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シュタイナーの神と宇宙の概念については、シュタイナー哲学体系【F】でも既に説明をしていますが、おおよそ次のように表現することができます。
――― 神霊――― → ――― 人間 ―――
【1】父 <神の霊人(アートマ)に相当>
→(1)アートマ(霊人)
【2】母 <神のブッティ(生命霊)に相当>
→(2)ブッティ(生命霊)
【3】子 <神のマナス(霊我)に相当>
→(3)マナス(霊我)
【4】セラフィーム(愛の霊) <神の意識魂に相当>
→(4)意識魂
【5】ケルビーム(調和霊) <神の悟性魂に相当>
→(5)悟性魂
【6】トローネ(意志霊) <神の感覚魂に相当>
→(6)感覚魂
【7】キュリオテテス(叡智霊) <神のアストラル体に相当>
→(7)アストラル体
【8】デュナミス(運動霊)<神のエーテル体(生命体)に相当>
→(8)エーテル体(生命体)
【9】エクシスアイ(形態霊) <神の肉体に相当>
→(9)肉体
※付録【2】 参照
そして、シュタイナーは最高次の神霊存在について、次のように述べています。
「天使たちの位階を越えて、最高の神霊たちの霊的本質について、イメージを形成するのは非常に困難です。ですから、人類進化の経過のなかで、様々な宗教や世界観が、天使たちの位階を越えたものついて、感覚界を思い出させるようなイメージをもって語ることを、畏怖の念を持って思いとどまったのです。」
(天使たち妖精たち)
この言葉からは、父・母・子、あるいは、父・子・聖霊、という最高次の神霊存在について人間が語るのは、全く不可能に近いことがうかがえます。ただ、シュタイナーは、次のようにも説明しています。
「しかし、人間があわらに語るべきではなく、神聖な蜜儀の秘密として隠しておくべきものについてのイメージを、いくらか呼び起こすことはできます。外界をとおして得られた悟性的な概念によって、このようなことがらに接近するべきではありません。ですから、宗教やさまざまな世界観は、人間を超えた、すでに自然において神秘的なものを、崇高な存在の性格を表す名称として引き合いに出したのです。
古代エジプト人は、それらの存在に名称を与えるに際して、『子・母・父』という、個々の人間を超える概念を用いました。キリスト教はこの三つに『聖霊・子・父』という名を与えました。
「彼らは、人間において肉体と呼ばれるようなものをみずからの一部とするのではく、形態の神霊という天使存在を、自らの一部としています。
私たちが肉体のなかに生きているように、高次の崇高な存在たちは、形態の神霊たちを最下位の構成要素としています。」
(天使たち妖精たち)
つまり、形態の霊とは、宇宙の大神霊のもっとも外側の形姿であるわけです。そして、形態の霊の下位に、時代霊、大天使、天使という存在が続き、その下位に人間存在が位置するわけです。ですから、人間が神霊を理解しようとするのは、人間の腸内に住むビフィズス菌が人間の姿を想像し、理解しようとするよりも難しいというべきなのかもしれません。
ただし、人間的、宗教的な観点からシュタイナーは三位一体の神について次のように述べています。
これはどういう意味だろう。『位格(ペルソナ)』というのは、ラテン語で『姿形』 『仮面』 『外に開示するもの』という意味である。元来のキリスト教では三柱の神々についてではなく、一柱の神が自らを開示する三つの形態について語られた。その三つの形態がどういう関係にあるか、人々はまだ感じ取っていた。」
(シュタイナーキリスト論集 父・キリスト・聖霊 )
つまり、三位一体の神とは、一柱の神の三つの形態を意味していることが解ります。
◆第一の神性 : 父
密儀の第七段階に至った者は、父なる霊の模造である。
自然の力の背後にあり、自然のいたるところに活動し、
人体の中にもみられる霊的な力。
◆第二の神性 : 息子
密儀の第七段階に至った者は、地上における神の代理人である。
太陽霊であり、後に息子なる神と言う名で理解され、
人間が自由意思を発展させるところに存在する。
人間の自由意思から生じた不健全な意思を癒す。
◆第三の神性 : 聖霊
密儀の第五段階に至った者に、聖霊が示現する。
「昔の人々は、『神性は三種に開示する』と言った。彼らは、『自然神と意思の神と、意思を癒し霊化する霊神がいる』とも言った。昔の言葉で『父』は物質的なものの起源に関連するもの、自然的なものを意味した。近代語では、この語からそのような意味が失われた。
昔の人は『自然神=父がいる。意思の神=息子がいる。そして、意思によって病んだものすべてを癒す神=聖霊がいる。これらは三つで一つである』と言った。彼らが語ったもっとも重要な確信は、『神性の三つの形態がある。その三つは一つである』ということである。
石を見ると、そのなかに何が働いているだろうか。父である。植物を見ると、そのなかに何が働いているだろうか。父なる神である。人間の肉体には何が働いているだろうか。父なる神である。
しかし、人間の心魂を見ると、意思のなかに何が働いているだろうか。神の息子である。未来に意思が再び健康になるとき、そこには霊なる神が働いている。
三柱の神々が人間のなかで働いている、と人々は言った。三柱の神々あるいは神的形態が存在する。それらは一つであり、一体のものとして人間のなかで働く。
これが、キリスト教本来の確信である。――後略――」
(シュタイナーキリスト論集 父・キリスト・聖霊 )
さらに、シュタイナーは宇宙のカルマとして、人間の霊は死から転生の間のある段階において、惑星の霊界領域における第一ヒエラルキアや第二ヒエラルキアの存在に出会うことができると語っています。
しかし、生前に神の存在をまったく信じてこなかった霊の場合は、仮にその霊が高次のヒエラルキアの世界に至っても、何も認識できないことを明かしています。
つまり、現世で生きている間に、神々の働きを学び、意識を向け、その存在を信じることが、死後の世界において神々に出会うための非常に重要な条件だというわけです。
このことについては、死後や来世でキリスト存在を霊視する能力についても共通しています。
「今まで話してきましたようなキリスト理解も、物質界においてのみ得られるのです。そして、今から三千年の間に、人類は霊的なキリストを見る力を物質界で獲得してゆくことになります。物質界において、キリストを理解する条件を作り、霊的なキリストを見る能力を用意するのが人智学の使命です。
今日、エーテル的キリストは人間界の中で働いています。物質界においてエーテル的形姿のキリストを見る能力を得ますと、地上に生きている間、あるいは死と再受肉との間の時期に、キリストを見ることができます。
キリストのエーテル的形姿を見ることができないまま死んだにもかかわらず、物質界でキリストを理解した人は、死後キリストの姿を見ることができます。
霊的生活から遠ざかり、キリストを理解しなかった人にはキリストは見えず、その理解を得るのに次の転生をまたねばなりません。」
(仏陀からキリストへ)
※第一章■二■参照
※第二章■六■(四)
※第二章■六■(六)
出口王仁三郎は、神についての認識を著書の中で次のように述べています。
「大宇宙と云へば、世人皆大きな世界という意味に承知して居るようであるが、そうでは無い宇宙は大の字の形をして居るので、それで大宇宙といふのである。大の字は又人間の形である頭があり。両手両足があり、胴がある形だ。更生館は生まれたことを記念する為に大の字の形に造ったのである。
艮の金神様は、其のお筆先に於いて生き神であると云ふ事を常に申されて居るので、開祖さまが嘗て『一度大神様のお姿を拝みたふございます』と申し上げられると『其方(そなた)の姿が此方(わし)の姿であるわい』と仰有った。
そうして又『本当の姿は青雲笠着て耳が隠れぬわい』と仰せられた。之は人体的に顕現せらるる場合と、御本体とを区別して申されたので、御本体即ち大國常立尊として宇宙と其広がりを等しうせらるる訳である。実際生きて居られて、其お姿即ち大宇宙の姿も人体と同じ形である。
無論人間の肉眼をもってしても、又如何なる精巧な望遠鏡をもってしても決して見得るものではないのである。之を譬へば、象の足にとまった蟻が決して像全体の形を見得ぬと同じ事である。たとへどんな遠方へ離れて之を見ても遂に其全部の姿を見得ぬであろう。
毛の中に潜り込んだ蟻などは大密林に遭遇し、行けども行けども平地に出られないという風にも思ふだらう。大宇宙は生きて居る、大の字即ち人の形をしていきて居る。頭もあれば、手も足もあれば、目もある。だがそれは人の想像に絶したものである。象の比喩(たとへ)でもって推理して考へて見たらよい。」
(昭和八年九月・玉鏡「大宇宙」)
「高天原の全体の形式は、一個の人身に似てゐるやうである。また人身中における万(よろづ)の事物は、すべて高天原の事物に相応するものである。」
(霊界物語 第四十七巻 第十五章)
「天国の全体は一つの巨人に譬(たと)うべきものである。」
「宇宙の秘密や真相はとうてい二言や三言で現代人の脳裡(のうり)に入るものではない。また、本当にこれを物語ったところで、とうてい人間の頭脳には入り切れるものではない。人間の分際としては、いかなる聖人も賢哲も決して天国や霊界の秘密や真相を握ることは不可能だと信じている。
何となれば、この秘密や真相は宇宙それ自身のごとく、無限で絶対で不可測で窮極(きゅうきょく)するところのないものだからである。」
(霊界物語・第十八巻・巻末『霊の礎』)
以上につては、説明は要らないと思いますので、次に、王仁三郎の絶対神(天帝)についての解釈を抜粋してみましょう。
「真神たる天之御中主の大神その霊徳の完備具足せるを天照皇大御神と称え奉り、また撞(つき)の大御神と称え奉る。しかして火の御祖神(霊)を高皇産霊大神と称え厳の御霊と申し奉り、水の御祖神(体)を神皇産霊大神と称え瑞の御霊と申し奉る。」
「霊系の主宰神は厳の御霊にまします国常立神、体系の主宰神は瑞の御霊とまします豊国主尊と申し奉る。」
「以上の三神はその御活動によりて種々の名義あれども、三位一体にして天之御中主の大神(大国常立尊)御一柱に帰着するのである。」
「ゆえに独一真神と称え奉り、一神すなわち多神にして、多神すなわち一神である。これを短縮して主(しゅ)と日う、また厳の御霊は霊界の主である。また瑞の御霊は現界人の心身内を守り治る主である。」
(霊界物語・第十七巻・巻末『霊の礎』)
以上から、天照皇大御神、高皇産霊大神(厳の御魂)、神皇産霊大神(瑞の御魂)の三神は、天之御中主の大神一神に帰するとしています。さらに、厳と瑞の働きについては、次のように述べています。
「さて、厳の御魂に属する一切の物は、悉皆(しっかい)、瑞の御魂に属せしめ給うたのでありますから、瑞の御魂は、すなわち厳の御魂同体神ということになるのであります。ゆゑに、厳の御霊を太元神と称え奉り、瑞の御霊を救世神または救いの神と称え、または主(す)の神と単称するのであります。」
(霊界物語・第四十七巻・総説)
以上から、主(しゅ)とは、独一真神を示し、主(す)の神とは、救い主の働きをされる瑞の御魂の別称であることが解ります。
天之御中主の大神=主
厳の御霊=霊系の主宰神=国常立尊=霊界の主=太元神
瑞の御霊=体系の主宰神=豊国主尊=現界の主=主(す)の神
「また瑞の御霊は、神素盞鳴大神と顕はれたまひ、大海原の国を統御遊ばす、神代(かみよ)からの御神誓(ごしんせい)であることは、神典古事記、日本書記等に由って明白なる事実であります。」
(霊界物語・第四十七巻・総説)
「しかして厳の身魂は、荒魂、和魂もっとも重きを占め、瑞の身魂は、奇魂、幸魂もっとも重きを占めるなり。」
(霊界物語・第六巻・第二十六章)
としており、厳瑞のどちらにも偏らず、調和した存在が「伊都能売の身魂」であり「五六七の身魂」であるとしています。
以上のことから、三主神も二主神も共に一主神に究極することが解ります。そして、天帝の働きは、一神即多神、多神即一神の存在であり、その働きの違いによって御神名を使い分けていると考えるべきでしょう。
「要するに、神は宇宙にただ一柱坐しますのみなれども、その御神格の情動によって万神と化身したまふものである。」
(霊界物語 第四十七章 第十二章)
したがって、「天帝」とは、これら三神、あるいは二神の総称であると考えるべきであり、あまり神名に囚われ過ぎて、どちらの神が上でどちらの神が下かという議論をすることは、「人間の右脳と左脳と小脳の働きは、どれが最も尊いのか?」あるいは、「右目と左眼とでは、どちらの働きが重要なのか?」という禅問答のような袋小路に入ってしまうことになります。
実際、出口王仁三郎も次のような言葉を残しています。
「半可通的論者は、日本の神道は多神教だからつまらない野蛮教だと云って居るが、斯(か)かる連中は我国の神典を了解せないからの誤りである。独一神にして天之御中主大神と称え奉り、其他の神名は何れも天使や古代の英雄に神名を附されたまでである事を知らないからである。
真神は宇宙一切の全体であり、八百万(やほよろづ)の神々は個体である。全体は個体と合致し、個体は全体と合致するものだ。故にどこまでも我神道は一神教であるのだ。」
(新月の光・下巻・第六章・日本の神社の祭神)
同様に、霊界物語にも次のように口述されています。
「天帝 大六合治立尊(大国常立尊を意味する)は、一霊四魂 三元八力をもつて万物を造り、みずから直接にこれを保護し給ふことなく、各自にその守り神を定めて、れこを管掌せしめ給ふは、この物語によりて考ふるも、もはや明らかに判明することと思ふ。」
(霊界物語・第六巻・第二十六章)
また、こうした神名とその働きは、○○神、○○命、○○尊の違いまで考慮すると非常に複雑なものになるはずなのですが、その他の内容も含めると、おおよそ次のようになると考えられます。
◎太元神(おほもとかみ)(修理・固成) 天之御中主大神
=大国常大神=六合常立大神
◎救世神(きゅうせいしん)(霊徳・仁愛) 天照皇大御神
=撞の大神=至仁至愛大神
◎天照皇大御神の化身あるいは分霊=
神素盞鳴大神
○火の御祖神(霊系の元祖・厳) 高皇産霊大神
=神伊邪那岐大神=国常立大神
=日の大神=厳の御霊(荒魂・和魂)
→主宰神・国常立命
○水の御祖神(体系の元祖・瑞) 神皇産霊大神
=神伊邪那岐大神=豊雲野大神
=月の大神=瑞の御霊(幸魂・奇魂)
→主宰神・豊雲野命
◇太陽神(太陽・厳)〇霊界の主宰神・伊邪那岐命
〇現界の主宰神・天照大御神
◇月神 (太陰・瑞)〇霊界の主宰神・伊邪那美命
〇現界の主宰神・月夜見命=神素盞鳴尊
□地球神(地)△霊系の主宰神・国祖国常立命(厳)
△現界の主宰神・須佐之男命 (瑞)
次に、王仁三郎のミロク観について考察してみましょう。
まず、王仁三郎は「天之御中主之の御精霊たる天照皇大神は、至仁至愛(みろく)の大神なり。神は勇知愛親を以て心と為した給へ共、特に仁愛(みろく)を以て主とし玉ふ。」としていることから、至仁至愛(みろく)大神とは「太元神の仁愛」を称えた呼び名であるとも解釈できます。
そのため、王仁三郎は、究極的な至高の存在を「天帝(てんてい)」(月鏡)としていますが、 「至仁至愛天帝(みろくのかみ)」(裏の神諭)とも書いているのです。
さらに、霊界物語では「天之御中主の大神その霊徳の完備具足せるを天照皇大御神と称え奉り、また撞(つき)の大御神と称え奉る。」としています。
これに対して、大本神諭には「撞(つき)の大神様のような御慮見(ごりょうけん)の善い、花も実もある元の大神様が、ミロク菩薩となりて、世に落ちて御居で成されての御艱難御苦労、……。」 (明治三十七年旧正月十日)と綴られています。
したがって、弥勒菩薩とは天照皇大御神の化身あるいは分霊であると推測できます。
そして、ミロク三会については、次のように述べています。
「天のミロク、地のミロク、人のミロクと揃うたときが、ミロク三会である。
天からは大元霊たる主神が地に下り、地からは国祖国常立尊が地のミロクとして現われ、人間は高い系統をもって地上に肉体を現し、至粋至純の霊魂を宿し、天のミロクと地のミロクの内流をうけて暗黒世界の光明となり、現、幽、神の三会を根本的に救済する暁、すなわち日の出の御代、岩戸開きの聖代をさしてミロク三会の暁というのである。
要するに瑞霊の活動を暗示したもののほかならぬのである。天地人、また法身、報身、応身のミロク一度に現れるという意味である。―後略―」(水鏡)としています。
加えて「天のミロクは瑞霊であり、地のミロクは厳霊であり、人のミロクは伊都能売の霊であり、この三体をミロクと称して王ミロクというのである。」(水鏡)としています。
このことは、大本神諭では「天は至仁至愛真神(みろくさま)の神の王なり、地の世界は根本の大国常立尊(おおくにとこたちみこと)の守護で、日本の神国(しんこく)の、万古末代動かぬ神の王で治めるぞよ。」(大正五年旧十一月八日)と記されています。
【
そして、「人のミロク」である「伊都能売の霊(五六七の身魂)」については、次のように口述されています。
「つぎに伊都能売の身魂について略述すれば、この身魂は、一に月の霊魂(れいこん)ともいひ、五六七(みろく)の身魂と称せらる。五六七の身魂は厳の身魂に偏せず、瑞の身魂にも偏せず、厳、瑞の身魂を相調和したる完全無欠のものなり。」 (霊界物語・第六章・第二十六巻)
実際、出口王仁三郎は、生誕からみろく大祭までの期間を、次のように経てきていると考えられます。
■須佐之男命が降るまでの30年の修行 (瑞の御魂の修行期)
◇ 1871年 旧7月12日 【出生】
〜 1901年新7月20日 【火水の戦い】までの30年間
■弥勒菩薩が降りるまでの30年の修行 (厳の御魂の修行期)
◇ 1898年新3月1〜7日【高熊山修行】
〜1928年 新3月3日 【みろく大祭】までの30年間
※第一章■五■(一)参照
このとき、須佐之男命へ至るまでを「瑞の御魂の修行」、須佐之男命が弥勒菩薩に至るまでを「厳の御霊の修行」と考えることもできると思います。つまり、瑞と厳の修行を経て、伊都能売霊(みろくの身魂)になり、みろく大祭を迎えたと考えられるのです。
また、神素盞鳴尊について霊界物語には、次のようにも口述されています。
「要するに、神は宇宙にただ一柱坐しますのみなれども、その御神格の情動によって万神と化身したまふものである。さうして厳霊(いづのみたま)は、経(たて)の御魂と申し上げ、神格の本体とならせたまひ、瑞霊(みづのみたま)は、実地の活動力に在(おは)しまして御神格の目的すなはち用を為したまふべく現われたまうたのである。
ゆえに言霊学上、これを豊国主尊と申し奉り、また神素盞鳴尊とも称へ奉るのである。さうして厳霊は、高天原の太陽と現はれたまひ、瑞霊は、高天原の月と現はれたまふ。ゆゑにミロクの大神を月の大神と申し上ぐるのである。
ミロクという意味は、至仁至愛の意味である。さうして、その仁愛と信真によつて、宇宙の改造に直接当たらせたまふゆゑに、弥勒と漢字に書いて『弥々(いよいよ)革(あらた)むる力』とあるのをみても、この神の御神業の、如何なるかを知ることを得らるるのである。」
(霊界物語 第四十八巻 第十二章)
以上から、「弥勒菩薩とは、須佐之男命が天照皇大御神(瑞)と大国常立尊(厳)との内流を受けて伊都能売の霊魂となった存在のことである。」と推測され、次のように示すことができると思います。
◇天のミロク → 天照皇大御神
→ 瑞霊 (神界に残された寡婦イシス・月神)
◇地のミロク → 国常立尊
→ 厳霊 (幽界に降ったオシリス ・ 太陽神)
◇人のミロク → 弥勒菩薩
→ 伊都能売霊(オリオン星座から降った寡婦の息子)
また、霊界物語・第四十七巻・総説では、「スサノオ」の存在は、天照皇大御神と同一神であり、救世神として説明されており、厳の御霊、瑞の御霊、素盞鳴大神(瑞)についても王仁三郎は「神を三分して考えることは出来ませぬ。」としています。
たがって、この三神も太元神の働きの各側面を表現しているものと思われます。しかし、あえて三位一体の「子」をスサノオと位置付けた場合、おおよそ次のように推測されます。
〇神素盞鳴大神→〔大宇宙〕太元神の霊徳仁愛である天照皇大御神
(撞の大神)の化身
〇神素盞鳴尊 →〔太陽系〕神伊邪那岐大神である豊雲野命
(月の大神)の化身
〇須佐之男命 →〔地 球〕 伊邪那岐命(月神)の化身
もちろん、これらの神名についても、三神は規模の違いはあるものの同一神の働きであり、本来は区別すべきではないものと思われます。
また、神諭には「変性女子(へんじょうにょし)は人民からは赤ン坊なれど、神が憑(うつ)りたら、誰の手にも合わん身魂であるぞよ。」とあることから、瑞の御霊の子であるスサノオ存在に、上位の神霊である厳(父)と瑞(母)の霊が降った時、ミロクとして伊都能売の活動をすることになるものと考えられます。
ここで、シュタイナーと王仁三郎の中間的な説明をしているエマヌエル・スウェーデンボルグ(1688-1772)の言葉を取り上げておきたいと思います。
「いまや素晴らしきことを話し、それを伝えることが許された。私が知る限り、そのことはいままで誰にもしられなかったことであるばかりか、誰の心にも思い浮かばなかったことである。つまり、全天国は『主』に相応して、「聖なる人間」の形につくられているということがそれだ。
そして、人間はそのようにしてつくられているので、彼の中にあるものはその総体としても個々のものとしても天国と相応し、また天国を通じて主と相応している。これは偉大な神秘であり、それがいま明らかにされた。(『天国の秘儀』三六二四)」
(霊感者スウェーデンボルグ)
さらに彼は、違う観点から次のように述べています。
「主は、天界にいますというだけではなく、主は天界そのものです。実際、天使を天使にしているのは、愛と叡智であって、その二つは、天使のうちにあっても、主からのものだからです。したがって、主は天界であるということになります。」 (神の愛と知恵)
「……天界は天使たちからなっており、天使たちは、以上のようです。すなわち、全天界が主の方を向いており、その向きにしたがって、主は天使を一人の人間としてしかも主のご覧になるまま、治めておられるのです。」
(神の愛と知恵)
「……古代人たちは、人間を小宇宙すなわち小型の宇宙と呼びましたが、それは、相応の知識から汲み取ったもので、最古代の人たちは、天界の天使たちとの交流によって、その知識のうちに浸っていました。天界の天使たちは、自分たちのまわりに見えるものによって、宇宙万物は、その役立ちの面からみて、人間のイメージをもっているのを知っています。」
(神の愛と知恵)
こうしたニュアンスは、シュタイナーが神を九層の天使存在によって形成されていることと、どこか共通したものを感じさせられます。
また、「全天国は『主』に相応して、『聖なる人間』の形につくられている」という見解は、先に取り上げた出口王仁三郎の「大宇宙は生きて居る、大の字即ち人の形をしていきて居る」という見解と共通しています。
ちなみに、シュタイナーの洞察では、スウェーデンボルグは土星秘儀の参入者で、宇宙の熱の作用に敏感であり、先祖返り的なイマジネーション認識を有していたとされ、前世はイエズス会の創始者イグナティウス・ロヨラ(1491-1566)とされています。(シュタイナー用語辞典)
また、出口王仁三郎は、『霊界物語』の四十二巻あたりから、スウェーデンボルグ著・鈴木大拙訳の『天界と地獄』と全く同じ内容を、所々使用していることは比較的よく知られています。
その理由について、王仁三郎自身は、霊界物語・第○○巻・序文(何巻か分からなくなってしまったため解り次第訂正します)に、精霊は記憶力に富んでいるため一度読んだ書物はそのまま記憶していて、読んだことを忘れても時々知らず知らずに口述していることがある、といった見解を述べています。
ただ、王仁三郎がこうした内容を語ったということは、それを審神によって認めていた証拠でもあり、ここではその詳細については語る必要はないでしょう。
ここまで、シュタイナー、王仁三郎、スウェーデンボルグの三人の偉大な見霊者の言葉を取り上げてきましたが、その内容からは、次の三つの結論が導き出されると思います。
第一に、『大宇宙の主神は、人間の肉体と同じ形を持った巨人である』という共通点を発見することができます。
第二に、『三位一体をなす主神は、主神の意志(愛と叡智)に完全に従うことのできる高次の天使存在を自身の「体」としている。』といえます。
第三に、『主と天使は統一的意識に貫かれているため、多神的でありながら一神としての働きをすることができる』ということも共通しています。
その意味で、『多神即一神であり、一神即多神である』ことが共通している事がわかります。
同時に、こうした高次の認識が見霊者の共通した見解であることを認識することで、一神教と多神教の双方を否定する必要もなく、共に正しい見解であり、単にその観点が違うだけであることに気付けます。それは、多くの宗教間の相互理解と和解と平和という、極めて重要なテーマにつながるはずです。
シュタイナーは天体の神霊について語った際に、次のようにも述べています。
「守護天使の働きのなかに存在する意図に従って、心魂のいとなみが別様になるべきであるということに、よく注意してください。理論においても実際にも、私たちは人間を『肉体の質に関して高度に進化した動物に過ぎない』とは思考しないようになるべきです。
私たちはどの人に対しても、『神的な宇宙の根源が、この人の肉と血をとおして開示されている』という感情を持って向かい合うべきです。
可能なかぎり真摯(しんし)に、力強く、そして分りやすく、『人間は精神世界から開示されたイメージだ』と把握(はあく)するのです。そのような把握の可能性が、守護天使をとおして、イメージとしてもたらされます。
いつかこのことが実現すると、つぎのような結果が生まれます。将来、人類のなかで発展する自由な宗教性は、単に理論ではなく、実際の人生実践そのものにおいて『人間一人一人の中に神の似姿を認識する』ということに基づくことになるでしょう。」(天使たち妖精たち・補遺)。
第四章■五■(七)参照
一方、大本神諭には、「……神代(かみよ)に成ると、神も人民も同じ心だ、夫(そ)れを神代(じんだい)と申すぞよ。」(大正六年旧正月二十二日)とも書かれています。
そこで、この「主神と天使」あるいは「神と人間」の関係を非常に解り易く表現している出口日出麿(ひでまる)氏の言葉をご紹介させていただこうと思います。
出口日出麿は、出口王仁三郎が「日出麿は日出の神、出口清吉さんの生まれ替わりだから、そう名付けたのである。」(月鏡)と語った人物であり、後に王仁三郎の婿養子となり、第二次弾圧の過酷な拷問を受ける以前には、自身の信仰における境地をノートに綴り、それが「信仰覚書」という書籍となっています。
その高尚で聡明な精神性は、『一部と全体』と題して語った次の言葉を読んだだけでも充分に感じ取ることができると思います。
「身体のどこが悪くても、全体にその痛みを感ずる。一家族に一人わるい者があっても、一家全体に安からぬ気がただよう。一団体、一国家、一世界……においてもみな然りである。ただその影響が、はなはだ直接であるか、然らざるかの相違にすぎない。
われわれの一念、一言、一行は、ことごとく相互に影響し合うているのである。このことを厳粛に考える時は、われわれは、わがための吾ではなくして、全体のため、一切のための吾であることを痛切に知るのである。
であるから、真の生活というものは、この世においても、あの世においても、一切のため、全体のためにその用を遂げることにあるのである。」
第四章■六■(九)参照
シュタイナーの人智学では、最高位の神を表現する父、母、子に続く、高次の天使存在(ヒエラルキア)を次の9階層に分類しています。
@ セラフィーム(愛の霊)
A ケルビーム(調和霊)
B トローネ (意志霊)
C キュリオテテス(叡智霊)
D デュナミス(運動霊)
E エクシスアイ(形態霊)
F アルヒャイ(時代霊 人格霊)
G アルヒアンゲロイ(民族霊・大天使)
H アンゲロイ(守護天使)
そして、こうした神々の守護の下に、私たちの世界が存在しています。
I人間界
J動物界
K植物界
L鉱物界
現在の『地球紀』の前段階を『月紀』、そのさらに前段階を『太陽紀』としていますが、太陽紀〜月紀への移行期に、B意志霊の供犠を受け取らずに断念したA調和霊は、その断念によって時間を超越した不死を得ます。
一方、受け取られずに残された供犠は他の存在に受け取られてゆくのですが、それこそが時間に服するものの中で進化から取り残され、神に反する存在が生じる準備だった、というのがシュタイナーの見解です(薔薇十次会の神智学)。
次に、その下位の階層では、特定のD運動霊に進化を妨害する使命が与えられたとして、次のように語っています。
「木星進化期(太陽紀の一期間)と火星進化期(月紀の一定期間)に、特別の使命が特定の運動霊に与えられました。進化の道を前進させるかわりに、その道を妨害する使命です。
その結果、私たちが「天上の戦い」と呼んだ宇宙戦争が生じました。こうして「戦場」へ「派遣」された運動霊は、進化を妨害するために働きます。目標へ向かって道がまっすぐに続いている限り生じえないような、もっと偉大な事柄を生じさせるためにそうするのです。
手押し車を押すときのことを考えてください。前へ押しだすたびに、私たちの筋肉の力が発達します。手押し車の中に重い荷物を載せれば、そのぶん押す力も余計に必要となり、私たちの筋肉も一層発達します。木星進化期を通過するまで、宇宙進化がそのままつづいていたならば、人間は立派に進化を遂げたかもしれませんが、進化の道が運動霊によって妨害されたので、人類はそれ以上に力強くなりえたのです。人類の繁栄のために、運動霊たちが派遣されたのです。
この運動霊は、広い意味で『妨害の神々』、進化の道を妨害する神々なのですが、この神々の働きのおかげで、その後の一切が生じたのです。この運動霊は、それ自身悪しき存在ではなく、反対に、進化の偉大な促進者なのですが、しかし彼らから悪が生じました。
(シュタイナー霊的宇宙論 第10講 進化の目標)
つづいて、月紀になると、その当時人間段階にあったH天使人間も、進化を妨害するD運動霊の影響から逃れて進化を続けた天使(守護天使)と、逆に月紀以後の新たな進化のために自らの身体素材のすべての中に進化を妨害する働きを取り込む天使存在(ルシファー)とに分かれます。
「しかし、運動霊の妨害行為は、神の摂理によるものであることを忘れてはなりません。月紀が地球紀へ移行したときに、このことがもう一度繰り返されました。月紀の経過の中にすっかり巻き込まれた存在たちは、それにまったく関わろうとしなかった存在より、ずっと立ち遅れていました。
(シュタイナー霊的宇宙論 第10講 進化の目標)
月紀(現在の天使は人間の次元にあった)
『妨害の神々』となったD運動霊の一部
↓≪天使人間に影響を及ぼす≫
○妨害を回避して進化した天使人間 → 地球紀のH守護天使
●妨害の働きを取り込んだ天使人間 → 地球紀の堕天使ルシファー
↓≪地球紀に個々の人間に影響を及ぼす≫
●地球紀の人間のアストラル体に(誤謬と悪)の可能性が生じさせた
○同時に、人間の中に自ら誤謬と悪を克服する可能性が与えられた
こうして、地球紀の人間は自我によって『個(私)』を感じる可能性を与えられたと同時に、ルシファーによる誤謬と悪の要素がアストラル体生じることになしました。
人間は、この誤謬と悪の要素によって個々人が自由を感じ得ることができるようになれたのですが、それは上位のヒエラルキアには無い人間特有のものであるとして、次のように語っています。
「D運動霊が悪を持ち込んだことによって、人間は自分の力でそれを克服して、目標に到達できるようになりましたが、ヒエラルキアの最高位にある@セラフィームでさえも、人間のように善悪いずれかを選ぶという自由はありません。自由が与えられることに、人間の行為の本質があるのです。
@セラフィーム(愛の霊)、Aケルビーム(調和霊)、Bトローネ(意志霊)は、神的な叡智を体現しています。
第二ヒエラルキアの存在たち(C叡智霊、D運動霊、E形態霊))も、ひたすら神的叡智に従っています。
ですから、運動霊の中の特定数が悪へ赴いたといっても、それは神的叡智に従ってそうしたのです。この「悪の起源」においても、もっぱら神的な意志だけが成就されるのです。運動霊は、悪という廻り道を通って善を発達させようとする神的な意志を成就したにすぎないのです。
E形態霊もまた、利己的な動機で悪しき存在になることはありえません。F人格霊にも、G大天使にも、同じことが言えます。G大天使が人間(段階)であった太陽紀には、運動霊はまだ悪へ赴いてはいませんでした。
自分から悪しき存在となる可能性をもった最初の存在は、天使でした。そしてこの可能性は、月紀になってから生じたのです。――中略――
シュタイナー制作の群像彫刻「人類の代表」像の一部分
(天上の戦いで悪に落ち込んだ)この天使たちは、その結果『ルツィフィル的存在』と呼ばれ、地球紀に、人間のアストラル体に働きかけ、人間に悪の可能性を生じさせました。
そしてそれは、人間が自分の力で自由に進化できるようにするためでした。ヒエラルキア全体の中で、天使の一部と人間だけに、自由の可能性が与えられたのです。いわば天使の系列の中から自由の可能性が始まるのですが、人間の場合にはじめて、自由が、生きることの本質と結びつきました。――後略――」
(シュタイナー霊的宇宙論
第10講 進化の目標)
シュタイナーは、人間を進化させようとする神霊、あるいは天使存在たちは、人間が自由の中で【ルシファー】の誘惑(利己主義、名誉心、高慢、虚栄)に無制限に陥らないために、その対抗手段として病気、苦悩、痛みを混入させたのだとしています。
シュタイナー制作の群像彫刻「人類の代表」像の一部
さらに、物質界において【アーリマン】という悪魔の誤謬(無神論・唯物論)に対し、神々は人間にカルマの原理を作用させたとしています。
●ルシファー (利己主義、名誉心、高慢、虚栄)
→ 病気・苦悩・痛み ⇔ 道徳で克服される
●アーリマン (無神論・唯物論・物質至上主義)
→ カルマ・業・因縁 ⇔ 精神科学・霊学で克服される
「悪の原因は悪魔の中にではなく、神の中にあるのです。神が断念を行うことによって初めて、悪を世界にもたらす霊が出現したのです。――中略――
神々は悪と善の可能性なしに自由を創造すべきであったというのは、三角形は三つの角を持つべきではなかったというのと同じです。三つの角が三角形に必要なように、霊的存在の断念によって生じた悪の可能性が、自由には必要なのです。
神々は悪を再び善に戻すことができるように、供犠の断念を通して不死を獲得しました。神々は悪を斥けませんでした。悪のみ自由を与えることができるのです。神々が悪を斥(しりぞ)けていたなら、世界は単純な、変化に乏しいものになっていたでしょう。
自由を賦与(ふよ)するためには、神々は悪を世に出現させねばなりませんでした。そして、悪を再び善に戻す力を獲得しなければなりませんでした。この力は断念によってのみ得られるのです。――後略――」
(薔薇十字会に神智学 V)
このシュタイナーの霊的観点とは若干違う角度からですが、シルバーバーチの霊訓では、「―――悪魔はキリスト教が生み出したのでしょう?」という問いについて、次のように答えています。
「そうです。自分たちからみて悪と思えるものを何とか片づけるためにはそういうものを発明しなければならなかったのです。悪も進化の過程の一翼を担っております。改善と成長―――絶え間なく向上せんとする過程の一つなのです。人間にとって悪に思え苦痛に思えるものも進化の計画に組み込まれた要素なのです。痛みがなければ健康に注意させる警告がないことになります。暗闇がなければ光もありません。悪がなければ善もありません。地上にもし悪が存在しなければ、何を基準に善を判断するのでしょうか。改めるべき間違い、闘うべき不正が存在しなければ、人間の霊はどうやって成長するのでしょう。」
(シルバーバーチの霊訓 (五)潮文社)
それでは、悪によって生じた自由、そして自由によって生じた苦悩やカルマは、人間あるいは人類に何をもたらすのでしょうか。シュタイナーは次のようにも語っています。
「世界の偉大な叡智は、苦悩と苦痛を静かに耐えることによって得られるのです。苦しみと痛みを静かに絶えることが、来世において叡智を創造します。」
「大勢の人々が苦痛と苦悩を嘆いています。高次な観点から見れば、苦痛や苦悩を克服することで、来世においてこの苦痛と苦悩が、叡智と思慮と洞見の源泉となるのですから、嘆くのは正しくないのです。」
(薔薇十字会の神智学 Y運命)
※第三章■一■(十一)参照
さらに、『自由と愛』についてシュタイナーは次のようにも述べています。
「自由がなければ、愛の行為が崇高な在り方を示すことはできません。無条件的に衝動に従わねばならない存在は、まさにそれに従って生きています。勝手なことを行うことのできる存在にとって、従わねばならぬ衝動はただ愛だけなのです。自由と愛は、互いに結び合うことのできる両極です。私たちの宇宙の中で愛が成就すべきであるなら、それは自由を通してのみ、すなわちルシファーを通してのみ可能なのです。そして同時にまた、人間の救済者であり、ルシファーの克服者でもあるキリストを通してのみ、可能なのです。」
(シュタイナー霊的宇宙論 第10講 進化の目標)
確かに衝動によって行動する動物にも愛は存在しますが、より多くの自由を許された人間には、その自由の中でより深く複雑な苦悩が生じ、その苦悩の中で他者への同情や慈悲に起因する、より崇高な博愛精神や美意識が育まれ、叡智として獲得され、徐々に御魂が磨かれてゆくことになります。また、それによって病やカルマに干渉しない真の自由を獲得してゆくはずなのです。
悪の出現 → 真偽、善悪、美醜 の可能性 → 低次の自由 → 過ち(偽悪醜)
シュタイナーは次のようにも語っています。
「キリストは自分自身の衝動が無条件的に受け入れられるように、人間に働きかける神ではなく、人間が理解し、自由な状態でそれを受け入れるときにのみ、その衝動を作用させる神なのです。ですから、人間の自我を自由に個別的に発達させようとします。それを特定の方向に追いやろうとはしません。キリストは言います。『真理を認識しなさい。そうすれば、真理はあなたを自由な存在にしてくれる』
(シュタイナー霊的宇宙論・第十講)
※ 第四章■五■(三)参照
では、永遠である神に対して、時間の中にのみ存在を許されている悪は、どこに向かうのでしょうか。シュタイナーは、キリストと悪魔とカルマに関する講義の中で、次のように語っています。
「今、キリストが地上に出現しました。もちろん、キリストの働きは始まったばかりですので、可能性だけを問題にしているのですが、誰かの自我が自発的にキリストの力を自分の中に作用させ、キリストを本当に自我に作用させることができたとすれば、キリストの力はアストラル体の中にまで影響を及ぼすでしょう。
キリストの力が光となって、内部からそのアストラル体の中に差し込むでしょう。以前はルシファーがその働きを人間のアストラル体中に流し込みました、未来においては、キリストの助けを受けて、ルシファーに由来するすべての特質が消えるでしょう。そうできたとき、人間は、ルシファーをも自分と共に救済するのです。」
(シュタイナー霊的宇宙論・第10講) ※第四章■五■(十)参照
さらに、別の講義の中では自らの提唱する人智学が東洋の秘教を否定する立場にないことを明らかにすると共に、次のようにも語っています。
「――前略――こうして私たちは、『世界の中のさまざまな力は、共同し合いながら作用する』ということや、『一見人類の進化に対抗しているように見えるものはすべて、あとになって一つの恵みであることが判明する』ということを理解しました。
そしてまた私たちは、『キリスト以降の時代において、時代から時代へと移り変わる中で、人間を自由にした霊が新しい姿で再び現れる。つまり、導きの光の担い手であるルシファーが、みずからの救済を見出すことになる』ということも把握いたしました。
なぜなら宇宙の計画の中に存在するものは、すべて善きものだからです。悪はある特定の期間に限って存続するにすぎません。ですから、一時的なものを永遠なるものと取り違える人だけが、悪の永遠性を信じることになるのです。一時的なものから永遠なるものへと上昇しない人は、悪を決して理解することはできないのです。」 (悪の秘儀 第二章)
アーリマンとルシファーの間の人類の典型
中央にキリスト、上方にルシファー、下方にアーリマン、後方にゴルゴタの丘が描かれている
このように、神、悪魔、自由、苦悩とカルマ、真・善・美の関連性を認識する時、私たちは今の世の中の混乱や私たち個々人の苦悩が、壮大な時空の歴史の中の極めて意義深い神慮に基づく道程であることに気付かされます。そして、このような認識に立つことができたとき、私たちは『悪の出現によって与えられた自由の可能性』の中から、『神の愛と叡智による真の自由』を獲得する一歩を踏み出せたと言えるのかもしれません。
私たちは遙か遠い未来に天使の位階に達し、悪を克服し、悪を救い、真の自由を獲得できたときには、もはやそれは悪ではなく下位のヒエラルキアを生成化育せるための負荷的な道具として善用できるようになるのかもしれません。
出口王仁三郎は悪と地獄の起源について次のように口述しています。
「現代人はおもえらく 根底の国には最初より
一個の魔王厳在し 諸多の地獄を統轄し
堕ち来る精霊の罪悪を 制配なすと恐れられ
魔王はかつて光明の 天人なりしも叛逆(はんぎゃく)の
罪に問われて衆族と 共に地獄に堕とされし
ものとの信仰昔より 深く心に刻まれて
真相覚れるものもなし 魔王もサタンもルシファーも
約言すれば地獄なり ことに魔王と称うるは
背後に位置せる地獄にて ここに住めるを凶鬼といい
凶悪もっともはなはだし また前面に位(くらい)せる
地獄をサタンと称うなり サタンは魔王にくらぶれば
さまで兇悪ならざれば これをば兇霊と称うなり
またルシファーという意味は バベルに属する曲がにし
彼らの領土は久方の 天界までも拡がれり
ゆえに一個の魔王ありて 地獄を統治しまさざるは
地獄天界両界に 住める精霊にわかちなく
みなこれ人の精霊より するものなるや明らけし
天地創造のはじめより 現代社会に至るまで
幾億万の人霊が 現実界にある時に
皇(すめ)大神(おおかみ)の神格に 反抗したる度に比して
各自に一己の悪魔なる 業を積み積み邪鬼となり
地獄をつくり出せしよし 悟りてつねに霊魂を
浄めて神のます国へ 昇り行くべく努むべし
あゝ惟(かんな)神(がら)惟(かんな)神(がら)
御霊幸はえましませよ。」
(霊界物語 第五十六巻 第一章)
これを読む限り天地創造の時から人の精霊が神に反した分だけ地獄が創られた、ということになます。
ただし、霊界物語第一巻・第十八章では、太古に国祖国常立尊が隠退し盤古大神の統治になったことによって、次のように悪霊が発生したとしています。
・露国のあたりに邪気が凝りかたまって次八尾八頭の大蛇が発生
・印度においては極陰性の邪気が凝りかたまって金毛九尾白面の悪狐が発生
・猶太の土地には全世界を妖魅界にしようと目論む鬼の霊が発生
※ 出口王仁三郎と大本(三)参照
つまり、邪気の起源は遥か太古の神代から神々の間でも生じており、人間の精霊がその邪気に感応し、魅入られた分だけ地獄が形成され、拡大してきたという解釈ができると思います。
「神より人に流れ来る すべてのものは愛の善
信と真との光のみ 根底の国より来るものは
悪逆無道のばかりなり まことの神は人間を
悪より離れて善道に 立帰らせんとなしたまう
これに反して地獄界は 人をば悪に誘わんと
一心不乱に焦慮せり さはさりながら人間は
天界地獄両界の 間に介在なさざれば
人は何らの想念も 意義も自由も選択も
あらず身魂も亡ぶべし 人に善悪二方面
あるいは正邪を平衡(ならし)する 神の賜なればなり
神もし人の精霊に 面をそむけたまいなば
悪事をこころのままになし 人たる所以は滅ぶべし
――後略――」
(霊界物語・第五十六巻・第一章)
通常、私たちは神と悪魔、天国と地獄は、相反する敵対関係のようなイメージを先行させてしまいますが、ここでは『人間は天界と地獄の両界の間に介在しなければ、何らの想念も意義も自由も選択もあらず、身魂も亡んでしまう・・・』とあり、人間にとってはその善悪・正邪の平衡が保たれていることこそが神の賜なのだと説かれています。
つまり、人間が「自由」を感じられるのは、神霊の守護の下に神と悪魔、極善と極悪、至美と汚醜、真信と虚偽、といった両極端の均衡の中に介在することができるから、ということになるわけです。
しかし、神々が容認した悪の存在は、人間に自由を与えたものの、時にその自由こそが人を迷わせ、あるいは人間を誤謬に落とし込み、身霊を曇らせ、神の存在すら忘却し、世界を混乱させ、結果として苦痛と苦悩を生じさせてきたわけです。
それについて霊界物語第三十九巻『付録(ふろく)大祓祝詞解(おおはらえのりとかい)』の中では、次のように口述されています。
「――前略――しかるに実際は大いにこれに反し、いたづらに物質文明の糟粕(そうはく)を嘗(な)め、罪の上に罪を重ねて現在見るがごとき世界の大擾乱(だいぜうらん)となってきた。無論、日本人はこの責任を免るる事はない。しかるにこれは天地創造の際からの約束で、進化の道程として、蓋(けだ)し免れ難き事柄には相違ない。さればこの祝詞(のりと)の中に『許々太々(ここだく)の罪(つみ)出(いで)む』とあり、また国祖の神諭にも『こうなるのは世の元から分かつてゐる』と仰せられてゐる。要するに過去の事は今さら悔やむに及ばぬ。――後略――。」
つまり、現在のように物質文明によって世界が乱れるのは進化の道程として免れないことであり、神は天地創造の時点から予め承知していたということなのです。
では、神はこのような状況になることを承知の上で、どうして悪魔の存在を赦し、人間に自由を与える必要があったのか、という疑問がわいてきます。
「人は一つの善事をなさむとすれば、かならずそれに倍する悪事を不知不識為しつつあるなり。ゆえに、人生には絶対的の善もなければ絶対的の悪も無し。善中悪あり、悪中善あり、水中火あり、火中水あり、陰中陽あり、陽中陰あり、陰陽善悪相混じ、美醜明暗相交はりて、宇宙の一切は完成するものなり。」
つまり、大は宇宙の一切の法則であり、その完成のためであり、小は個々人の身霊に真・善・美を獲得し、それを地上や霊界に表現するためであると解釈することができます。
このことは霊界物語の登場人物の言葉の中によく表現されています。
「世の中は一切万事惟(かむな)神(がら)の御経綸に左右させられてゐるものだ。俺が地恩城で大野心を起こし、宇豆姫(うづひめ)を得むとして終生拭(ぬぐ)ふべからざる大恥を掻いたのも、今になって省(かえり)みれば、実に仁慈無限の大神様の御恵(みめぐみ)であった。
己に出づるものは己に帰る。悪い事をすればキット悪い酬いが来るのは当然だ。しかるに何ぞや。あれだけ体主霊従的陰謀を組み立て、その結果かやうな結構な宣伝使となり、この冠(かんむり)島(じま)に自由自在に開放的に宣伝せよとの許しを受けたのは、悪が自然に善の結果を齎(もたら)したやうなものだ。
これといふのも全く神様が神直日大直日に見直し聞直し、活かして働かして下さる在難き思召(おぼしめ)し、逆境に立ちて初めて神の慈悲を知り、宇宙の真善美を味はふことを得た。
左守司(さもりのかみ)となって日夜心を痛め、下らぬ野心の鬼に駆使されてゐるよりも、かう身軽になって、何の束縛もなく、自由自在に活動し得る機会を与へられたといふことは、実にわれわれとして無上の幸福だ、アゝ辱(かたじけ)なし、勿体なし、惟神霊幸倍坐世」
(霊界物語・第二十五巻・第五章)
「――前略―― 人の一生は重荷を負うて険しい山坂を登るやうなものです。いつ剣呑な目に遭ふやら、倒れるやら分かりませぬ。そこを神様の御神力で助けられ、波風荒き世の中を安々と渡るのですよ。さうして自分の身を守りながら、神様の貴(うづ)の御子(みこ)たる天下の万民に誠の道を教え諭して、天国に救ひ、霊肉ともに安心立命を与へるのが神より選まれたる貴女(あなた)がたの任務だから、いかなる艱難辛苦に遭ふとも、決して落胆したり怨んだりしてはなりませぬ。何事もこの世は人間の自由には木の葉一枚だつてなるものではない。
みんな神の御心のまにまに操縦されてゐるのだから、いかなる事が出て来ようとも惟神に任し、人間は人間としての最善の努力を捧ぐればよいのです。この竜雲さまだつて、始めはずゐぶん虫のよい考へを起こし、得意の時代もあつたが、たちまち夢は覚めて千仭の谷間へ身を落としやうに、見すぼらしい乞食とまでなり果て、ここに翻然として天地の誠を覚り、諸国行脚をなし、今は完全な神司となり、御神力を身に備ふるやうにおなりなさつたのですから、人はどうしても苦労をいたさねば誠の神柱になることは出来ませぬ。
この北光の神(きたてるのかみ)が都矣刈(とむがり)の太刀(たち)を鍛ふるいも、鉄や鋼を烈火の中へ投げ入れ、金床の上に置いて、金槌をもつて幾度となく練鍛へ叩き伸し、遂には光芒陸離(くわうばうりくり)たる名刀と鍛へるやうなもので、人間も神様の鍛錬を経なくては駄目です。一つでも多く叩かれた剣は切れ味もよく、匂ひも美はしきやうなもので、人間も十分に叩かれ苦しめられ、水火の中を潜って来ねば駄目です。――後略――」
「――前略―― 中間の万物一として苦闘によらずして、尊貴の位置に進むものはない。しかるに、天地経綸の大司宰たる天職を天地に負へるにんげんにして、けつして例外たることを得ない。アゝ人生における、全ての美はしきもの、尊きものは、千辛万苦、至善のために苦闘して得なくてはならぬと思ふ。
神諭に曰く、
『苦労の塊の花の咲く大本であるぞよ、苦労なしには真正(まこと)の花は咲かぬから、苦労いたすほど、尊いことはないぞよ云々』
吾人はこの神諭を拝するごとに、国祖が永年の御艱難に省み、慙愧の情に堪えないのである。――後略――」
また、王仁三郎は『水鏡』の中で苦集滅道について述べた中で『苦』について、次のように述べています。
「『苦』は苦しみである。人生に苦というものがあればこそ楽の味わいが判るのである。
人間が飢えんとする時、凍えんとする時、あるいは重い病にかかる時、かわいい妻子に別れる時、汗を絞って働く時、峻坂(しゅんぱん)を登る時などは、かならずこの苦というものを味わうものである。この苦があってこそ、楽しいとか、嬉しいとか、おもしろいとかいう結果を生み出してくるのである.
人生に苦というものがないとすれば、無生機物も同様で、天地経綸の神業に奉仕することは絶対に不可能である。
人生は苦しいなかに楽しみがあり、楽しいなかに苦しみがあって永遠に進歩発達するもので、寒暑と戦い、困難と戦い、悪と戦い、そうしてこれらの苦しみに打ち勝ったときの愉快は、じつに人生の花となり、実となるものである。
高い山に登るのは苦しいが、その頂上に上りつめて四方(よも)を見晴らすときの愉快な気分は、山登りの苦しみを贖うて、なお余りある楽しみである。」
このように、神霊存在が神自身に反抗する悪の存在を生み出したことによって、人間は神に反する偽、悪、醜に進む危険性が生じたわけですが、同時にその危険性こそが人間に自由をもたらし、個性や多様性の源泉ともなっているのです。
また、神々がその真偽、善悪、美醜のといった天界と地獄との均衡を保つことによってこそ、人が人として存在することを可能にしている、というのが双方に共通する見解ということになると思います。