物語・第四十八巻・第九章)としています。
つまり、筆先とは父(創造神:大国常立尊)が、子(厳霊・国常立尊)として顕現し、その神格を分霊(天使的存在)である稚姫君命や国武彦命を通し、出口直に書かせたものであるということです。
国祖大国常立尊 → 厳霊・国常立尊として神界に権限
→ 稚姫君命
・ 国武彦命等の聖霊に神格を充たす
→ 天人の団体に籍を有する預言者・出口直開祖の肉体
これは、高次元の神霊と人間の間に天使が仲介する方法であり、一九二〇年から約六十年の間に、モーリス・バーバネルを霊媒として語られた古代霊である『シルバーバーチの霊訓』も、高次の神霊からの霊訓を、インディアンの霊であるシルバーバーチを通じて語られています。また、自働書記によって霊示を伝える手法は、近年ではアメリカ人のニール・ドナルド・ウォルシュ氏が、一九九三年に上巻を書き上げた『神との対話』が、この形式で書かれています。
そして、王仁三郎は 『艮の金神さまと支那』 と題して、次にように語っています。
「道院に現われ給う神様が国常立尊の出現であるという見地から、艮の金神は出口直でなくては懸からぬという神諭に矛盾を感ずるという人があるが、すこしも矛盾はない。支那では艮の金神としては現われておらない。至聖先天老祖として顕現しておられるので艮の金神のなにおいては、絶対に大本開祖の他には懸かられぬのである。」 (玉鏡・昭和六年二月)
このとこから、「大本の艮の金神」と「道院の至聖先天老祖」とは、共に国常立尊(厳の御霊)でありながらも別の働きをしているのと同様に、国常立尊の化身である艮の金神も、キリスト存在と同一神でありながらも、仲介する聖霊や霊媒が異なることから、異なる働きをしている神霊であると推測されます。
ただし、その本質は異名同神の神様であるので、その元の大国常立尊が書かせた大本神諭には聖書や仏典などの言葉や多くの諸宗教の要素が混在しているものと考えられるのです。
次に、弥勒菩薩について霊界物語では、宣伝歌を歌う北光天使(きたてるのかみ)について、 「この宣伝使は、霊鷲山(りやうしうさん)印度(インド)の西蔵(チベット)の境に屹立する高山の名称)麓(ろく)の玉の井の郷に現はれ出でたる三葉彦神(みつばひこのかみ)の教理三大教を、天下に宣伝する北光天使なり。」 (第六巻・第三十四章)としています。
この霊鷲山は、月宮殿のある万寿山の東方に位置しており、この霊鷲山の山下の坤の金神の安居所には玉ノ井の宮があるとされています。そして、この玉ノ井の宮に仕える真道姫が、三ツ星の神霊に感じて三ツ葉彦命を産み、国治立命(国常立尊)に報じ奉り、彼を神政維新の神柱としたという経緯があるのです。(第三巻・第十五章)
月宮殿のある万寿山 → 東方:霊鷲山
↓
山下:坤の金神の安居所 → 玉ノ井の宮 : 真道姫
↓
国治立命(国常立尊)に報じ奉り、神政維新の
神柱となる三ツ星の神霊に感じて三ツ葉彦命を産む
↓
三ツ葉彦命の教理:三大教
そして、この三ツ星はオリオン星座の三ツ星であり、三ツ葉彦命は王仁三郎の精霊(王仁三郎自身)もしくは、前身(太古の過去世)とされています。
つまり、霊鷲山は弥勒が誕生した聖地であり、弥勒菩薩は三ツ葉彦命として誕生し、後に弘道別命、太玉の命・・・、小松林命、王仁三郎として転生した存在であると考えられます。
ただし、霊界物語は太古の物語でありながらも、それが当時の王仁三郎や大本に移写していていることから、三ツ葉彦命とは出口王仁三郎自身を示し、弘道別命、太玉の命……小松林命といった存在は、王仁三郎に懸かった聖霊であるという解釈もできると思います。(この点に関しては、今後の課題です)
また、王仁三郎は、『地上に移冩(いしゃ)するオリオン星座』と題して、 「『明らかなオリオン星座地にもあり』と云う冠句(かんく)が出て居たので抜いておいた。オリオン星座を地に移すのが月宮殿であって、敷地も同じ型に出来て居るのである。つきの輪台は、ミロク様の居られる所である。」(水鏡)と語っています。
大本の月の輪台は、王仁三郎が一九二五年に亀岡の天恩郷に造った聖所とされています。一方、月宮殿は、一九二八年に亀岡の天恩郷において、九千個の石を使用して造られた総石造りの建造物です。また、この月宮殿は、大本事件による弾圧で破壊された後も、月宮宝座として全国各地から寄せられた千三百個の国魂石が積み上げられていたといわれます。
さらに、王仁三郎は『月は母体』として、 「星のうちでは、オリオンの三つ星が一番に生まれたので、これは月の総領である。星の母が月であって、父が太陽である。」 (玉鏡)としています。よって、ここでも太陽(火)の厳霊、月(水)の瑞霊、伊都能売(火水の息の統合)の弥勒という関係が成り立つのです。
◇父 → 太陽 (厳の御霊)
→ オシリス(地球の艮の金神:キリスト存在として降る)
◇母 → 月 (瑞の御霊)
→ イシス
◇子 → オリオンの三ツ星(伊都能売の御霊)
→ 寡婦の子(地球に弥勒菩薩として降る)
→ 国祖国常立尊の神政維新の神柱として働く
以上から、王仁三郎は、『弥勒菩薩(三ツ葉彦命・王仁三郎)の精魂を、オリオン星座の三ツ星から、天恩郷の月宮殿を通して、月の輪台に迎え、国常立尊の神業に遣える。』 という意図で、霊界物語の三ツ葉彦誕生の経緯を、亀岡の天恩郷に雛型として移写したと考えられるのです。
当時、悪神は弥勒の出現を恐れて、第二次大本事件で綾部や亀岡の神殿を破壊したのですが、結果的には、その悪神の抵抗によって新約聖書のキリストの再臨の預言は成就されたわけです。 同時に、キリストの預言の成就によって、大本を弾圧した存在は自ら悪であることを証明する結果にもなったです。
ただし、「大国常立尊が表に現われて、日の出の守護となるから、人民が各自(めいめい)に力一ぱい気張りて為て来た事が、皆天地の神から為せられて居りたと申す事が、世界の人民に了解る時節が参りて来たぞよ。」 (大正三年旧七月十二日)という大本神諭の内容からすれば、これらも全て神様の経綸通りだったということになります
そのほかにも、出口王仁三郎の背中には、オリオンの三ツ星のような模様があり、写真としても残されています。また、エジプトのピラミッドの配列は、オリオン星座の三ツ星の配列と相似形になっていることは比較的良く知られており、これもエジプトのトト・ヘルメスの秘儀や弥勒やミトラ神の存在と決して無関係ではないと考えられます。
一方、シュタイナーの洞察によれば、弥勒菩薩は西暦四千年代末頃(五十世紀)に最後の転生をし、高次の秘儀参入者のみが知ることができるという険しい山の洞穴で迦葉を発見し、右手で迦葉に触れることで菩薩は弥勒仏(如来)になるとされています(シュタイナー仏教論集)。これは、第四章で簡単に紹介した『弥勒下生仏経』を秘儀参入者の立場から洞察したものだと考えられます。
そう考えると、秘儀参入者のみが知っているという「険しい山の洞穴」とは、インドのチベットの境に屹立する山なのではないか、という仮説が立てられると思います。太古に素盞鳴尊(瑞の御魂)の平定していた地がアジア全体に及び、ヒマラヤや蒙古とも縁の深いことからもその可能性が高いといえます。
ちなみに、法華経の序品や如来寿量品十六にも霊鷲山(グリデュラ=クータ)が語られていますが、釈迦が法華経を説いたとされる現存の霊鷲山は、それほど険しい山ではありません。また、霊鷲山の雛型が高熊山であったように、五十世紀においても雛型の経綸の可能性もありますので、やはり秘儀参入者のみがその真の場所を知悉し得るものだと、素直に考えるべきなのかもしれません・・・。
ここで、もう一度シュタイナーの人智学的な観点について触れておきたいと思います。
シュタイナーの助言によってフリードリッヒ・リッテルマイヤーが創始されたクリステンゲマインシャフト(キリスト者共同体)の牧師に、ヘルマン・ベッグ(1875-1937)という人物がいました。
彼の著書の邦語訳書『秘儀の世界から』(平河出版社)には、次のように書かれています。
「(恒星叡智の時代【紀元前5702年−紀元前4242年】は)――前略―― シリウスのなかにイシスの魂、女性的なもの、色鮮やかなベールをかぶった『宇宙の夜の女王』を人々は見た。
イシスとオシリスの結びつきのなかに、人々は原人間存在の神的な統一性を体験したのである。シリウスは崇高な星の杯となり、その杯のなかで、オリオン星座が人間の秘密を開示するのである。」
「この崇高な古代エジプトの恒星叡智から、のちの『惑星叡智』の時代【紀元前4242年−紀元前2782年】に目を転じてみよう。そこでは、大きな宇宙の杯の体験はもはや恒星の彼方ではなく、太陽系のなかに見られるようになる。
杯は三日月形に輝く月の杯として空に現れる。その杯は太陽の光を地球に反射する丸い円を内に担っている。(その宇宙的なイメージは、後代のイシスの像の牛の角のなかに認められる)※左図参照
月の処女、月の母であるイシスは太陽の霊(オシリス)を孕み、産む。月の杯のなかに、大きな聖杯のイメージが現れるのである。そこでは、オシリスと太陽の関係も明らかになる。
オシリスは物質的な昼の太陽ではないのである。龍の力であるテュフォンが人間から古代の太陽霊霊視力を奪って以来、オシリスは太陽領域から、地下の世界へと去った。」
「イシスとオシリスの結びつきのなかには、宇宙の杯、聖杯の秘密が存在した。惑星時代の太陽―月領域から、イメージはエーテル的地上領域へと下る。元素叡智の時代【紀元前2782年−紀元前1322年】のことである。
蓮の花から生まれる太陽神
(水蓮とイシスではないが参考までに)
「エジプト神オシリスとイシスの伝説について」岩波文庫より
イメージは純粋にエーテル的―アストラル的なものの啓示になる。イシスは水蓮の花冠のなかの水の精として現れる。星の杯は花冠になったのである。――中略――死者の書のなかに、イシスが水蓮の萼から顔を上げている姿が描かれている。
どの種類の花も、ある決まった種類の蝶々に結び付けられている。ルドルフ・シュタイナーは『植物は大地に捕えられた蝶々である。蝶々は宇宙に解放された花である』と、述べている。
エジプトではオシリスは蝶々のイメージではなく、羽のあるカブトムシ(ケペル)の姿で見られた。――後略――」
「古代の元素的な霊視力から純粋な感覚的観照への移行期において、イシスが花のなかに開示するのを秘儀参入者は見た。ただ、物質的な事物のみが、人間に残った。物質的なものの背後に霊的なものが見られることはなくなり、物質は霊的なものの『墓場』となった。――中略――
密儀の場が墓になったのではない。墓が密儀の場になったのである。ピラミッド、スフィンクス、ミイラがこの墓の文化を伝えている。――中略――
墓の文化と墓の叡智の時代に、オシリスはどこにいたのであろうか。彼らは身体という墓のなかに下ったのである。
秘儀参入者は、人体器官の働きのなかにオシリスとイシスを見た。かつては身体に星体験が見られ、ついでエーテル的な体験が身体に反射したが、やがて身体器官の体験は単なる物質的なものになり、死体、ミイラのなかに閉じこもっていった。
星の科学は器官の科学になった。深い知を有さない者は、オシリスは豊饒なナイル川であり、イシスはナイル川によって実りを恵まれるエジプトの地である、と語るのみである。――後略――」
実際は、もっと複雑な内容なのですが、簡潔にまとめると、シリウス歴の周期とその時代の霊的な認識は、おおよそ次のようになります。
◆紀元前 5702年 − 紀元前 4242年
【恒星叡智】(自我領域)
◎オシリス(宇宙太陽)
太陽系を超えてオリオンを見るところに存在
◎イシス(宇宙太陽を生み出す母)
シリウスを見るところに存在
◎ホルス
イシスが「(永遠性ではない)時」の中に産み
出した子の名
◆紀元前 4242年 − 紀元前 2782年
【惑星叡智】(オシリス:アストラル領域)
(イシス:エーテル領域)
◎オシリス
恒星ではなく太陽系の太陽領域に見いだされた
龍の力(テュホン)によって太陽領域から地下の
世界へ去った
◎イシス
恒星ではなく太陽系の月領域に見出された。
夏至の太陽として崇拝された
◆紀元前 2782年 − 紀元前 1322年
【元素叡智】 (エーテル領域)
◎オシリス
花であるイシスに対する蝶々(もしくはケペル:
甲虫)として現れる
水連の花冠のなかの水の精として現れる
◆紀元前 1322年 − 紀元後 138年
【感覚的知】
◎オシリス
豊饒なナイル川と語られるようになった。
◎イシス
ナイル川によって実りを得るエジプトの地のこ
とを示すようになった。
こうした太古の時代の経過によって人間の霊視力が次第に失われてゆき、物質的な認識力のみを強めていったことは、第二章■二■(三)で触れた黄金時代・白銀時代・青銅時代・暗黒時代の説明でも触れていますが、オシリスとイシスという神に対する認識も、時代と共に宇宙、太陽系、地上、墓、といったように次元を下げていったことが解ります。
霊界物語では、厳の御魂の神は「高皇産霊大神=日の大神」 (第四十七章・総説)であり、「太陽界の神使=日天使」 (第三巻・第一章)であるとされ、 「大国常立命は、太陽、太陰の主宰神が決ったので、ご自身は地上の神界を御主宰したまふことになり……。」 (第一巻・第二十章)として地球に降り、地球における霊系の主宰神として活動するようになっています。
この地球の霊系の主宰神である国祖国常立尊は、悪神の計略により艮に隠退しすることを余儀なくされ「艮の金神」となります。そして、艮の金神は、三千年余り幽冥界隠退し大王としての陰の働きを経て、再び地球の霊系の主宰神として活動を開始したことによって、出口直に大本神諭を書かせ、王仁三郎を高熊山修行に導いていったことになります。
そして、既に第二章■七■で解説したように、オシリス神と国常立大神、イシス神と豊雲野大神との多くの符合点から、各々の神を異名同一の存在であると仮定すると、次のような仮説も可能だと思います。
オリオン シリウス
オシリス ⇔ 大国常立大神 イシス ⇔ 天照皇大御神
↓ ↓(撞の大神)
太陽神 月神
オシリス ⇔ 国常立大神 イシス⇔豊雲野大神
↓(厳霊) ↓(瑞霊)
地球 地球
地下へ去ったオシリス⇔艮金神 寡婦のイシス⇔坤金神
さらに、王仁三郎は『月は母体』として、「星のうちでは、オリオンの三つ星が一番に生まれたので、これは月の総領である。星の母が月であって、父が太陽である。」(玉鏡)としていたことは既に取り上げました。
すると、父、母、子は、次のような解釈も可能だと思われます。
大宇宙 → 太陽系 → 地球
■父■
オリオン星座のオシリス→ 太陽神(厳霊) → 地下に去る
(艮金神=地のミロク)
■母■
シリウス星のイシス → 月神 (瑞霊) → 寡婦となる
(坤金神=天のミロク)
■子■
オリオンの息子 ホルス → 息子(伊都能売霊)→ 寡婦の息子
(弥勒菩薩=人のミロク)
こうして、人智学的にオリオンとイシスについて理解を深めると、出口王仁三郎の残した「オリオン・太陽・月」といった言葉の中にも人智学との関連性があることに所々に気づかされます。
もちろん、このことについても一つの推論に過ぎませんが、人智学における『オシリスとイシス』、霊界物語における『艮金神と坤金神』との関係には、偶然や推測というには不自然なほど、多くの符合点が発見できるのです。
先に、黄金山の五大教と、霊鷲山の三大教が登場しましたが、霊界物語ではこの二つの教えが融合したものを三五教(あなないきょう)と呼んでいます。そして、これらを先の二つの原則に照合すると、「五大教とは神界の原理」 、「三大教とは物質界の原理」に基づいた教えであると表現することもできると思います。
王仁三郎によれば、人間は霊魂を日の大神(厳)と月の大神(瑞)によって付与され、肉体を国常立尊の主宰として神の意志を実行する機関として付与されています。このため、輪廻転生によって物質界と神界を行き来する人間の霊魂は、この双方の原理を満たす必要があるので、三五教(伊都能売の視点)が必要ということになるはずです。
しかし、肉体に命を宿して物質界に生きる人間は、身魂の次元(清濁)に関係なく同じ大地の上に立って生きてゆかなければならない宿命にあります。そのため、善悪、清濁を併せ呑んで生きなければならないのですが、それには特に、物質界の原理である愛(幸魂)と叡智(奇魂)を重んじる必要があるのです。そうでなければ、この世では仲良く調和(和魂)できませんし、努力や忍耐(荒魂)も無駄になってしまうのです。
そのため、物質界における菩薩のような存在は、和光同塵(本来の威光を和らげて、汚れた現世に身を置いて衆生を救済すること)の神策を取るわけです。これが、三大教の理念(緯の経綸)であり、神須佐之男命の働きといえます。
一方、現世での善悪を厳格に立て別ける裁神の存在を知らせ、死後の幽冥界においてこの神の裁きに遭わないためにもこの世で悪いことをせずに規律を守って仲良くしなさい、というのが五大教の基本的な理念であり、国常立尊の働きといえます。
ところが、物質界の平面的な大地においては、本来は神界では出会うことの無い異なる次元(霊層)に属する身魂の人間や組織や団体と出会うことになります。その時、善悪の定義や価値観の違う者同士が、互いに霊的価値観や律法を他者に向けて厳格に主張してしまうと、その法や秩序の違いから矛盾と衝突と争いが絶えず、戦乱と差別の横行する社会になる可能性があるのです。
そのため、神霊界の原理のように律法によって厳格に他人を裁いたり、人間を階級分けしたりすることで秩序と調和を維持しようとする努力は、三次元的な現実界では、排他的な孤立や衝突を招いてしまう危険性があるのです。これが物質界に神界の原則を持ち込んだ時に生じる大きな問題点の一つです。つまり、現実界においては、瑞主厳従の法則の通りに神に基づく愛と叡智に順ずるものとして、律法と罰則を設けるべきなのです。
実際、五大教が開かれた黄金山(オリブ山)のあるエルサレム周辺では、パレスチナ問題のように個々の宗教が絶対に正しいと感じることを忠実に守っているにも関わらず、互いに対立してしまうのです。
大本においても、五大教に相当する大本神諭は、神霊界の視点では過ちのない完全に正しい教えなのですが、王仁三郎が愛と叡智に照らして玉石混合した物質界に相応しい説明をするまでは、その解釈の仕方を巡って口舌や論争が絶えなかったのです。
大本神諭に 「力一杯神界の御用を致した積もりで、力一杯邪魔をいたして居るのであるから、何(ど)うも彼(こ)うも手の出し様が無いから、……」 (明治三十七年旧七月十二日)とあるのもこうした状況を明確に示しています。
一方、人は死後の世界では、神界の原理によって身魂相応の霊界に立て別けられます(経の経綸)。そのため、各々の宗教徒は、身魂相応の霊界で自己の御魂の悪を克服(荒魂)して向上を図ると共に、同じ次元の身魂同士が相調和(和魂)して価値観に応じた天国を築くことになります。つまり、神霊界においては五大教の理念によって、各々の宗教徒が対立することなく身魂相応に調和した天国に存在できるのです。
そう考えると、物質界で三大教の神的愛と叡智を重んじてきた人々の霊は、その愛と叡智とに相応しい霊界に赴き、容易に美と調和の世界を築くことが可能になるはずです。反対に、現実界で愛と叡智を全く省みない利己的で唯物論的な人間の霊は、愛と叡智が欠落した冷酷で無慈悲で殺伐とした無秩序な地獄的な霊界へ行くことになってしまうわけです。
また、中間の霊たちは、よりいっそう調和(和魂)のある高次の天国に行くために、自己の過ちを悔い改め、地獄の霊の救済に奉仕したり、物質界の人々を霊的に善導したりするために補助霊になるなどして、自ら進んで慈悲心を徳へと昇華する修行に取り組む場合があるわけです。
以上の物神二界の原則(経緯の経綸)から、次のように定義できると思います。
「肉体を持って現実界に生きる人間が三五教を信仰する場合、三大教の愛(幸魂)と叡智(奇魂)を重んじることによって、はじめて和解や調和(和魂)のための努力や苦労(荒魂)が実ることになります。したがって、人間にとっては太元神の贖い(幸魂)と智慧(奇魂)の働きこそが救済の働きということになるはずです。
そして、太元神の幸魂と奇魂の働きとは、瑞の御霊のことであり、地球では須佐之男命が神界、幽冥界、現実界を問わず救世主神として活動されているわけです。そのため、主の偉大な愛と叡智に比べれば極めて未熟な吾々人間はいかなる境遇においてもこの救世主神に救いを求めるべきである、ということになります。
また、高次の智を持たずに日々無意識に多くの過ちを犯している私たち人間は、決して他人を裁く権利などなく、むしろ厳の身魂である大国常立大神に改心を示し、日々改め、赦しを乞い願うべき存在のはずなのです。
この三五教の認識を得たとき、 『人は死後の神霊界の原則の下に慎み深く謙虚であり』 、『物質界の原則の下に愛によって助け合い、調和によって許し合えることになり』 、諸宗教は律法や戒律を超えて互いに協調し合えるはずなのです。」
その意味において、霊界物語に登場する『三五教』とは単なる宗教の一派なのではなく、霊的な真実と物質界の原則から導き出された全宗教の共通の理念であり、本来は同根である諸宗教が和解するための根本的宗教的理念だと言えるはずです。
そして、これは王仁三郎が常々強調していた点であり、霊界物語全体に流れる精神であり、三五教の宣伝師たちの精神でもあるのです。
シュタイナーは 「聖杯伝説」 についての講義の最後に、東洋と西洋の合流について、次のように述べています。
「聖杯から輝く日光は地球のあらゆる神々を照らします。それは、乙女が黄金に輝く器を広間にもってきたとき、聖杯の輝きが他の光を圧倒したという場面に、象徴的に暗示されています。
アーサー王の聖杯シリーズ 『成就』 エドワード・バーン=ジョーンズ
(聖杯を拝覧するサー・ガラハッド、ボールズ、パーシバル)
今日、西洋に現われている光に、まだ無意識に作用するキリストの力が変化した形で加わるのを、私たちは待望できます。『光は東方から』とい古い言葉が、それを告げています。光と光が結び付きます。
かつて超感覚的領域でキリストがナザレのイエスを貫いたとき、東洋へと移るためにキリストが辿った地理的な文化の流れの土壌の上に立つ準備が私たちにできていることが必要です。地上以前のキリストの開示のなかでキリストの活動がなされたことを、私たちは目にします。
やがて、地上の他の信条がキリストの衝動に貫かれるときに、私たちに告げられるものを、誤解せずに理解できる能力を持ちたいものです。」 (聖杯の探求)
一方、西洋の聖杯伝説の物語の内容とは関連性は無いものの大本神諭には次のように綴られています。
「本宮坪(ほんぐうつぼ)の内出口竹造、お直の屋敷には、金の茶釜と黄金の玉が埋(い)けてあるぞよ。是を掘り出して三千世界の宝といたすぞよ。黄金の玉が光だしたら、世界中が日の出の守護となりて、神の神力は何程でも出るぞよ。」
(明治二十七年旧正月三日)
この霊的経緯は、霊界物語(第六巻・第四十一章)に口述されており、エルサレムに安置された黄金の国玉は、玉守彦によって盗難を避けるために釜の中に隠されると、数年を経て音を立てて釜も黄金に変わってしまいます。
後に、この黄金の釜と黄金の玉は埴安彦神、埴安姫神と共にひそかに遠く東の国に持ち出され、磯輪垣の秀妻の国の淤能碁呂島(日本)の中心地なる桶伏山(圓山、綾部の本宮山)の麓に隠され、混濁の世を照らす日を待つことになるのです。
また、霊界物語・第六巻・三十三章には黄金山の麓に埴安彦という大神現れて五大教を立てたと記されており、同三十六章には、三つ葉彦は三大教の教主であると記されています。
そして、「而して埴安彦は女神にして、三葉彦神は男神なり。ここに同教一致の結果、三葉彦は名を改めて埴安姫神となりて女房役を務め、救ひの道を天下に宣言することとなりぬ。」 (霊界物語・第六巻・三十六章)と述べられていることから、埴安彦とは出口直の御魂の働きを示し、埴安姫とは王仁三郎の御魂の働きを示していると推測されます。
さらに、淤能碁呂島(おのころじま=日本)の中心地なる桶伏山(圓山、綾部の本宮山)の麓に隠された黄金の玉と茶釜については、王仁三郎は「大本言霊学」の序の中で、次のように説明をしています。
「・・・茲に大本教に日夜仕え奉れる出口の王仁三郎、大神の尊き深き御諭しのまにまに、其の玉の在処を考え済し金龍の海のそこひ知れぬ潭きを探り、弥仙山の神山の高きを尋ね水は元伊勢、火は出雲ふる玉水の玉なす光に照らされて忝くも黄金の珠と黄金の釜とを拾い得たりぬ、
斯して此神寶を月日さまねく重々に磨き洗ひて全く布斗麻爾(ふとまに)の御霊なる事を覚りければ大神の御○のまにまに其形を○し其言霊の法則を述べて一つの巻となし畏くも海神珠依姫命より開祖の神の御手を通して國常立大神に奉り玉ひし神寶にして遠き神代の古より天降りましけるが
月遷り星変りて千尋の海底に落沈しけるを竜宮の神の日の出の神と現はれ玉はむとして王仁に黄金の真玉を磨かせ黄金の釜を洗はせたまひしを熟々考ふるに正しく其玉は水火満、水火干玉にして天地万物の息を治め亦た黄金の釜は霊魂の餌を沸かし煮る可き弥の神寶にぞありける。・・・・」 (○は読解不明)
これは、霊界物語・第六巻において隠された黄金の玉と黄金の釜の封印が、出口直と王仁三郎の数々の神業によって解かれたことを示しています。そして、王仁三郎は「如意宝珠黄金の玉もこの神書(ふみ)(霊界物語)にひそみてありぬ探りて受けよ」とも記していることから、黄金の玉(神寶)は霊界物語の中に秘められていることが解ります。
このように、黄金の玉と黄金の釜がエルサレムから日本に渡った経緯は、どこか西洋の聖杯伝説と同じ流れを感じさせます。そして、出口直と王仁三郎の足跡をたどれば、「地上の他の信条がキリストの衝動に貫かれる」 というシュタイナーの言葉を裏付けるには十分なほど、当時の大本の人々がキリスト衝動に貫かれていることは、本書でこれまで述べてきた通りです。
そして、王仁三郎が「神世開基(ヨハネ)と神息統合(キリスト)は世界の東北に再現されるべき運命にあるのは、太古よりの神界の御経綸である。」(霊界物語・第一巻・第二十四章【附言】)(第二章■六■(四)参照)と語り、
大本神諭で 「黄金の玉が光だしたら、世界中が日の出の守護となりて、神の神力は何程でも出るぞよ。」 と記している事実は、
「今日、西洋に現われている光に、まだ無意識に作用するキリストの力が変化した形で加わるのを、私たちは待望できます。『光は東方から』とい古い言葉が、それを告げています。光と光が結び付きます。」 というシュタイナーの言葉を暗示しているとも感じられます。
以上、人智学と大本をこのような角度から捉えると、金の茶釜や金の如意宝珠とは西洋におけるキリストの聖杯とは、同一の起源であり、数々の符合点は西洋の光と東洋の光との結びつきを現しているとも感じられるのです。(これについても、今後の研究課題です)
また、このことは、第四章の冒頭で取上げている 『真の目覚めの内に証明されえない真の夢(理想)を、西洋人の証明の限界の彼方に示し、夢を醒ます』 ことにも通じるはずなのです。
第二章 終わり