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「弥勒仏の説法は、キリストの力が浸透したものです。弥勒仏の生涯はキリストの生涯と同じ型をとるであろう、ということが霊的な探求の結果から明らかにされています。
古代に於いて、人類の師となるべき偉大な人物が世に現われると、その人物は若い頃から特別の才能と魂の資質を現したものでした。
とはいえ、人生のある時期に至って、人格を一変させるような導師も存在します。そのような人類の導師の自我は、人生のある時期に肉体の外皮から去り、別の存在の自我がその肉体に入るのです。
イエスはこのような導師の典型です。イエスが三十歳の時、彼の自我は肉体から離れ去り、代わって、キリスト存在がイエスの内部を占領しました。弥勒菩薩はどの転生に於いても、この型の生涯を送ることになります。
このような人物は少年時代に、彼が三十歳頃に菩薩になるであろうという前兆を現しはしません。弥勒菩薩が仏陀になる時、三十歳か三十一歳の時に、他の存在が彼の肉体を所有します。
このような菩薩は若い頃には決して自分の本来の姿を明かすことはなく、他の存在が肉体を占領する三十歳ないし三十一歳の時に、全く異なった霊格を現すのです。
受胎の時点では肉体に入らず、生長した人物を自分の外被として占領する存在には、モーゼ、アブラハム、エゼキエル等がいます。」
以上は、R.シュタイナーの邦語訳書『仏陀からキリストへ』(書肆風の薔薇)第七講より、『弥勒菩薩の特徴』の講義の一部を抜粋
シュタイナーは、仏陀はそれぞれの文化期の肉体に受肉しながらも、その組織を使用することなく生きていることができた、としています。
また、極めて高次の存在であったため、通常の人間が第四、五、六、七文化期を通して徐々に発展させる内的な能力を、一回の受肉で全てを体験し仏陀となったのだとしています。
仏陀とイエス・キリストは一見すると全く異なった人生を歩んでいますが、シュタイナーは釈迦やイエスの肉体の生涯には共通した「型」があるとしています。
特に、釈迦は二十九歳の時に菩提樹の下に座して水星に君臨する運動霊(デュナミス)から霊感を受けて仏陀になり、イエスには三十歳の時に自我に太陽の叡智霊(キュリオテテス)であるキリストが降ったとしています。
そして、弥勒菩薩の場合も、こうした聖人と同様に三十歳頃に別の自我が入るという「型」の生涯を送ることが特徴であるとしているのです。
実は、大本における王仁三郎にも、三十年単位の『型』が見られるのです。
実際、出口直開祖のお筆先には、「三十年で身魂の立替え立直しといたすぞよ」とあります。
また、王仁三郎自身も1921年(大正10)、50歳のときの回顧録を読む限り、これを自覚していたことが解ります。
出口王仁三郎は、1871年(明治4)旧7月12日に出生し、1901年(明治34)新7月20日の30歳の時に「火水の戦い」が開始されているので、誕生してから須佐之男命が神懸るまで三十年の修行をしたということになります。
さらに、27歳の時には、1898年(明治31)3月1日からの一週間、高熊山での修行が始まり、1928年(昭和3)3月3日、57歳で「みろく大祭」が行なわれており、修行開始から弥勒菩薩としての活動に至るまでに三十年を要しているのです。
■須佐之男命の修行と活動
◇1871年旧7月12日【
出 生 】から
1901年新7月20日【火水の戦い】まで
→ 須佐之男命が降るための
◇1901年新7月20日【火水の戦い】から
1928年新3月 3日【みろく 大 祭】まで
→須佐之男命としての活動
■弥勒菩薩の修行と活動
◇1898年新 3月 3日【高熊山修行】から
1928年新 3月 3日【みろく大 祭】まで
→ 弥勒菩薩が降るための
◇1928年新 3月 3日【みろく大 祭】から
1948年新 1月19日【 昇天 】まで
→ 弥勒菩薩としての活動
つまり、王仁三郎は、三十歳の時に『須佐之男命の自我が降りる型』を示しており、この点においてシュタイナーの言葉を明確に証明しています。
ただし、王仁三郎の場合は、高熊山修行から更に三十年の修行を経たことで満56歳7ヶ月で「みろく大祭」に至り、『弥勒菩薩が自我に降る型(弥勒下生)』を示しているのです。これは、大本の歴史が明確に証明しています。
これについても、「火水の戦い」の須佐之男命の神懸りが、明確な証拠になると思います。しかし、『ミロク』以前の『スサノオ』としての王仁三郎の働きの真意はどこにあるのか、という疑問が湧いてきます。
当時、お筆先では、王仁三郎を「三千世界の大化物」と呼び、善とも悪とも、高い神格とも低い神格とも受け取れる非常に謎めいた存在として語られています。実際、五六七(みろく)の意味を探ろうとする時、王仁三郎の論述は一貫性がないのです。
例えば、大正八年三月には、「五六七」を地球の修理固成時代、最高位の神の御名を意味すると述べたと思えば、大正九年一月には「五六七」と書いてミロクと読んでいる理由は別に深遠な意義は無く、仏典の五十六億七千万年の数字を略しただけであるとも述べているのです。これは、誰が読んでも明らかに矛盾しています。その他にも、「五六七」の意味は、様々な解釈が為されていて、その時には解ったと納得すると、すぐに納得できない状態にさせられてしまうのです。
しかし、実はこの矛盾とも感じられる多次元的な観点からの多種多様な解釈こそが、「須佐之男命」の全知全能的な特長であるとも考えられるのです。それを理解するために、ここで一つの比喩を用いてみましょう。
例えば、私たち人間は「山」について考える時、スケッチをすれば図画、俳句を詠めば国語、動植物を調べれば理科、虫や小鳥の声を歌にすれば音楽、勾配や標高を測定すれば数学、山の幸で料理をすれば家庭科、登山をすれば体育……といったように「山」を解釈するこができます。
そして、そのいずれの「山」の解釈の仕方にも間違えはなく、正しい解釈なのです。しかし、そのどれか一つの観点のみに偏ると、自分だけが正しいと錯覚し、他の解釈が間違っているように感じ、他を軽視したり排除したりしてしまうことがあるのです。
「山」に対する芸術的表現方法の違いで、画家と作曲家が対立するのは滑稽なことです。同様に、環境保全のために山を守ろうとする団体と、人々に快適な住いを提供しようとする建設会社が対立するのも、これと何ら変わりないことです。それこそが、本来は友であり愛すべき隣人を敵とし、悪人だと誤謬させる、現実的な意味での悪の根元だと言うことができます。
このことは、シュタイナーが主知主義の問題点について指摘した次の言葉にも良く表現されています。
「主知主義の『立場』は、相互に反発しあっている。霊的観照は、『立場』を『立場』として尊重する。立場が異なれば、世界も違って見えるものである。ちょうど、一軒の家をさまざまな角度から写真に撮るようなものである。その写し撮られた象は違っていても、家そのものは同じである。
家をぐるりと一周して初めて、全体の印象が捉えられる。霊的な世界に立ってみると、ある立場の『正しさ』を承認することができる。ある『立場』から撮影された写真が妥当であると認められる。すると、次にはその立場の妥当性と意味が問題になる。」
では、「神」について考える時は、どうでしょうか。人間は、「山」に対して、国語的解釈が正しい、算数的解釈が正しい、いや理科的解釈の方が……、とでもいうように、「神」を国家や個々人の伝統や価値観にだけ照らして固定観念にしてしまっていることが非常に多いのです。
それは、「山」を国語、算数、理科、社会、体育、家庭科として、バラバラに解釈するかのように、「神」を仏教、ユダヤ教、キリスト教、神道、イスラム教、などのようにバラバラに解釈してしまっているのと同じことなのです。
それは、大本神諭の言葉を借りれば、主なる神を松魚節(かつぶし)のようにバラバラにして偏狭な解釈をすることで、主神を矛盾だらけの存在にしてしまっているという事ができます。(各宗教の繋がりについては、二章■七■で具体的に触れます)
大本では王仁三郎に降りた「スサノオ」が、神様を様々な次元から多角的な方法で多種多様に解釈し、その全てが全知全能の「神」の働きであることを示していたと考えられます。しかし、それは同時に、偏狭な人間の信仰から発する誤謬と偏見を、はっきりと露呈させる結果にもなったのです。だからこそ、各宗教の宗門宗派の色眼鏡で「神」を見るような当時の宗教家や宗教学者には理解できなかったのです。その意味でも、この時代の大本は「神」と「学」との力比べの戦をしていたともいえます。
出口王仁三郎に直接降ろされた筆先「伊都能売神諭(いづのめしんゆ)」にも、 「神の目から見れば、世界に一人も敵は無いなれど、人民が敵に成りたがるので在るぞよ。」 (一九一九年、大正八年六月三日)とあり、王仁三郎もこうした人間の偏狭さや利己的な宗教観念こそが、他教や他民族への偏見を生じさせ、己の敵を作り出すことを当然のように理解していたことが解ります。
実際、王仁三郎が説いた教えは、宇宙森羅万象、三千世界を守護する主神の教えであり、その意味では、私たちの生活の全てが神と共に生きることであり、呼吸や心臓の鼓動までもが神の現われであることを示しているのです。また、出口直開祖が屑買いで生計を立てていた型のように、「この世の一切を神の一部」として捉え、無駄のないように感謝して物を扱うことを行動で示してきたのです。
出口直は行動によって神を行じ、神を生きた存在であり、王仁三郎は言葉でそれを説明した存在でもあったのです。そのため、直を経糸(たていと)、王仁三郎を緯糸(よこいと)として、神の錦の旗の仕組が織られてきたと
いわれるのは、両者によって『知行合一』のミロクの世の型を示していたとも解釈できるかもしれません。
そして、大本では国祖国常立尊の言う通り、明治五十年(大正六年・一九一七年示す)を真中として前後十年の二十年間に「神」への信仰を、物質主義的で自分本位の 【体主霊従(たいしゅれいじゅう : 利己的な吾良し主義)】 の解釈をする人間と、人知の及ばない神を謙虚な姿勢で 【霊主体従(れいしゅたいじゅう : 他人も良し、吾も良し)】 の解釈ができる人間とを見定めて、「善」と「悪」が立て別けられたわけです。したがって、スサノオの働きとは、そうした謙虚な姿勢で神を信仰していた人々こそがミロクの世に残るという「型」を示したとも受け止めることができるのです。
大本神諭には、 「経の役は口で言わせる事も、手で書かせる事も、毛筋程も違いはせられん辛い御役であるなり、緯の御用はサトクが落ちたり、糸が切れたり、口が曲みたり、初発には言うた事も違うたりすると云う事は、筆先にアレ程出して在るのに、未だ取り違いをいたして、色々と申して居る人民が在るが、細工は流々、仕上げを見てくだされよと申してあるぞよ。」 (一九一六年、大正五年旧十二月三日)と書かれています。
それは同時に、スサノオも国常立尊もどちらも間違ってはいないことを意味しているのです。しかし、その教えを受け止める人間によって、どちらかが悪く感じられたり、どちらも悪く感じられたりしてしまうのです。それは、全ての宗教においても同じことで、キリスト教や仏教が多くの教派や宗派に枝分かれし、あるいは同じ旧約聖書の解釈の違いで分派し、戦争が起きてしまうのも全く同じ道理なのです。
王仁三郎は、スサノオこそ真の救世主であると説いていますが、それはルカ福音書第二章からも理解することが出来ます。そこでは、エルサレムで信心深く救世主キリストを待ち望んでいたシメオン (シュタイナーによれば、幼い釈迦を見て仏陀になることを予見したインドの仙人アシタが転生した存在) という人物が、幼いイエスを両腕に抱き、母マリヤに次のように話します。
「驚きなさるなよ、この幼児はイスラエルの多くの人を、この方に対する態度によって倒されたり立たせたりする、また、一つの目印となってこの世の烈しい反対をうける使命を負わされているのです。―――母人よ、あなたも剣で胸を射しつらぬかれる苦しみをせねばなりますまい。―――これは多くの人の心の隠れた考えを外に出させるためなのです。」
この言葉からも、イエス・キリストも、産まれながらにして主の言葉を人々に伝え、その言葉の意味を理解する人々と、理解しない人々とをはっきりと示す使命を負っていたことが解ります。
そして、イエス・キリストの言葉によって、多くの人の心に隠れていた考えは明らかにされ、その言葉を信じた者が救われることになったのです。これは、素盞鳴尊の型を生きた王仁三郎の足跡と同じ型であると感じられます。
王仁三郎が先の伊都能売神諭を綴っていたのと同年の一九一九年七月二十七日に、シュタイナーは「ルシファーとアーリマンの受肉」と題する講義の終わりに 、次のようにも述べているのです。
「現代を行きる人間には、幾つかの主観的な傾向を――つまり自分が好んでいるものや、『これは敬虔(けいけんだ)』とか『これは賢明だ』などと信じているもののうち、いくつかのものを――脱ぎ捨てることが強く求められています。
いま、人類にとっては、他の何にもまして多面性が、多面性への勇気が問題となっているのです。」
(悪の秘儀・第三章)