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                The agreement of Rudolf Steiner and Onisaburo Deguchi
                   ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符合
                                                                   咲杜憩緩

 ■六■ 地球の頂点としての日本と世界の雛型としての日本



(一)シュタイナーが語る地球上の日本の位置

 シュタイナーは、1924年9月9日から18日までの連続講義の中で、『地球の形と人体』と題して、地球を四面体のピラミッドとして認識した時、その頂点は日本になると語っています。以下に、その講義の一部を抜粋しておきます。

 

 「地球は球体であり、球体として形成された、と言われています。しかし、地球が球体であると言うのは正しくありません。地球が実際には本来どのようなものか、説明してみようと思います。地球が球体だというのは、空想にすぎません。地球の形態を正しく描きましょう。四面体と呼ばれている形態です。四面体は、このように見えます。

 三角形が四つあります。底辺に三角形があり、さらに三つ、三角形があって、ピラミッド形になっています。正三角形が四つ堺を接しているのが正四面体です。底辺の三角形の上に四面体が立っており、三つの三角形はピラミッド型をしています。これが四面体です。

遺された黒板絵 より
          筑摩書房

 さて、これらの正三角形の平面をいくらか湾曲させると、考えてみてください。そうすると、やや異なってきます。やや丸くなりますが、まだ固定されていません。直線だった正三角形の辺は丸くなります。こうして、丸くなった四面体ができます。

 
 このように丸くなった四面体が、私たちの地球なのです。これは、ある程度まで確認できることです。地球四面体の縁を見出すこともできます。地球を平面図で描いてみましょう。


 北米・南米があり、その中間に中米があります。そしてアフリカがあり、ヨーロッパがあります。小アジア、ギリシア、イタリア、スペイン、フランス、つまりヨーロッパです。上にはスカンジナビア、イギリスがあります。それから、アジアです。

 下に南極があります。南極のまわりには、たくさんの火山があります。上に北極があります。私たちは線を引くことができます。メキシコ南西部のコリマ山のあるアメリカ中央部から発して、アンデス山脈を通って、南極にいたる線です。地球の縁は丸くなっています。

 つぎに、南極からアフリカを通って、コーカサスの火山にいたる線があります。それからスイスを通り、ライン川を越えていく線です。
 これらの線は三角形に見えます。三角形が、四面体の底面に相当します。

 四面体の底面のことを考えてみてください。私たちは、どのようにして頂点にいたるでしょうか。地球の反対側に行かねばなりません。
 そうすると、頂点は日本です。四面体の底面の三角形の角に中央アメリカ、南極、コーカサスがあります。そして、頂点に日本があります。

 このように地球を思い描くと、宇宙のなかの、湾曲したピラミッドのようです。頂点は日本です。底面には、アフリカ、南米、大西洋の南部全体があります。このような湾曲した四面体、一種のピラミッドとして、地球は宇宙の中に存在しています。

 これが、地球の元々の形です四面体を形成するこれらの線をたどって追っていくと、これらの線に沿って火山があるのが分かります。
 チリなどにある南米の火山、南極の周囲にある火山について、みんさんは良く聞くことがあるでしょう。コーカサスには巨大な火山があります。

 『ヨーロッパには火山は多くない。しかし、かつて火山があり、それが死火山になったことを、いたるところで証明できる』と、いうことができます。シュレジエンの北からブレスラウへ向かうと、奇妙な弧峰があります。

 今日の人々は、この山を恐れています。この山の岩石を調べると、死火山があります。さきほどは底面のみを描きました。いたるところに、日本に向かう線があります。これらの線に沿って、地表に火山があります。

 重要な火山を描いていくと、地球の形態ができあがる、ということができます。火山が線をなしており、それらの線が地球が四面体であることを示しています。」 
                      (自然と人間の生活)

 こうした内容は、現代人には想像のつかない角度からの地球の考察です。しかし、シュタイナーは、この講義の中で、次のように説明を加えています。

 「地球認識は人間認識と関連しています。人間は自分の形態のなかに、宇宙を模造します。人間は頭に宇宙を模造します。ですから頭の上部は、丸い宇宙に従って、丸くなっています。

 しかし下方、顎(あご)のあるところは、注目すべき形態になっています。そこの形態は三角形の地球に由来します。

 人間は丸い宇宙を写し取っています。ですから、人間の頭の上部は、多かれ少なかれ丸くなっています。そして下方には、地球の力が及んでいます。人間と動物において、顎の形成に当たっては、三角形が模写されているのが見出されます。顎の形態は地球に由来するからです。


 地球から上方への作用が、顎に三角形を刻印するのです。宇宙は上方から下方に作用して、丸い形を作ります。これは非常に興味深いことです。」                      (自然と人間の生活)

  そして、これと同じような内容を、「日垣の庭」の宮主氏という日本の神道家も語っています。

人と神と悟り 日垣の庭の「神道」入門
                 より

 「人間に人相学があり、顔や身体つきから本人の性格や運命を観察いたします。これを観相学ともいいます。

 その相学でみると、人間の顔の中に天と地がございます。天には天磁気が働き、地には地磁気が働いております。天を天庭とよび、地を地閣と呼びます。

 ここから天と地の磁気をもらって、合掌の中に入れましょう。合掌し、その中指の先が天庭に行き、親指の先が地閣に当たるようにして、心を静めて天地の神さまにお祈りします。――後略――。」 
 (人と神と悟り・第2章 悟りを求める旅・万物を生かす息玉の秘法)
 

 こうした符合点からも、宇宙と地球と人体との関連性という発想は決してシュタイナーのだけのものではないことが解ります。

 

 大本神諭には、「此の先を、団子に致そうと棒に致そうと、三角になり四角になりと、此の世を自由に致す様に、天地(てんち)の模様が変わるから、此の事が天地の吃驚箱(びっくりばこ)であるぞよ。間違いが出来ると、後で取り返しが成らんから、皆間違いのないように致されよ。」 (大正五年旧十月二日)とあります。

 

 この神諭などは、もしかすると、実際に地球が変形するのではなく「霊視者には、その霊的観点の違いによって、天地の様子が丸や棒や三角や四角として認識される」ということなのかもしれません。

 さらに、大本神諭には、「日本の国は世界の中心(まんなか)、世界の土台であるから、その土台の上に水も漏らさん仕組がしてあるから、途中に変わるような物では無いぞよ。」 (大正六年旧正月二十三日)とも記されています。

 

 頂点と土台という違いがあることは認めなくてはなりませんが、世界の中心が日本であることは、国常立尊もシュタイナーも共通しているのです。


(二)王仁三郎が説く世界の雛型としての日本

 出口王仁三郎は『月鏡』において「日本は世界の胎胞」と題して次のように語っています。 

日本列島における世界の相関図

(出口王仁三郎の霊界からの警告 光文社より)

 「日本は世界の胎胞に当たっておって、世界の地形は日本のそれと相似形をして居るという事は度々話したことである。 即ち日本は五大島からなり、世界は五大洲からなっており、その地形もそっくりそのままである。

 九州は阿弗利加(アフリカ)に、四国は豪州(オーストラリア)に、北海道は北米に台湾は南米に、本州は欧亜の大陸(ユーラシア大陸)にそれぞれ相当している。


 紀伊の国はアラビアに、琵琶湖は裏海(カスピ海)に、大阪湾は黒海に、伊勢の海はアラビア海に、駿河湾はベンガル湾に、津軽海峡はベーリング海峡に、土佐湾はオーストラリア大湾に、能登半島はスカンジナビア半島に、瀬戸内海は地中海に、関門海峡はジブラルタルの海峡に相当する。

 これらはほんの一部分を示したに過ぎないが地名を言霊学で調べてみると、小さな町や村に至るまで皆同じである。

 日本国内では鹿児島県の大島(奄美大島)がまた日本の縮図であって、総てが相似形をなしている。またそれそれらの土地に起る種々の出来事も、相応の形をとって起るのである。

 単に土地のみではない、人の体もまた相応しているので、五臓六腑は五大洲に同じような形をしているのである。 ――後略――」
                    (昭和五年六月・月鏡)

国魂学上より見たる日本と世界との比較対応地図



 また、霊界物語には神代の地形についても口述されているので、参考までに取り上げて置こうと思います。

 

 「現在の地理学上のアフリカの大陸は、太古の神代(かみよ)においては、筑紫の洲(しま)と言つた。さうしてこの洲は身一つにして面四つあり。火の国、豊の国、筑紫の国、熊襲の国と大山脈をもつて区劃されてゐる。さうして島の過半は大砂漠をもつて形作られてゐる。

 現代の日本国の西海道 九州もまた総称して筑紫の島といふ。国祖 国常立之尊が大地を修理固成し玉ひし時、アフリカ国の胞衣として造り玉ひし浮島である。また琉球を竜宮をというふのも、オーストラリアの竜宮洲の胞衣として造られた。

 されど大神は少しく思ふこところありまして、これを葦船に流し捨て玉ひ、新たに一身四面の現在 日本国なる四国の島を胞衣として作らせ玉ふた。ゆゑに四国は神界にては竜宮の一つ島とも称へられてゐるのである。丹後の沖に浮かべる冠島(をしま)もまた竜宮の一つ島と、神界にては称へられるのである。

 昔の聖地エルサレムの附近、現代の地中海が、大洪水以前にはモウ少しく東方に展開してゐた。さうしてシオン山という霊山をもつて地中海を両分し、東を竜宮海といつたのである。

 今回の地理学上の地名よりみれば、よほど位置が変はつてゐる。神代におけるエルサレムは小亜細亜の土耳古(トルコ)の東方にあり、アーメニヤと南北相対してゐた。

 またヨルダン河はメソポタミヤの西南を流れ、今日の地理学上からはユウフラテス河といふのがそれであつた。新約聖書に表はれたるヨルダン河とは別物である。さうしてヨルダン河の注ぐ死海もまた別物たることはいふまでもない。


 今日の地理学上の波斯(ペルシア)湾が古代の死海であつた。しかしながら世界の大洪水、大地震によつて、海が山となり、山が海となり、あるひは湖水の一部が決潰して入江となつた所も沢山あるから、神代の物語は今日の地図より見れば、多少変わつた点があるのは已むを得ぬのである。」          (霊界物語 第三十五巻 第一章)

 

 もちろん、これはシュタイナーの講義内容とは全く違う視点で語られていますが、ここで大切なのは、地球の中で日本という国が特別な土地であるということです。

 シュタイナーのアカシャ年代記から考察すれば、現代は地球紀におけるレムリア時代(第三小循環期)、アトランティス時代(第四小循環期)につづく、後アトランティス時代(第五小循環期)ということになります。

 この時代は、まだ六千年以上続くとされているのですが、その間も日本に重要な役割があることは変わらないと思われます。

大本神諭にも次のように記されています。

「神が在りての人民、人民ありての神で在るから、此の在り難い因縁が判りてきたら、日本の国は良く成るし、日本が良く成れば、世界も良く成るのであるぞよ。見て御座(ござ)れよ、金神(こんじん)の世に成りて結構と申もうすように致すぞよ。」    (明治三十二年旧四月)

 

 そして、出口王仁三郎が大本で活動していた当時、「この世界の雛型である日本」は、さらに大本に移写されることで「日本の雛型としての大本」という法則性が歴史の中で明確に刻まれていったのです。同時に、その歴史が大本神諭の予言を証明し、大本という組織が神の経綸に動かされていることをも、明確に証明してゆくことになったわけです。


(三)日本に現われる「型」

 ここでは、【大本における雛型経綸の略年表】を基に、その内容を解説してゆきたいと思います。(少々解り辛いですがご了承ください・・・。)

 

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          大本における雛型経綸の略年表           

 

1871年 旧7月12日【王仁三郎出生】
          →この日から 火水の戦いまで30年間の須佐之男命の修行を開始

       (1894〜1895年 日清戦争)

  1898年 新3月1日【高熊山修行】
           →この日から みろく大祭まで30年間の弥勒菩薩の修行を開始

  1899年 国常立尊(閻魔大王)が立替の神業を開始。

       (1899年  カリ・ユガ(暗黒時代)が終了)
       (1899年 死後の世界で最後の審判の開始)

■日本の状況が大本内に移写され、立替えの経綸が開始された期間■
                    (須佐之男命の活動期)
  1901年 新7月20日【火水の戦い】→ 須佐之男命として活動を開始
                                                          (出生から30年目)

  1902年 大本内で、王仁三郎の暗殺が画策される

       (1904年〜1905年 日露戦争)

   1905五年 王仁三郎の著作が焚書される

       (1914年〜1918年 第一次世界大戦)

   1916年 出口直開祖の顕真実

1917年★ この年を真中として前後10年の間が、世の立替えの
       正念場となる(10年後にみろく大祭)

 1918年 出口直開祖の昇天

   1921年〜1927年 第一次大本事件
            (王仁三郎の反対勢力が一斉される)

 1924年2月〜7月 蒙古入り(6月21日にパインタラで遭難)

■大本内の状況が日本に移写され、立直しの経綸が開始された期間■
                      (弥勒菩薩の活動期)
 1928年 新3月3日【みろく大祭】→ 弥勒菩薩として活動を開始
                    (高熊山修行から30年目)

●1934年 7月22日、大本は昭和神聖会を軍人会館で発会
    
6年後
 1940年 7月22日、軍人会館で大政翼賛会の発会式を開催

●1935年12月 8日、未明に第二次大本事件が勃発
     6年後
 1941年12月 8日、未明に太平洋戦争が勃発

●1936年 4月18日、綾部・亀岡の聖地の関連施設が破壊される
     6年後
 1942年 4月18日、東京・名古屋などを米軍機が初の空襲

●1945年 9月 8日、大審院判決で第二次大本事件が終結
     6年後
 1951年 9月 8日サンフランシスコ講和条約・太平洋戦争終結


       (1935年 〜 1945年この期間の大本と日本の情勢が
        新約聖書のイエス・キリストの預言に一致している)

   <その他・大本と日本の歴史の一致>

●王仁三郎の投獄期間が、2435日間(6年8か月)

   米軍が厚木飛行場に降り立ってから、日米講和条約まで2435日間

●第二次大本事件による多額の損害賠償の請求権を王仁三郎が自ら放棄

   敗戦後、連合軍が日本に対する賠償権を放棄

●寸断されていた綾部・亀岡の両聖地が、大本に無条件で返還される

   占領軍に日本の領土が分割占領の危機を乗り越え、無併合に終わる

 1948年 新1月19日【王仁三郎昇天】

 

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 では、先のような世界の雛型としての日本の使命を、今日の私たちはどう受け止めるべきなのでしょうか。それには、「大本神諭において預言されていた世界的な戦争は、なぜ、雛型である大本内や日本国内で未然に回避することが出来できなかったのか。」と問う必要があります。 

 この問いに対して、大本の雛型の経綸では、国常立尊は最初に世界の状況を大本に写したと推測されます。

 当時、大日本帝國では、体主霊従的な思想に傾いた国粋主義者が神と天皇の名を兵士の統率に利用するという、軍国主義の「悪の型」がありました。
 

 そのため、日本では、日清戦争(1894―1895)、日露戦争(1904−1905)が勃発します。さらに、諸外国ではフリーメーソンのような秘密結社が、神意の抜けた空論によって戦争を画策し、第一次世界大戦(1914−1918)などのように武力に訴える世の中になっていたのです。

 そして、この日本と世界の「悪の型」が大本に移写されたと考えられます。

 一方、カリ・ユガ時代の終わり(1899年)に際して、王仁三郎は「高熊山の修行」で対面した幽冥界の大王と共に世の立替え立直しのために立ち上がります。また、大本開祖出口直は、少しでも筆先の神意が人々に伝わるように神に祈りますが、多くの信者はこれを取り違えたり、大本を利用するために近づいてきます。

 このため、「火水の戦い」(1901)を経てスサノオ神業に入った王仁三郎は、これを改心させて善導しようと努めますが、31歳の時には暗殺されそうになり(1902)、34歳の時には著作を焚書されるなど(1905)、無理解な信者に排斥され辛酸をなめることになります。

 

 その後、神島神業と顕真実(1916)、出口直の昇天(1918)を経て、徐々に王仁三郎の地位が確立されてゆきますが、それでも地位と権力を狙う役員も多かったのです。
 
そして、この大本内の「悪の雛型」が第一次大本事件(1921−1927)を生じさせ、大本内で王仁三郎を罰した「悪の雛型」である役員は、自ら大本を離れることになり一斉されることになります。

 大本神諭には「明治五十年(大正6年・1917年を示す)を真中として前後(あとさき)十年の間が、世の立替えの正念場であるぞよ。」 (明治三十七年旧七月十二日)と預言されていましたが、その通りにこの20年間(1907−1927)で大本は立替えられたのです。

 このため、1927年頃までの悪の雛型立替え時代の大本では、大本神諭にある通り、無理に布教をして信者を集める必要はなく、大本に引き寄せられた信者自身の改心と至誠が極めて重要だったはずなのです。

 

 こうして、須佐之男命として悪の型の中で立替えの役目を果たした王仁三郎は、神諭で正念場とされた最終年である1927年の翌年、1928年に「みろく大祭」に至り、これを期に大本は「悪の雛型」から「善の雛型」になったと考えられます。そのため、この頃から王仁三郎は、日本全国と世界各国に向けて本格的に布教を開始し、世の中の立直しを目指したのです。

 

 ところが、この「善の雛型」の大本に対して、軍国主義に拘泥していた日本国家は第二次大本事件(1935−1945)を断行し、大本を徹底的に弾圧してしまうのです。当然、この二度目の弾圧は悪を改心させた第一次大本事件とは正反対の意味となります。

 その結果、「善の雛型」の大本を弾圧した日本国家の「型」が世界に移写され、第二次世界大戦(11939−1945)が勃発するのです。以来、大本内に越ったことが、六年後に日本に移写されるようになるのです。

 そして、全国の大本施設が徹底的に破壊され、信者に無実の罪を着せられた「雛型」は、日本全国の主要都市の大空襲と移写し、綾部と亀岡の大弾圧も広島と長崎への原爆投下として移写され日本は敗戦したと考えられます。

 同時に、王仁三郎を中心とする大本の土地が全て占領されたように、日本はGHQに占領されたのです。これが、キリスト再臨の預言が成就した証であり、神道においては天照大御神の岩戸開き以来、二度目の岩戸開きとなったと考えらるのです。

 ※ 注:第二章■六■(四) 参照

   

 その後、日本の敗戦によって無実の罪を解かれた大本は、国家に取上げられた大本の土地も返還され、王仁三郎や役員信者の篤い信仰によって再建を果たすことになります。この雛型は日本に移写され、日本はGHQの呪縛から開放され、再び立直されていったのです。


(四)宗教団体のカルマと和解の神徳

 私たちは、先のような「世界に移写される日本の型」について様々な角度から考察する必要があるはずです。

 

 例えば、もし日本の型が世界に移写するのであれば、吾々日本人が国内外の宗教や他宗派を非難中傷する態度を示すとすれば、同様に他国でも宗教問題に関わるテロや戦争が頻発するという型を生み出すはずなのです。そのため、日本には世界を満足させるような包括的な思想と信仰が必要になってくるはずなのです。

 

 その点においても、王仁三郎は神道や仏教、キリスト教などを包括した大宗教論を示す必要があり、これによって他の宗教の人々と和合する「型」を示す使命があったはずなのです。

 また、戦後に大本が他宗教のように分裂して出雲八重垣をつくることなく、世界を愛善によって結びつけることができるよう、王仁三郎が団体名を「愛善苑」に変えたのもこのためであったはずなのです。

 

 実際、大本神諭にも次のように綴られています。

 「神は分け隔ては致さぬぞよ。皆一様に守護(まも)るのじゃぞよ。神は分け隔ては致さぬが、人民が隔て致すのであるぞよ。皆和合致して神の世話致して呉くれたなれば、天地の御神様は御歓(おんよろこ)びであるぞよ。」         (明治三十一年旧三月二十四日)

 「此の方からは、改心致す身魂さえありたら、日本も外国もチットも分隔ては致たさん神で在るぞよ。」    (大正五年旧六月十日)

 そうであれば、神への祈りについても、戦争や経済競争で日本だけが勝利することだけを祈ったり、自分の所属する宗教団体のみの繁栄を祈ったりするならば、それは大きな過ちのはずです。

 そもそも、宇宙や太陽系や地球を修理固成された大神霊への祈りであれば、地球全体と世界の平和を祈るべきであり、それが雛形の降りている日本人のあるべき態度であるはずです。

 そのように祈れるのであれば、日本人は、世界を救い、世界を守護する、誇るべき国家であり、外国から決して手出しができない尊い国家になることができます。また、それは世界平和とみろくの世の土台を築くに相応しい祈りになるはずなのです。

 

 霊界物語には、「つらつら考ふれば、天の下には敵もなければ見方もなし。すべての敵は皆われわれの心より発生し、次第に成長して遂にはわが身を滅ぼすに至るものである。心に慈悲の日月輝きわたる時は、天地清明にして一点の暗雲もなければ混濁もない。すべて敵といひ見方といふも、心の迷いから生ずるのだ。」 
(霊界物語 第三十六巻 第十三章)とあります。

 

 また、国際的な宗教問題に関しては、大本神諭に「和合信心でないと、真実の御神徳(おかげ)は無いから、皆和合致して下されよ。」(明治三十一年三月二十四日)とあることを踏まえれば、中東において深刻な宗教問題を抱えるような宗教徒については、次のようなことが言えると思います。

 もし、この機会を逃すことなく、こうした宗教的問題を各教の信徒の努力で和解と解決に至ることができたなら、神様も大いに喜ばれて各宗教徒たちは人類に誇れる大きな徳を積めるはずです。

 その反対に、今世で問題が解決できない人々、解決しようとしない人々は、死後の霊的な後悔(カルマ)として、あるいは転生後には同じ課題(カルマ)に取り組むことになるはずです。

 そう考えると、各宗教徒が自己の教理教論を絶対視する余り、他教への愛と寛容を持てないまま、自己の未熟さにも気づけず、高慢な態度で和解への絶好の機会を逃しているとすれば、自ら世界平和という絶大な神徳を逃しているのと同じことであり、極めて惜しいことなのです。

 それだからこそ、神諭にも「艮の金神は独り手柄を為るので無いぞよ。皆手を引き合うて、揃うて宣くなりて喜ばしたいのであるなれど、皆取り様が違うて居るぞよ。小さい心の人民、神は嫌い。」(明治三十六年六月四日)と記されているのかもしれません。

 

 さらには、「天地の先祖の思いの判りて居る守護神と人民は、今に無いぞよ。――中略――判りた御魂の宿りて居る肉体でありたら、何んな神徳でも授けるから、此の神徳を受ける御魂に使つわれて居りたら、一荷に持てん程神徳を渡すから、其の貰ろうた神徳くに、光を出して呉れる人民で無いと、持ち切りに為ては、天地へ申し訳が無いぞよ。」 (大正四年旧十二月二日)と綴られています。

 実際、出口王仁三郎は大本の内部では霊学や言霊学を布教していた半面で、対外的には、万教同根の精神を中核に据え、ハバイ教、道院、普天教、さらには、回教(イスラム教)、仏教、キリスト教に関連した世界各国の多様な宗教組織と積極的な交流と提携を結ぶことで大本神諭の言葉を実践していたのです。

 一方、現在の日本は非常に多様性に富み、それは宗教団体の数にも現われています。これは、決して悪いことではなく、それだけ神仏の無限の働きに対して多様で柔軟な解釈ができることを意味しています。ただし、良識ある宗教団体であれば「神仏の真理を布教することによって世界の平和と人類の救済を実現する」ことを目的としているはずです。

 そうであれば、「現在、深刻な社会問題が頻発するのは、吾々の信じる神の教えを信じないためであるから、他の宗教を信じる者や無神論者など、どうなっても関係ないし、苦しんだとしても自業自得なのだ。」といった態度をとってしまうとすれば、それは同時に、「あらゆる人々を愛し、救おうとしている絶対神」の神意に逆らい、その神意を真に布教者として伝えられていないことになります。

 これでは、布教者自身の信じる神の愛と、実際の布教者との間で矛盾が生じることになり、結果として宗教組織全体にとってもマイナスのカルマになってしまう危険性があるはずなのです。

 したがって、個々の宗教組織は「この世の中に民族紛争や宗教対立、飢餓や貧困、格差社会、自然破壊、環境汚染といった社会問題が多発してしまうのは、吾々信徒の愛と智慧が足りず、せっかくの神様の尊い教えを多くの人々に布教できていないから生じてしまったはずである。」と受け止め、これを反省し、布教活動に対する自らの戒めとすべきはずなのです。

 そして、こうした謙虚な布教態度によって宗教間の紛争や対立をなくして和解するための努力や、飢餓や障害者の救済に尽力を注ぐ活動ができたのなら、どのような宗教組織にも、個々人にも主神は守護されるでしょうし、神徳が具わり、霊験が立ち、御利益もあるはずなのです。

 

 私たちは五十世紀までに少しでも身魂を研いて徳を積んでおく必要があるわけですが、現在のような世の中は、むしろ神徳を積むためには絶好の機会でもあるはずなのです。

 例えば、一般的な日本の国民であれば百円を募金しただけでも、途上国の人々の空腹を満たしたり、病気を予防したり、植林活動を援助したり、教育のための文具を与えるなどの、尊い救済ができる立場にあります。

 ルカ福音書の「寡婦のレプタ」では、次のように書かれています。
 「それから目を上げて、金持たちが賽銭箱に賽銭を入れるのを見ておられた。またある貧しそうな寡婦がレプタ銅貨(五円)二つをそこに入れるのを見て、言われた、『本当にわたしは言う、あの貧乏な寡婦は誰よりも多く入れた。この人たちは皆有り余る中から賽銭を入れたのに、あの婦人は乏しい中から、持っていた生活費を入れたのだから。』」
 

 そのため、仮にその金額が小額であったとしても、金持ちでない人ほど、大きな徳を積める可能性を秘めているはずなのです。

 そう考えることができると、一億円の資産がある人の百円よりも、十万円の資産の人の百円の募金の方が、千倍以上尊い徳を積める可能性があるわけですから、『貧富の格差は神徳を積むための妨げにはならない』ということになりますし、『経済的格差によって生じる玉串や布施の金額に関係なく人は高い徳を積むことができる』ということになります。

 この意味において、『宗教団体の真の価値は、その内面の志と至誠と実践によって量られるべきであり、決して団体の規模や信者数、布施や玉串や募金の金額では量ることはできないものであり、また量るべきものでもない。』ということも理解できるのです。

 

 

(五)悪を救う祈りと日本の神風

 ここで、私たちは「先のような意見も、実は、大本の出口直や王仁三郎、シュタイナーの存在があったからこそ語れるのだ」ということを再認識する必要があります。

 というのも、現在の私たちがこういった客観的な観点で、大本や出口王仁三郎について語れるのは、大本や王仁三郎を支えてきた多くの人々の活動があったからなのです。それは、仮に、大本において「悪い型」として現われた人々であったとしても、です。

 なぜなら、大本において「悪い型」が無かったら、私たちは「悪とは何か」に気づくこともできず、改心することもできないはずだからです。それに、もし現代の私たちが戦時中に生まれていたなら、シュタイナーや王仁三郎の活動を現在のように客観的な立場で理解し、評価することはできなかったはずですし、逆に彼らの思想に偏見を持っていたかもしれないのです。

 

 実際、初期の大本では結果的に王仁三郎の神業の邪魔をして「悪い型」を出した人物として、英文学者の浅野和三郎という人物の名をあげられることがあります。確かに、当時の大本の中にあって浅野和三郎は、高慢さと名誉欲というルシファー的な部分と、神霊次元の教えを物質的次元の預言として取り違えるというアーリマン的な部分とを共に露呈しています。

 

 しかし、彼が大本を去ってから「心霊主義」として研究した功績は、現在「スピリチュアリズム」として受け継がれ、江原啓之氏にも通じているのです。現在の日本において、江原氏ほど霊学や信仰に全く縁の無い人や物質主義的な社会に対して霊的認識の普及に貢献している人はいないはずです。

注:第一章■二■(一) 参照

          

 江原氏は度々「シルバーバーチの霊訓」を推薦していますが、浅野和三郎の名は、シルバーバーチの霊訓の邦語訳者、近藤千雄氏は翻訳書の中にも登場しており、次のようなエピソードが添えられています。

 

 「私(近藤千雄)の恩師の間部詮敦(まなべあきあつ)師は元子爵(伯爵の下位、男爵の上位)で、慶応大学を出られたあと神道系の修行をされ、神主の資格をもっておられたが、終生、無位無冠の指導者で通された。

 独身で通すつもりだったが、スピリチュアリズムとの出会い、そして浅野和三郎氏の指導を受けるうちに人生観に一大変革が生じ、五十五歳で結婚された。その当時から本当の意味での“行”が始まった。

 金銭面でも人間関係でも大変な苦労をなさっておられるのが青年の私にもわかったが、それをすべて“神の試練”と受けとめておられたようである。――後略――」 
             (シルバーバーチ愛の力 第六章 こぼれ話)

 また、江原氏は著書『神紀行・二』の中で、自身の守護神をスサノオノミコトであると語っていますし、特に須佐神社を篤く崇敬しているという点でも、決して王仁三郎の流れに無関係ではないはずです。そもそも、全てを救う神として現われた全知全能の主神であれば、浅野和三郎の働きをも見直し聞き直しされて、有効な働きにする事ができうるはずです。

 さらに興味深いことに、江原氏は雑誌のインタービューの中で次のようにも語っています。

「――前略――

 聞き手 : しかし、正直なところ、江原さんが文化人としてきちんと認識されるためには、今の段階からさらにグレードアップが必要じゃないかと思うんです。やっぱりまだ怪しまれている部分もあるじゃないですか。

 江原氏 : あります、わかりますよ(笑)。

 

 聞き手 : それを踏まえて今後、江原さんはどういうご活動を目指されてゆくのか最後に教えて下さい。

 

 江原氏 : 技能以外で勝負することでしょうね。哲学とか理論とか、だれもが納得するようなことでいずれはやっていきたいと思います。

 最終的に自分が目指したい世界って、もしかしたらシュタイナー(オーストリアの哲学者・教育者。神智学<人智学>を唱えた)みたいなものかなと思うんです。
 彼も最初は霊能力、スピリチュアリズムから出発していますからね。もっと表現する力を磨き、理論化して、学校とか教育だとかいろんなところに応用できる方法を確立していきたいですね。」
(新潮45 12 2006 別冊 江原編集長 A*NO*YO

 

 このように大本では悪の役として組織を去った浅野和三郎氏の足跡を辿ってゆくと、大本を後にしてから非常に多大な功績を残していることが解ります。

 霊界物語の登場人物の会話には、悪の御用について、次のような件がりあります。

 「 秋彦:『身魂の因縁で善の御用をするものと、悪の御用をするものとがあるのだから、ご苦労な・・・・・・あなたもお役ですな。』

 国依別:『三千世界改造の大神劇の登場人物だから仕方がない。しかしながら、悪役ばつかりはご免蒙りたいワ』

 秋彦:『末になりたら、見な一所(みなひととこ)に集まって互いに打ち解け合ひ、ああかうであつたか、さうだつたかと言って、力一杯神様に使われて、こんなことを思つてをつたのかと、笑ひの止まらなぬ仕組(しぐみ)みだそうですから、さう気投げをしたものぢやありますまいで。――後略――』」
               (霊界物語 第二十七巻 第一章)

 

 そう考えると、私たちは大本において「悪の型」となった人々を批判したり裁いたりする権利はなく、むしろ感謝の念によって彼らが癒され救われることを主神に祈るべき立場であるはずなのです。

 その意味では、キリストの「わたしは正しい人を招きにきたのではない、罪人を招きにきたのである。」という福音や、親鸞上人の「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉も非常にもっともだと感じられてきます。

 そもそも、世の中に善人ばかりだったとしたら、仏法は必要とされなかったはずですし、悪人が多かったからこそ、それを救うために仏法を布教しようと多くの聖人が立ち上がったはずなのです。それは清掃する際にきれいな所よりも汚れの酷い所を入念に掃除するのと同じことで、穢れの多い悪人程、神が念を入れて清めようとすることは当然なこととも言えます。

 出口王仁三郎は霊界物語の回顧録で禁闕要の神(きんかつかねのかみ)についての話の中で次のように述べています。

 「出口教祖の御話に、

 『禁闕要の神は全身[]黄金色で在って、大便所(かわや)に永年の間、落とされて、苦労艱難の修業を積んだ大地の金神様である。その修行が積ん(まま)で、今度は世に出て、結構な御用を遊ばす如うになりたのであるから、人間は、大便所の掃除から歓んで致すような精神にならぬと、誠の神の御用は出来ぬ。夫れに今の人民さんは、高い処へ上がって高い役をしたがるが、神の御用をいたすものは、汚穢所(きたないところ)を美しくするのを、楽しんで致すもので無いと、三千世界の大洗濯の御用は、到底勤め上がらんぞよ』

 との御言葉を承り、且つ、『神諭』の何処にも記されたるを拝して、奇異の感に打たれ、神界の深遠微妙なるご経綸に驚いたのである。」

     (出口王仁三郎著作集 霊界物語 回顧録 女神の出現)

 また、悪人とは善人を妨害すればする程、自身は負のカルマを積んで悶え苦しむことになります。一方、善人は悪人によって自らの負のカルマが清算され、霊的により強く逞しく鍛え上げられているのです。したがって、カルマの法則上、最終的に悪の身魂は善の身魂には勝てないのです。

 そのため、カルマの法則に照らせば、「悪人とは非常に気の毒な人(霊)」なのであり、神仏には悪人の処罰を祈るべきではなく、「悪人がこれ以上負のカルマを作って苦しまないように……。」という慈悲心で救済..を祈るべきなのです。

 また、その祈りによって、神が悪人救済のために改心を迫れば、悪は改心するまで苦しむでしょうし、改心できれば反省して過去を悔い恥るはずなのです。それこそが、悪人の罪に対する祈りであると共に、最大の罰であり報復のはずなのです。

 実際、イエス・キリストもゴルゴタの丘に及んでも悪人や罪人の救済を祈っていたはずですし、出口直も大本の中で筆先に逆らって悪の型をする人が救われるように祈っていたはずなのです。

 当時の神諭には「出口直は日々咽喉から血を吐くような思いを致して、世界の為に苦労いたして居るのを、見て居る艮の金神も辛いぞよ。胸に焼鉄(やきがね)あてる如く、一人苦しみておるぞよ。」
 (明治三十二年・月日不詳)とも記されています。

 こうしたことからも、仮に日本に対して諸外国が戦争を仕掛けようとしているのであれば、「外国の人々が新たに負のカルマを作って地獄で苦しまないように……。」という慈悲で、神に戦争の回避と外国の改心を祈るべきはずなのです。その時にこそ、神は日本の国民を守護し、日本に神風が吹くはずなのです。

 

 また、自分のことを愛してくれる人には敵意や殺意を抱かないのと同様に、敵対する外国の国民の魂に祈りが届き、戦意を喪失させることができるかもしれません。それは、霊界物語の三五教の宣伝使が言霊によって邪教徒を言向け和すのと全く同じ精神のはずです。

 また、憎しみには悪魔が感応し、愛には主神が感応することを考えれば、敵に対して慈悲で祈るのは当然のことです。むしろ、他国への慈悲と平和の祈りが足りないがために、核武装や報復や聖戦ジハードが必要な状況を招いてしまうのだと受け取るべきはずなのです。

 霊界物語に登場する三五教の宣伝使・照国別は、次のように述べています。
 

 「――前略(大和魂についての解説)―― 何ほど理性が勝れてゐても知識に知識に達してゐても、知識では一切の衆生を済度することは出来ない。智識あるもの、学力ある者のみ之を解するもので、一般的にその身魂を救ふことが出来ない。

 これに反して、正覚心いはゆる神心、仏心は感情であるから、大慈悲心も起り、同情心もよく働く。この慈悲心、同情心は、智者も学者も鳥獣に至るまで及ぼすことが出来る。これくらゐ偉大なものはない。

 ウラル教は理智を主とし、バラモン教は理性を主とする教だ。それだからこそ如何(どう)しても一般人を救ふことは出来ないのだ。三五教は感情教であるから、一切万事無抵抗主義を採り、四海同胞、博愛慈悲に旗幟(はたじるし)を押し立てて進むのであるから、草の片葉(かきは)に至るまでその特に懐(なつ)かぬものはない。

 今日のごとく、武力と学力との盛んな世の中に、慈悲心のみをもつて道を拓(ひら)いてゆかうとするのは、何だか薄弱な頼りないもののやうに思はるるが、決してそうではない。最後の勝利は、よき感情すなはち大慈悲心、同情心が艮(とどめ)をさすものだ。――後略――」
 
               (霊界物語 第四十巻 第六章)

 

 

(六)悟りと悔悟と謙虚の徳

 大本神諭には、人間の認識の限界について次のように綴られています。

 

 「――前略――余り何時までも体主霊従(から)の精神(こころ)で居(お)ると、後の後悔間に合わん事に成るぞよ。人民が何程熱心に、神界の事を研究しても、容易(じき)に判りはせんぞよ。

 神の事は、人民で判るもので無いと云う事が判る人民でありたら、夫(そ)れこそまことの神界の判りた人民であるぞよ。判りたと申す人民は、何も判りては居らんので在るぞよ。」 (大正九年旧正月二十三日) 

 

 この事を示すように、出口王仁三郎も『取り違いの信仰』と題して、次のように語っています。

 「…… 兎とも角かく間違ってゐても神から離れぬことが大切である。やがては必ず自分から気がつくことがある。間違ってゐるからといって矢鱈(やたら)に攻撃しても詮つまらない。実は皆誰でも取違ひのないものはない。今日の処ところ、まだ本当に分かったものは一人もいないのだ。」 (玉鏡)

 

 こうした人間の認識の限界については、シルバーバーチの霊訓にも次のように述べられています。

 「わたしは生命とは霊のことであり、霊とは生命のことであり、初めもなく終わりもないと説いております。霊を物質の中に閉じ込めてしまうことはできません。物質というのは霊のお粗末な表現でしかありません。

 物質界に生きる人間は、視覚と聴覚と嗅覚と味覚と触覚の五つの感覚でしか物事を判断することができませんから、その五感を超えた生命の本質を理解することは無理なのです。そうした限界の中で生きているかぎり、その限界の向こう側にあるものが理解できるわけがありません。

 そことで次のような結論となります。すなわち宇宙は自然法則によって表現されていること、その法則の背後にある叡智は完全であること、しかし人間は不完全であるために、その完全さを理解することができない、ということです。

 人間が一個の形をもった限りある存在である以上、形のない無限の存在を理解することはできないのです。これはとても難しい問題ですが、少しでも理解の助けとなればと思って申し上げてみました。――後略――」 
               (シルバーバーチ愛の力 三章)

 

 このように考えると、人間である以上、全ての人が大なり小なり未熟な悪人だということも解ってきます。

 実際、子供の頃より、大人になってからの方が文字を上手に書けるように、人間の霊性や精神性も、経験や学習によって向上するほど過去の自分の言動が恥ずかしくなるものです。

(その意味では、未熟な筆者が本書を書いたこと自体、後になって恥ずかしく感じて後悔するだろうこともある程度覚悟しているつもりです。)

 しかし、そう感じられるとすれば、それは自分自身の身魂の向上を意味しているので、反面で歓迎するべきことでもあるのです。

 したがって、悟りとは「新たに高次の霊性に到達できた歓喜」であるとと同時に、必然的に「過去の自分の言動への悔悟と反省と懺悔を伴うもの」であり、結果として悟りが深まるほど人は謙虚さを増してゆくものなのです。 

 この悟りや認識の深まりと共に謙虚さが必要になることについて、シュタイナーは、『アカシャ年代記より』の中で次のように記しています。

 

 「真の神秘学へ深く参入すればする程、人はますます謙虚になる。

 そして特定の認識内容を受け取るためには、極くゆっくりと自分をそこにふさわしく成熟させてゆくしかないことを認めるようになる。そして人間の誇りとか傲慢とかは、結局、特定の認識段階に達してしまったら、もはや何の意味をももたなくなる。

 わずかながらでも一片の霊的認識を獲得した人は、眼前の道がどれ程遥か遠くまで通じているかを知る。知る行為を通して、『人がどれ程わずかしか知っていないか』を洞察する。

 そして超感覚的な認識内容について語るとき、どれ程大きな責任を引き受けなければならないかという責任感を持つようになる。人類はこの超感覚的な認識内容なしには生きられない。

 とはいえこの認識内容を普及しようとする者は、謙虚さと真に正しい自己反省と、そして自己認識への不退転な努力とこの上ない用心深さを、必要とする。」 

         (アカシャ年代記 第九章 若干の必要な補足)

 

 同じように、シルバーバーチの霊訓でも次のように述べています。

 「――前略――教えを説く者には深刻な責任があることは、ここにおいでのみなさんがご存じないはずはありません。知識には責任が伴うことを何度も申し上げたことでしょう。自分を他人の人たちより高め、人を教え導きたいと思うのであれば、まずは自分自身が拠って立つ足場をしっかりと固めないといけません。

 徹底的に探究し試みることを怠り、批判に身をさらすこともせずに自己満足し、本当かどうかの確認もないまま人に教えを説くようなことをしていると、その怠慢と軽率さに大きな代償を払わされる時が必ず来ます。」

 こうした忠告は、私のような素人の霊学の研究者は特に肝に銘じておかなければならないと感じております。

 例えば、王仁三郎は『神への恋愛』として、「渾身(こんしん)の真心を捧げて神様に溶け入るとき、それは相愛そうあいの男女の抱擁ほうように幾十倍するかわからぬほどの心からなる幸福を享受きょうじゅするのである。天地消滅どころではない。実際、筆や言葉では言い現すことができない底ていである。」 (玉鏡)と述べています。

 これに対して、一度も恋をしたことのない人が「それは国語では『恋』と書き、医学的には『胸の動悸、ため息、めまい、食欲不振、不眠』といった肉体的症状を示し、精神的には『対象の相手が離れると近づいて会話をしたいと望み、傍にいると嬉しいと感じながらも胸が苦しくなる』といった矛盾した錯乱状態を生じること。・・・・・・云々」という文章で恋について学んだとします。

 しかし、それを丸暗記して恋愛テストで満点を取り、異性への言葉にならない恋心について完全に理解したつもりになるとすれば、誰にでも滑稽に見えるはずです。
 同様に、現代の私たちが神について多くを知っているからと言って傲慢になる傾向があるとすれば、この恋愛テストで満点をとれたことを自慢しているに過ぎず、日本の受験のための詰め込み教育と何ら変らなくなってしまう危険性があるのです。

 仮に、信仰心検定とか、神仏理解能力検定といった試験で、1級、2級、3級といったランクを示すとしても、それは記憶力や暗記力のテストでしかなく、真の人格を測ることは、それより高次の霊格をもった人物の霊的認識でしか判断できないはずなのです。

 そのため、神や霊界の理解とは、悟りから得た内面の豊かさによって信仰や祈りや言動の質を高め、より高次の神霊からの直観力や芸術性や協調性を得、社会に美や平和を顕現させるための道具(如意宝珠)として捉える必要があるはずなのです。

 このように考える時、大本の経綸について「一厘(あるいは一輪)の仕組」とは何を意味するのか、ということが話題にあがりますが、それについても自らの慢心と傲慢さを戒める必要があるはずです。

 一厘(一輪)の仕組とは何かといった議論をする以前に、神様の愛どころか恋人の心すら満足に理解できず、霊界の全貌を見てもいない私たちのような一般人は、神様について九割九分九厘(九九・九%)知らないことばかりのはずであり、どこまでも謙虚に学びつづける姿勢が必要なはずなのです。

 

 そう考えると、「自分は九分九厘まで知っているから、残りの一厘の秘密を知りたい。」などと思うこと自体が、実は非常に高慢である証拠なのだと気付けるのです。そのため、全知全能の主神は、人間が九分九厘まで知っているなどと慢心して高慢になった瞬間に、残りの一厘で簡単にひっくり返すことができるはずなのです。

 

 大本神諭には、次のように綴られています。

 「――前略――今度の世の立替えは、昔から因縁の在る変性男子(出口直)と女子(王仁三郎)との身魂でないと、物事成就いたさんから、外の役員が何程智慧で考えて相談して行(や)りても、途中で邪魔が這入(はい)りて、虻蜂取らずの事が出来(しゅったい)いたすから、此の大本の経綸は女子にいたさすから、自己(われ)の我で行ろうと思うたら、物事九分九厘の所で覆るぞよと申して、毎度筆先で知らしてあれど、今の人民は鼻が高うて、我ほどエライ解りたものは無いと思うて、慢心が強いから、何時も縮尻(しくじり)が出来るぞよ。――後略――」
                   (明治三十六年旧六月四日)

 

 このように考えた時、私たち人間の分際としては、大本神諭にある「ミロク様の御艱難の万分の一の、「い」の万分の一の事が分かりて来たら、勿体無(もったいの)うて、人民は万物の長と言われて、神の御用を致さな成らぬと云う事が判るぞよ。」 (大正五年旧五月十八日)という言葉を戒めとするべきなのかもしれません。

 出口王仁三郎は次のような歌を詠んでいます。


       最上の 善とおもひし 事柄の 

                あやまちあるを 悟る神代かな

 

 

(七)謙虚の徳に支えられる万教同根の思想(その1:大和魂)


 先のような認識を深めてゆくと、結局、私たち人間のすることには、「どこまでも絶対的な善はないが故に、常に謙虚な姿勢が必要である」、ということになはずです。

 

 そして、もし人類全体が「誰もが絶対的な善ではないのだ」ということを常識として、謙虚に考えることができたときこそ、宗教、宗門、宗派の違いによる対立は、少なからず互いが譲歩し合う姿勢を保ち続けることが可能となり、真の平和を築くことができるはずなのです。

 

 また、「吾々のような未熟な人間には、神様については僅かなことしか解らない」ことさえ解れば、個々人が特定の宗教を絶対視し、洗脳されて他人を迫害したりする心配もなくなるはずなのです。

 

 さらに、万教同根という宗教本来の包括的な精神性に立つならば、宗教とは本来それ以上まったく分裂のしようがないはずなのです。そして、個々人が万教同根の精神であるがゆえに、全ての人々の個性が尊重されることになるため、個々人の精神性そのものが一つの宗門宗派であり、それ以上細かく分裂することもないのです。

 

 そのため、万教同根という霊的真実に根ざした場合、宗教という言葉は『個々人が学び、悟った所までが、その人の宗教である』という表現が相応しいといえるのです。

 

 それ故に、「私たち人間とは、日々向上すると共に、過ちはその場、その場で改めてゆかなければならない存在である」ともいえるはずです。

 

 これを王仁三郎の言葉で表現すれば、「直日の身魂に見直し聞き直し身の過ちは宣り直し」することであり、「惟神(かんながら)に生きる」ことだということもできます。

 

 それは、現代的に言えば、「神の偉大な智慧に比べれば人間の智とは浅いものなのだから、どのような人も過ちを発見したら、それを素直に認め、すぐに改め、改善されたら許し、許したら忘れて、後に傷跡を残さないような魂の強さと柔軟さをもちなさい。」ということを意味しているといえます。大本の「基本宣伝歌」では、次のように詠まれています。

 

 朝日は照るとも曇るとも 月は盈みつとも虧(か)くるとも

 たとへ大地は沈むとも   曲津(まがつ)の神は荒(すさ)ぶとも

 誠の力は世を救ふ    

 三千世界の梅の花     一度に開く神の教(のり)  

 開いて散りて実を結ぶ   月日と地の恩を知れ  

 この世を救ふ生神は     高天原に神集ふ

 神が表に現われて       善と悪とを立て別ける

 この世を造りし神直日    心も広き大直日

 ただ何事も人の世は     直日に見直せ聞き直せ

 身の過ちは宣(の)り直せ

 

 例えば、二十世紀の戦争や十六世紀の戦国時代、十二世紀の源平の合戦といった祖先や先祖の過去の問題や因縁までも現代にすべて持ち込んだとすれば、個々の人間は時代と共に宿敵を増やし、最後にはすべの個々人が、すべての人類を相手に戦いをするようになってしまうはずです。

 

 そのため、過去の問題を現在に持ち込むのではなく、そこから何を学び、改善(改心)し、赦し、精神的・霊的に向上できたかという点こそが、時間と空間に束縛された現実界(物質界)に生きる人間には最も重要な点になります。

 これは、既に取り上げたマニ教における光神による暗神の改心や、論語・巻第一・為政第二の精神にも通じます。(第四章■五■(四)参照)

 

 そうであれば、次のようなことも考えられます。

 例えば、私たちが過去世の全ての記憶を想い出したとします。そして、その遠い過去の喧嘩や戦争を回想して、「あの時の戦いの相手を探し出して、前々世と、前々々世の恨みを、今世で果たしてやる。」と考えるべきでしょうか。

 同様に、前世で十字軍の戦士だった人物の魂が、今世でイスラム教徒として転生したとしたら、その人は今世でイスラム教徒とキリスト教徒のどちらを敵にするべきでしょうか。また、今世でユダヤ人としてユダヤ教を信じる人が、前世でキリスト教徒だったとしたら……というように、想いを廻らすことができます。

 したがって、人は多くの時と転生を経るほど、自分とは異なる立場の人間、また異国人や異教徒を肯定し愛する必要性が生じるのです。同時に、来世や来々世のためにも、今世で敵を作らないように努力する必要があることも理解できます。

 

 シュタイナーによれば、アーリマンは唯物論的誤謬によって組織や集団を分裂させて対立させる悪魔だとも語っています。だからこそ、「大きく和することのできる魂」という意味で、大和魂を意識すべきはずなのです。

 

 以前にも取上げたように大本神諭にも次のように記されています。

 「和合信心でないと、真実の御神徳(おかげ)は無いから、皆和合致して下くだされよ。」 
              (明治三十一年三月二十四日)

 

 「艮の金神は独り手柄を為(す)るので無いぞよ。皆手を引き合うて、揃うて宣くなりて喜ろこばしたいのであるなれど、皆取様が違うて居るぞよ。小さい心の人民、神は嫌い。」
                 (明治三十六年六月四日)

 

 そして、出口王仁三郎も信者との会話に、次のような問答があります。

 「日本魂とはどんなものか知ってるか」 「武士道と違うんですか」と申しますと、「阿呆やなァ。王仁は日本魂は外国人とも唐人とも一緒に手を繋いで仲良くすることと王仁はそう習うたけどなァ。」
             (新月の光 下巻 第六章 日本魂)
 

 

 この大和魂(日本魂)について、大本神諭では次のような表現もしています。

  「大和魂と申すのは、請け合うた事の違わんよう、一つも嘘は申されず、行儀正しう天地の規則を守る霊魂を申すぞよ。」
                (明治三十七年旧二月十一日)

 

 その他にも、王仁三郎は筆先の「やまとだましい」という言葉を 「日本の国の人民は、本来に大仁愛主義精霊魂(たまとだましい)が天賦(さず)けてあるなれど、……」(大正五年旧五月十八日)とも表現しています。

 

 また、霊界物語の中では、「大和魂は仏の道でいうふ菩提心のことだ。」(第四十巻 第六章)としており、第一に神心・仏心(覚心、慈悲心、同情心)、第二に勝義心(理性)、第三に三摩地心(意志)の三者を合一したものが菩提心であり、大和魂であるとしています。

 

 さらに、霊界物語の中では、日本魂を次のようも譬えています。

 「――前略―― 本巻末尾には、神代(かみよ)における宣伝使の至善至美、至仁至愛の大精神が遺憾なく口述されてあるから、宣伝使は更なり、すべての宗教の信者たるもの、本巻を一読されて大神の大御心を覚り、かつ信者たるものの規範となし、真の日本魂を発揮されむことを希望する。

 ※ 宣伝使の精神については、次節、第四章■六■(八)を参照

 キリスト教といふも、仏教といふも、神道といふも、その真髄を窮めてみれば、いづれも日本魂(やまとだましい)の別名に外ならぬのである。いはんや日本魂の本場たる神の国に生を托するものにおいておやである。」
                 
(霊界物語 第二十四巻 総説)


 

(八)謙虚の徳に支えられる万教同根の思想(その2:万教同根)

 

 「和合信心」「大和魂」「日本魂」という言葉を先のように解釈すると、この精神性こそが「万教同根」の思想へと通じることが解ります。

 

 それは霊界物語に登場する多くの宣伝使たちの言葉として、非常に明確に、繰り返し何度も強調されていることからも、出口王仁三郎が特に強調している認識であることがうかがえます。

 

 「――前略―― また三五教とか、バラモン教とかいふやうな雅号にとらはれてゐては、本当の真理は分かりますまい。

 雨 霰 雪や氷とへだつとも、おつれば同じ谷川の水……とやら、大海は細流を選ばずとかいつて、真理の光明は左様な区別や雅号に関係なく皓々と輝いております。

 善とか、悪とか、三五教とか、バラモン教とかにとらはれて、宗派心を極端に発揮してゐる間は、かへつてその経を狭め、その光を隠し、自ら獅子身中の虫となるものです。」

              (霊界物語 第二十八巻 第二十一章)

 

 これに対して、大本神諭にも、「谷々(たにだに)の小川の水も大河(おおかわ)へ、末で一つに為る仕組(しぐみ)。」 (明治二十五年正月)とも書かれていいます。

 

 また既に、第四章■五■(四)でも取り上たように、三五教の宣伝師である三千彦は、「三五教といひ、バラモン教といふも元を正せば一つの神様でございますから、教には勝劣はございますまい。ただ道を奉ずるものの心によって、御神徳の現れに大小高下の区別がつくだけのものです。」(霊界物語 第五十六巻十八章)と語っています


 さらに、竜国別という宣伝師も「たとえバラモン教でも、三五教でも、誠の道には変わりはありませぬ。私は誠の道の宣伝使です。三五教、バラモン教、またアルプス教というやうな区別した名称にあまり重きをおいてはおりませぬ。」(霊界物語 第二十一巻・第十一章)と語っているのです。


 同様に霊界物語に登場する末子姫は、改心した石熊に対して、次のように語っています。

 「――前略―― さうして、あなたは別に三五教にお這入(はい)りにならなくても宜しい。また、高照山とかの立派な館を三五教へ献(たてまつ)るとかおつしゃつたように記憶しておりますが、決してそんなご心配は要りませぬ。神さまの誠の御教えは左様な小さい区別されたものではございませぬ。

 三五教だとか、バラモン教だとか、ウラル教だとかいろいろ小さき雅号をこしらへ、各自にその区劃の中に詰め込まれて、蝸牛角上の争い(カタツムリの目の上の領地をで争うような小さい諍い)をしてゐるやうなことでは、たうてい大慈大悲の大神の御神慮には叶ひませぬ。

 誠の道は古今に通じ、東西に亘り、単一無雑にして悠久かつ宏大なもの、決して教会とか霊場とか、左様な名に囚はれてゐるやうなことでは、誠の神の御心はわかるものではございませぬ。

 あなたも三五教の中に宜しい点があるとお認めになれば、そこをお用ゐになり、バラモン教で宜しいから、悪いと気のついたところは削り、また良いことがあれば、誰の言つた言葉でも少しもかまひませぬ。

 長を採り短を補い、完全無欠の神様の御教を、なにとぞ天下に拡充されむことを希望致します。妾(わらは)も三五教の宣伝使などと言はれる度ごとに、何だか狭苦しい箱の中へでも押し込められるやうな心持がいたしまして、実に苦しうございます。

 すべての神の教えは自由に解放されて、一つの束縛もなく、惟神的でなくてはならないものですよ。どうぞそのおつもりで今後は世界のために、神様の御為(おんため)に力一杯誠をお尽くし下さいませ。これがこの世を造り給ひし元津御祖(もとつみおや)の大神、国治立命様その外の尊き神々様に対する三五教の真相でございますから……。」
                  (霊界物語 第三十巻 第十章)

 同じく、貫州という霊界物語の登場人物は、次のように語っています。

 「――前略――バラモン教であらうが、三五教であらうが、誠の道に二つはない。つまり人間の考へによつていろいろの雅号をつけたり、勝手な障壁をこしらへて威張るだけのものだよ。――中略―― 

 宅(うち)の女房の名がお竹でも、お松でも別に変はりはないぢゃないか。お竹の名がお松にならうと、お松の名がお梅にならうと、人間その者はチツとも変はりがない同様に、神様は一株だから、よく考えてみて、その上に去就を決した方がよかろうぞ。

 バラモン教といふも三五教といふも、ただしはジヤンナイ教といふも、ウラル教も、教を伝ふる人間の解釈によりて、深浅広狭の区別がつくまでだ。ともかく深く広く、入り易く、愉快な教を信仰して、その日その日を安心立命してゆくのが、神の教を信ずる者の本領だ。――後略――」             (霊界物語 第二十五巻 第十四章)

 これに対して、大本神諭には次のように綴られています。

 「艮の金神は、二道ありては表面(おもて)にはならんから、一筋の道になりて仕舞わんと、物事成就は致さんぞよ。」
                (明治三十五年旧七月十六日)

 

 同様に、照国別の歌には次のような件がります。

 「――前略――

 三五教は神の道     仏の道の区別なく  
 ただただ真理を盾となし 世人を救う道なれば  
 神の教に現れし     弥勒の神の真実を
 仏の唱ふる法により   爰(ここ)にあらあら述べておく
 ああ惟神惟神      御霊幸はひましまして  
 三五教の御教は     古今を問わず東西を

 区別せずして世の為に  研き究めて神 儒 仏  
 その他の宗教の真諦を  覚りて世のため人のため  
 誠を尽せ三五の     教司(おしえつかさ)はいふも更
 信徒(まめひと)たちに至るまで 
 ああ惟神惟神      御霊幸はいましませよ
 神素盞鳴大御神     厳の御前に願(ね)ぎ奉る」
 
          (霊界物語  第四十巻  第六章)

 そして、既に第三章■一■(五)「西洋と東洋の叡智の合流」でも取り上げましたが、出口王仁三郎も自身の言葉で次のように述べています。

 「……この物語もまた決して日本のみに偏重したことは述べていない。世界統一的に神示のままに記述してあるのだ。まだ新論的迷夢の醒めない人々は、この物語を読んで、不快に感ずる人もあるであろうが、しかし真理は石の如く鉄のごとく、感情や意志をもって枉(ま)ぐることはできない。

 神道も仏教も耶教(やきょう:キリスト教)も、時代と地方との関係上、表面別々の感があるやうだが、その最奥をきはむれば、同一の神様の教えであることを覚り得らるるのである。ゆゑに神の道を研究する人は、広き清き偏頗(へんぱ)なき心をもつて、真面目にかかつていただきたいものであります。」
                    (霊界物語・第四十七巻・総説)



 

(九)謙虚の徳に支えられる万教同根の思想(その3:世界統一)


 このように、大和魂(日本魂)を考えると、「世界の中心地に住む日本人は、本来は他国の人々より偉いのだ」と誇るべき民族なのではなく、他国の人々より謙虚で礼節を弁え、嘘偽りののない国民であるべきであり、そういった精神性(大和魂)によって世界の中心であり、手本であり、雛型に恥じない民族であるべきはずなのです。

つまり、至誠です。

 また、日本に生まれ住むということはそれだけ有り難いことであり、感謝べきであると同時に、その責務もどの国よりも重いはずなのであり、責務が重いということは、神仏は諸外国の国民よりも日本国民に対して厳しいとうことにもなります。

 

 出口王仁三郎は、次のようにも述べています。

 「日本魂のちゃきちゃき、裸一貫の荒男、世界経綸の当路者(とうろじゃ)と称する現代(昭和三年)の日本の男児には、情けないかな、勇気と根気を欠き、第一に信仰心なく、仁義なく、自負心強く、自重心なく、男子の気魄と実行力を欠き、かつ狷介(けんかい:自分の意思を頑なに守って他と強調しないさま)にして人を容れず、自己の小主観をもってことを律するゆえに、志とちがう場合多く、なおかつこれを反省せず、神人万物に対して感謝の念なく、怠惰にして朝寝を好み、陰徳陽徳を欠き、人情薄くして大器晩成的の力なく、軽佻浮薄にして剛健の気骨なく、道徳観念絶無にして意気地なし。

 また青年に特有の気魄と奮闘心を欠き、後進を指導する度量なく、正義公道を解せず、ただ眼先のことのみに心をくばりて、思慮浅く、不真面目にして。排他心強く、かつ偏狭なり。

 平素、女性のごとく脂粉に浮身をやつすことのみ知りて、新進気鋭の勇気なく、かくして神の建て玉いし日本神州の国家を傷つけつつあるものは、現代の日本人、ことに男子はその最たるものである。

 あゝ、一日も速やかに、わが大本の教理を普く同胞に伝達し、もって、祖先の給いし日本魂を振り起こさしめ、世界統一の神業に奉仕せしめたきものである。

 

   日に月に日本魂の消えて行く

       世を活かさむと伊都能売の神 (いづのめのかみ) 」

                                                   (月鏡 昭和三年十二月)

 この言葉は、非常に耳の痛い内容ですが、出口王仁三郎はかつて、「世界はどこの国が統一するか」との質問に対し、「神を信ずる国が統一する」と答えたといいます。しかし、その神を信ずる精神性は、決して偏狭なものであってはならないはずです。そうでなければ、世界の統一などできるはずがありません。

 

 したがって、宗教は仮に個人的な解釈の違いによって宗門宗派に分裂したとしても、出口王仁三郎が掲かかげている『万教同根』という巨大な流れの中に合流する時代を意識すべきはずです。

 

 私たち日本人は、以上のような広い視点で日本が地球の正四面体のピラミッドの頂点であり、世界の雛型の経綸が降りているという霊的中心地であるという事実を受け止めるべきはずなのです。

 

 出口王仁三郎は「地租委譲問題」に対する見解の中で、世界統一についてのべているので、参考までに転記しておこうと思います。

 

 「地租委譲問題は地方分権制度でマッソン(フリーメーソン)の仕組である。細民いじめのやり方であって、国運はいよいよ危うくなるばかりである。貴族院が反対するのも無理はない。

 だいいち、神様は世界統一を企てておられる。

 日本もむかしから、ほとんど統一したことがなく、群雄割拠から、織田、豊臣、徳川の世をへて、明治大帝にいたって、はじめて完全に日本統一ができあがったので、この型を世界にうつすのが本当であるのに、反対に地租委譲なんかをよろうというのは間違っておる。

 本当のことをいうと、全世界もまた、一度も統一されたことがないので、月の国が七千余国であるばかりでなく、世界も七千余国であって、神様の思召しによって、それがだんだん統一されつつあるので、今はよほど統一せられたところである。」
                         (月鏡)

 

 ちなみに、「新月の光(上巻)」には、肝心な部分が伏字になってしまっているのですが、次のようにも述べています。

 「世界は○○○○が小アジアに君臨されなくては出来ぬのである。」

 「ユダがしばらく世界を統一する。それから○○の番だ。」

   (本にはユダヤではなく、ユダと書かれているが間違いか?)

 そして、マイトレーヤ(弥勒)の神業について、霊界物語の中に次のような歌を読み込んでいます。

 

 「三千世界の人類や       禽獣虫魚に至るまで

  救ひの船を差し向けて     誠の道を教へゆく

  神幽現の救世主        太白星の東天に

  きらめく如く現はれぬ     一切万事更世(かうせい)の

  誠の智慧を胎蔵し       世界のあらゆる知恵学者

  権威と智慧に超越し      迫害苦痛を一身に

  感受し世界を助けゆく     歓喜と平和を永遠に

  森羅万象に供給し       至幸至福の神恵の

  精神上の天国を        この土(ど)の上に建設し 

  無限の仁慈を経(たて)となし 無窮の知識を緯(ぬき)として

  小人弱者の耳によく      理解し易き明教を

  徹底的に唱導し        いかなる悪魔も言霊の

  威力に言向和しつつ      寄せくる悲哀と災厄を

  少しも心にかけずして     所信をあくまで貫徹し

  裁 制 断 割 道きはめ   神人和合の境に立ち

  悪魔の敵に遇ふごとに     ますます心は堅実に

  信仰熱度を日に加へ      三千世界に共通の

  真の文明を完成し       世界雑多の宗教や

  凡ての教義を統一し       崇高至上の道徳を

  不言実行体現し                暗黒無道の社会をば

  神の教と神力に                照破しつくし天津日の

  光を四方に輝かす             マイトレーヤ(弥勒)の神業に

  奉仕するこそ世を澄ます      大真人の神務なれ

  アア惟神惟神                   御霊幸はひましませよ。」

                                             (霊界物語 第二十八巻 総説歌)

 

(十)霊的な愛と利己的な愛(その1)

 シュタイナーは『薔薇十字会の神智学』の中で、次のように述べています。

 「かつて人間が霊的なものから物質的なものへと下降させたものはすべて、再び霊的なものへと上昇できるようになるために、下降しなければならなかったのです。けれどそれとともにも私たちの時代はある課題を得たのです。古代人の中には種族を結びつける血が流れていました。

 今日、古い血の中に流れていた愛は、次第に打ち砕かれています。そのかわりに、霊的な種類の愛が現れねばなりません。そうすることによって、私たちは再び霊的なものに上昇していけるのです。

 人間が霊的なものから下降することは正しい理由がありました。再び霊界に上昇する道を自らの力によって見出すために、この下降の過程を通過しなければならなかったのです。霊学の使命は、この上昇の道を指し示すことにあります。」

 

 シュタイナーは、神智学的な観点から現代の人類が置かれている状況を、「第五文化期」としており、続く「第六文化期」「第七文化期」には人類の混血が進み、血縁や種族の結びつきは失われてゆくと述べています。

 

 それは血縁からくる愛ではなく、霊的な種類の愛によって人類の意識が霊次元に上昇するためであるといいます。人類の歴史を顧みればその紛争や戦争、あるいは宗教間の主導権争いの多くは、血縁、種族、民族の違いに原因があったといっても過言ではないでしょう。

 

 大本神諭には、「此の世へ出て来たなれば、皆兄弟で在るから、仲良く致して、神の世話を致して下されよ。皆が和合を致して、神力を籠こめたなれば、がいこくから何程出て来ても日本神国の神威(かみ)には敵わぬぞよ。」 (明治三十九年旧八月)とあります。

 

 これは、親子、兄弟、姉妹、親戚同士が和合することは当然のこととして、全世界の民族を尊重し、愛するという精神性を保持する必要性を感じさせます。また、神はそういった人々にこそ真に守護されるという意味のはずです。その意味では、この神諭の「日本神国」とは高天原(正神界)であり、「がいごく」とは、地獄(邪神界)のことを示しているという解釈もできると思います。

 

 シルバーバーチの霊訓にも、次のような指摘がされています。

 

 「我欲を捨て他人のために自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就しはじめることになります。

 家族的愛情や恋愛が間違っていると言っているわけではありません。そとにむけてのより広い愛の方が上だと言っているです。排他性の内向的愛よりも発展性の外交的愛の方が上です。いかなる資質にも上等のものと下等のもの、明るい面と暗い面とがあるものです。

 家族的な愛は往々にして排他性を帯びます。いわゆる血のつながりによる結びつきです。それは進化の過程における動物的段階の名残である防衛本能によって支配されていることがよくあります。

 が、愛の最高の表現は己を思わず、報酬を求めず、温かさすら伴わずに、全てのものを愛することができることです。その段階に至った時は神の働きと同じです。なぜなら自我を完全に滅却しているからです。

 愛は人のために尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。愛はまた、滅私と犠牲の行為となって表されます。」
 
               (シルバーバーチの霊訓(1)八章)

 マザー・テレサは、飢餓に苦しむ人、愛に飢える人、病に患う人を、苦んでいるイエス・キリストの姿だとして、救済にあたったといいます。

 「イエスは、最後の審判の時の評価基準をはっきり宣言なさいました。私たちは貧しい人々に示した愛によって裁かれるのです。神は『わたしにしてくれた』と、ご自分を貧しい人々と同一視なさるのです。(マタイ25・40)」
                (マザー・テレサ 愛と祈りの言葉)

 

 「神の愛の宣教者たちは、貧しい人々に助けの手をさしのべる度に、実は、キリストご自身に同じことをしているのだという固い信念をもっています。」 
              (マザー・テレサ 愛と祈りの言葉)

 マルコ福音書・十章(マタイ・十九章、ルカ・十八章)では、次のような聖言が述べられています。

 「わたしのため、また福音のために、家や兄弟や姉妹や母や父や子や畑をすてた者で、今、この世で百倍の家と兄弟と姉妹と母と子と畑とを、また来るべき世では永遠の命を受けない者は一人もいない。しかし、決して油断してはならない。一番の者が最後になり、最後の者が一番になることが多い。」

 この福音の解釈について、シュタイナーは次のように語っています。

 「かつて、進化においても人間は利己的でしたが、現在とは違った形で利己的だったのです。現代のように魂の奥深くにまで入りこんだエゴイズムは、唯物論の刻印が人間に捺された結果生じたものです。霊的な時代とは、このエゴイズムの克服を意味しています。

 それゆえに、真に宗教的生活への傾向を持ったキリスト教その他の宗教、精神運動は、古い血のつながりを断つことを目指しています。聖書にはラディカルに、「父、母、妻、兄弟、姉妹を捨てない者は私の弟子になれない。」と記されています。

 この章句はかつての血縁のつながりのかわりに、魂と魂、人間と人間の霊的な絆を創造しようという意味です。」
 
                  (薔薇十字会の神智学)

 

 すると、「自分が一番初めに救われたいから、無慈悲に親族との血縁を切る」というのであれば、その人は、親や子を捨てて裏切った自責の念のため、最後まで救われないかもしれません。

 それとは反対に、「自分は全ての人類が救われるのが望みだから、全ての人々が救われる最後の日まで自分は救われなくても良い」という人は、死後に霊界では誰よりも先に神に救われ、最初に天国に入ることになるはずです。

 このように「一番の者が最後になり、最後の者が一番になることが多い。」という福音は、こうした「利己的な愛=体主霊従」と「霊的な愛=霊主体従」のことを比喩しているという解釈もできるわけです。

 先に、霊界物語には、「大和魂は仏の道でいうふ菩提心のことだ。」 (第四十巻 第六章)と説明されていたことを取り上げましたが、曹洞宗の『修証義』第四章「発願利生」の冒頭では、菩提心を次のように譬えています。

 「菩提心を発(おこ)すというは、己れの未だ度らざる先に一切衆生を度さんと発願し営むなり、設(たと)い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度他の心を発すべし。

 其形陋(いや)しというとも、此心を発せば、己に一切衆生の導師なり、設い七歳の女流なりとも即ち四衆の導師なり、衆生の慈父なり、男女を論ずこと勿れ、此れ仏道極妙の法則なり、――後略――」

 そのことは、大本神諭の次のような言葉にも現されています。

 「人が死のうが、世界が潰れようが、多勢の人民が苦しもうが、自分さえ良けれりゃ良いというような心で居ると、我が先に泥溝(どぶ)へ嵌(はま)って、苦しむ事が出来てくるぞよ。」
 
                   (明治三十五年旧四月三日)

 「今の時節は、自分さえ好けら好い時節であるが、自己の事を後へ廻しておいて、他人を助ける人民でありたなれば、其の誠の者は神が見て居るから、――後略――」
                 (明治三十九年九月十九日)


 「我身を捨てても、世界助けの信心致す位な熱心の在る人民で在りたら、其の者は神が守護(かもう)て、難儀(なんぎ)は為させぬぞよ。」
                  
 (明治三十二年旧正月)

 「我子、人の子、親、兄弟の隔ては出来んのが、神界の規則であるぞよ。」                   (明治三十六年旧六月八日)
 

 これは、先の聖書の福音や発願利生と全く同じ意味だと感じられますし、シュタイナーやシルバーバーチが語った霊的な愛への上昇とも共通していることが解ります。そして、それは法華経を信じるすべての衆生を救うまで、自ら衆生の救済にあたりつづけると仏に誓った数々の菩薩たちとも、同じ『志』であり『慈悲』ともいえるのです。



(十一)霊的な愛と利己的な愛(その2)

 

 先のような「霊的な愛」の獲得のためには、当然のように「霊的な認識」が必要であり、その霊的な真理や叡智によってこそ、真に霊的な結びつき、つまり霊的な愛が保たれることになります。

 そのことについて、シュタイナーは単に愛について感情的に語ることを戒めるかのように、次のように語っています。

「それでは、唯物論と同族の結びつきを克服することを通しての霊性と普遍的人類愛の獲得は、どのような手段と方途によってなされうるかを考えてみましょう。正しい普遍的人類愛を強調する必要があり、人間愛を目的にした結びつきを作らねばならない、という意見が生まれるかもしれません。

 神秘学は決してこのような意見を抱くことがありません。反対です。普遍的兄弟愛や人間性について語れば語るほど、自分の言葉に酔ってエゴイストになってしまうのです。感覚的な歓楽があるように、魂的な歓楽が存在します。

 『私は道徳的、倫理的にますます向上したい』というのは狡猾(こうかつ)な淫蕩(いんとう)のもたらす歓楽なのです。このような言説は通常のエゴイズムではりません。このような歓楽から生じるのは、老獪(ろうかい)なエゴイズムです。

 愛や同情を説くことによって、人類が進化するのではありません。もっと別の何かを通して、人類は友情を作りあげてゆくのです。別の何かとは霊的な認識にほかなりません。

 普遍的な人間的友愛をもたらす手段は、神秘学的認識の普及以外にはありません。人々はいつも愛や人類の同胞化について語り、いくつもの連盟が創設されますが、目標を達成することはありません。

 正しいことを行うには、どのように人類の結びつきを創造するかを知る必要があります。全人類に通用する神秘学的な真理を生きる人々だけが、一つの真理の下にともに存するのです。植物はみな太陽に向かって成長しながらも、しかも、個々の植物は個体性を有しています。そのように、真理は一元的なものでなければなりません。

 統一的な真理を目指すことによって、人々はともに在ることができるのです。人間は真理に向かって精力的に働かねばなりません。そうして初めて調和的な共同の生活が可能になるのです。」
 
                    (薔薇十字会の神智学)

 このなかで、「全人類に通用する神秘学的な真理を生きる人々だけが、一つの真理の下にともに存するのです。」という言葉から、神智学(あるいは人智学)だけが一つの真理だと解釈してしまうと高慢に聞こえてしまいますが、シュタイナーは神秘学的な真理とは、数学の定理のように論議の余地のないものだとしています。

 そのことは、これまでルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎、さらに、スウェーデンボルグ、エドガー・ケーシー、ジェームス・チャーチワード、A・ファーニス、シルバー・バーチ、といった書籍の霊的真理が多くの点で一致、あるいは酷似していることからも、理解できると思います。
 

 つまり、先のシュタイナーの比喩を借りれば、「植物(=神秘家たち)はみな太陽(=神の真理)に向かって成長しながらも、しかも、個々の植物(=神秘家たち)は個体性を有しています。」ということです。

 それが何を意味しているかといえば、これまでの宗教は個々人が独自の解釈をしてきたことによって、修門・宗派に分裂し、分派し、相互理解を得られなくし、双方が批判を繰り返してきました。

 しかし、偉大な神秘家の語る霊的な真理・叡智は、多くの点で符合、一致しており、その符合点から真理がより明確となりす。すると、相互理解が容易となり、霊的な結びつきである高次の霊的な愛も得やすくすることになる、ということです。

 そして、この霊的叡智は、数学の定理のように相互の真理を認め合うことにとどまらず、互いが真理であることを証明し合うことになるはずなのです。

 さらに、シュタイナーは、私たちが血縁や種族に由来する愛から霊的な愛に上昇するには、単に高度の叡智を知悉することではなく、霊的な教義の助けを借りて社会問題や教育問題といった直接周囲の事象に関わることが大切であるとして、次のように述べています。

 「第六文化期における人類の努力目標は、神秘学的真理を人生にもたらし、適応させるという課題を持っています。このことが現代には欠けているのです。いかに今日、みなが正義を探し求め、そして、誰も正義を発見できないかを考えてみてください。

 現代は無数の問題、教育問題、婦人問題、医療、社会問題、食糧問題を抱えています。何人もの人がこれらの問題を解決しようとして、無数の論文や本が書かれていますが、どれも自分の観点から意見を述べていて、中心となる神秘学的真理を学ぼうとしてはいません。

 霊学的、神智学的な真理についての抽象的な知識が問題なのではなく、社会問題、教育問題を研究するために、霊学の真理を直接生活の中にもたらすこと、人生を真の神秘学的叡智の観点から研究することが大切なのです。」
                   (薔薇十字会の神智学)
 

 そうだとすれば、偏狭な愛国心や選民主義、自国至上主義を子供に植え付けたり、投資や経済戦略の教育に熱を上げたりするのではなく、シュタイナーの提唱するような子供にとって最も相応しい霊学的な観点から見た教育が、今後ますます重要になってくるはずです。

 勿論、シュタイナーは子供に対して霊学を教えるようなことはせず、子供の霊的な成長に即した教育を行なう方法論とその必要性を説いています。また、そのためには、子供たちと接する教師の育成と教育から始める必要がある、という点もシュタイナーが非常に重視した理念なのです。

 大正六年旧八月二十二日の大本神諭においても、 「世に出て居れる方の、学で出世をして居れる守護神は、いろはの勉強は、阿保らしゅうて改心が出来ず、学では間に合わず、――後略――」 と書かれてありますが、この「いろはの勉強」というのも、吾々が霊的法則性を一から学ぶべきであるという意味のはずです。

 そして、人間は霊的次元の学びによって『愛』の次元を高め、血縁を越えた『霊的叡智』を拠所とすることができれば、人類全体が高い霊的次元で結びつくことが可能になるはずです。


(十二)心で感得する御神徳(その1)

 出口王仁三郎は霊界物語・第一巻・第十二章の中で次のように語っています。

 「道の大原にいふ。『善は天下公共のために処し、悪は一人の私有に処す。正心徳行は善なり、不正無効は悪なり』と。何ほど善き事といへども、自己一人の私有に所するための善は、決して真の善ではない。

 たとへ少しぐらゐ悪が有っても、天下公共のためになる事なれば、これは矢張(やはり)善と言はねばならぬ。文王一たび怒って天下治まる。怒るもまた可なり、というべしである。」

 この「天下公共のため」という認識は、本章■四■(四)で取り上げた出口日出麿氏の次の言葉とも同じ意味であることがわかります。

 「われわれの一念、一言、一行は、ことごとく相互に影響し合うているのである。このことを厳粛に考える時は、われわれは、わがための吾ではなくして、全体のため、一切のための吾であることを痛切に知るのである。

 であるから、真の生活というものは、この世においても、あの世においても、一切のため、全体のためにその用を遂げることにあるのである。」 
                     (信仰覚書)

 

 このことは、シルバーバーチの霊訓においても、次のように述べられています。

 「私たちが説く全教説の基調は、“人のために己れを役立てる”という言葉に尽きます。あなた方の世界のガンとも言うべき利己主義に対して私たちは永遠の宣戦を布告します。戦争を生み、流血を呼び、混乱を招き、破壊へ陥れる、かの物質万能主義を一掃しようと心を砕いております。」
 
    (第二巻 第一章 「人のために役立つことを」)

 このように考えると、スケールが大きくて私たち一般人には少々実行が難しいように感じます。しかし、私たちが日常生活で、地球環境のために一本の木を植えることも、省エネや節水をすることも、資源の再利用のためにゴミの分別をすることも、国家や世界の天下公共のためにしているのだと意識して行なえば、神様はそれを非常に尊い行いであると受け取ってくれるはずなのです。

 例えば、大本神諭には次のように書かれているのです。

 「今度の御神徳(おかげ)は、我が心で如何(どんな)御神徳(おかげ)も感得(と)るのざそよ。」
 
             (明治三十六年旧八月二十七日)

 

 「何彼(なにか)の神言(こと)を汲み取りて、一を申せば十を知る身魂でありたら、上にも眼が付き、下にも眼が付いて、此の方出口の因縁摂理(こと)の判る身魂でありたら、今度は大きな御神徳(おかげ)が感得(とれ)るなれど、器量(うつわ)が小さいと、其処迄は気が届(つ」かんぞよ。心丈(だけ)で、他人に判らん神理霊徳(おかげ)は、心で感得(と)るのざぞよ。」 
 
            (明治三十六年旧八月二十二日)

「是からは表面を飾らいでも、腹の中の潔白(きれい)な人民が、御神徳(おかげ)感得(と)るのが速いぞよ。」
 
             (明治三十六年旧八月三十日)

 そうであれば、ゴミを捨てるという行為も、「面倒臭いからポイ捨てする」のか、「自治体の法律で定められていて仕方がないから分別する」のか、「資源回収業者やリサイクル業者のためにする」のか、「少しでも地球環境を守るためにする」のか、「天地の神様の恵みや生物の命の犠牲を無駄にしないためにする」のかといった個々人の心次第で、表面的には全く同じ行為も、神様や自分自身の魂から見れば非常に大きな違いがあるはずです。

 同様に、外出する時に衣服を選んで身嗜みを整える場合も、「皆に見せびらかして自慢するために高級なアクセサリーと服を着込む」のか、「会う人や周囲の人に失礼のないようにするため」なのかによっても、人の目からは同じように身嗜みを整える行為も霊的には非常に大きな違いがあるはずです。

 ※ 第三章■一■(十) 参照

   

 このように、自分自身の行為の内面性を審判することによって、御神徳も違うことに気づかされるのです。そうすると、御神徳とは単に物質的に豊かになることだけではないのかもしれません。

 例えば、日常の生活の気分の昂揚、清々しさ、ウキウキ感、ワクワク感、といった精神性を保つ事ができる御神徳を授かれば、憧れの異性と恋に落ちた時のように、あるいは無邪気な子供の頃のように、山を見ても、川を見ても、海を見ても、丸い空を見ても、一輪の花を見ても、すべてが新鮮で、目をキラキラさせて美しいと感動でき、神様に深い感謝ができるはずです。

 それは、霊鷲山で一輪の花を示した釈迦が、聴衆の中で唯一その花を見て微笑んだ迦葉尊者(かしょうそんじゃ)に法を伝授したという無門関「世尊拈華(せそんねんげ)」の公案にも表現されています。

 結局、御神徳によって「神様に感謝できる精神状態でいられる事に感謝できる」ような内面的な状態が維持できなければ、いくら金銭的に豊かでも真の喜びを実感することは決してできないはずですし、喜びも長くは続かないはずなのです。

 もし、この内面的な御神徳が全く実感できなければ、莫大な資産を築いても真の満足が得られず、さらなる資産と地位を得ようとしたり、最悪は優越感に浸りたいが為に、特権を乱用して他人が羨ましがったり苦しんだりすることを喜びとしたりするようになってしまう場合すらあるのです(体主霊従)。

 これは、明らかにルシファーや金毛九尾の悪狐の性質です。ですから、この真の神徳は決してお金では買えないものなのです。

 しかし、内面に御神徳が保たれていれば、物質的な富は自分だけでなく他人を救う道具にもなり、人を救済できることを喜べるので、さらに高い徳が身に付くはずなのです(霊主体従)。

 さらに高次になれば、自分に対する見返りを喜ぶのではなく、他人が喜ぶことができ、社会に役立てた事を喜びとし、自分が他人や社会に役立てた事自体を神に感謝できるようになるはずです。

 

 つまり、ゴミの捨て方と同様に、お金の稼ぎ方や使い方も外面的な行為ではなく、その内面性が問われるということです。

 注:第三章■二■(六)参照

             

 シルバーバーチも次のように語っています。

 「私たちの仕事は何世紀にもわたって無視されてきた霊的真理を人類に理解させることです。一部の人間だけに霊力の証を提供するだけでは満足できません。その豊かな霊的 “宝”、驚異的な霊力が一人でも多くの人間に行きわたることを望んでいます。

 無数の人間が普段の生活において真理と知識と叡智の恩恵に浴せるように、というのが私どもの願いなのです。 神からの霊的遺産として当然味わうべき生命の優美さ、豊かさをまったく知らない人間の数の多さに愕然とさせられます。

  餓死の一歩手前でようやく生きている人々、地上生活の最低限の必需品さえ恵まれずにいる人々を座視するわけにはまいりません。地球の富の分配の不公平さを見て公然とはしておれないのです。」
   ( 第二巻 第一章 「人のために役立つことを」)

 


(十三)心で感得する御神徳(その2)

 出口直は開祖となるまで、極めて困窮した生活を強いられ、紙屑や鉄屑を大切に集めて生計を立ててきました。また、全ての生命を育む土を非常に大切にされていたといいます。そして、開祖となった後も日常生活は極めて質素であったと伝えられています。これは、先に示した内面的な御神徳に満たされ、万物への深い畏敬の念を保ち続けていたからこそのはずです。

 

 例えば、禅では、一人の僧が雲門和尚(八六四―九四九)に「仏とは何ですか。」と問います。すると、和尚は「乾いた屎の塊だ。」と答えた、という公案があります(無門関・岩波文庫)。

 これについては理屈で解釈してはいけないものだとは思いますが、例えば、糞の塊も畑に撒けば、野菜となり人間の腹を満たし、仏と同様に人間の生命を保つ大切な糧になります。つまり、人間にとって糞の塊とは、最も陰徳深き救世主でもあるわけです。

 大本神諭にも「開いた口が塞がらぬ、牛糞ぐそが天下を取るぞよ。珍しい事が出来るぞよ。」 (明治三十二年旧七月一日)と綴られていますし、まさに「神様、仏様、牛糞様」なのです。

 さて、牛糞は牛が出すものなので、人間にとって牛も救世主です。また、牛糞で育つ五穀や野菜も、五穀や野菜が育つ田畑も人間の救世主です。それに、牛の食べる牧草も、牧草の生える牧場も救世主です。さらに、田畑や牧場に降り注ぐ日光や風雨も救世主ということになりますし、これら全ての働き一つ一つが穀物神の化身であり、救世主神の恵みであり、人間への救済行為であることになります。

 それならば、神仏のように尊ぶべき信仰の対象は、私たちの足元にゴロゴロ転がっており、吾々人間は日の大神と月の大神から授かった分魂が曇っているがために、それが掛け替えのない神の宝であることを感じ取れないだけなのかもしれません……。

 そして、私たち人間の多くが、日と月の光を閉ざして御魂を曇らせがために何が自分を救ってくれているのかを理解も感謝も感動もできなくなってしまったがために、自分の直日の御魂に省みることなく外に救世主を求めているだけなのかもしれません……。

 霊界物語では、高姫という悪役的な登場人物が悔悟した場面を次のように描写しています。

 「今まで執着心に捉われてゐた高姫の眼には、森羅万象一切悪に映じてゐたが、悔悟の花が心に開いてから見る天地間は、何もかも一切万事花ならざるはなく、恵ならざるはなく、風の音も音楽に聞こえ、虫の音(ね)も神の慈言のごとく響き、野辺に咲き乱れた花の色は一層麗しく、楽しく、かつ有難く、一切万事残らず自分のために現われてくれたかのごとくに、嬉しく楽しく感じられた。」
             (霊界物語 第二十九巻 第九章)

 では、牛や牛糞や穀物が救世主の働きの一部であり神の化身であるならば、人間とは何なのでしょうか。

 私たち人間は、心が物質主義に拘泥してしまえば「釈尊が 牛糞ならば 牛田畑 農夫凡夫も みな牛の糞」という認識になり、「一切を 糞と見るなら 神仏も 親も他人も 糞も同然」という価値観に陥る危険性があります。

 また、経済至上主義の人間であれば「一切を 銭と見るなら 宗教も 神も仏も 商売に見え」という価値観に染まってしまうでしょう。

 しかし、私たちが霊的な心情を通して周囲に存在するすべての物質の真の姿に深く沈潜する時には「一切を神と見るなら 牛糞も親も他人も皆神の宮」という認識になり、「穀物の 神現れて 牛糞に 天下取らすは 自然なりけり」 「牛糞を御土に返し 穀物を 神に捧ぐは 人の生業」という価値観への萌芽が芽生えてくるはずです。

 そして、それに気付いて土を大切にした出口直開祖も、牛を大切に育てて精乳館を営み、大本においても稲作に牛を用いた王仁三郎も、国常立尊の筆先や霊界物語を記すことで救世主として天下を取ったのです。そう考えると、牛と王仁三郎の関係は、禅宗の悟りの十段階を示した十牛図そのものであり、王仁三郎の歩みを学ぶことは、禅を学ぶことであるとも言えるのです。


 亀岡の大本理想社農園で牛に鋤を引かせる出口王仁三郎(昭和6年6月10日)

    理想社農園の乳牛乳牛と出口王仁三郎

   出口王仁三郎筆 「一筆達磨」

 そして、この禅宗に登場する達磨大師について霊界物語には「足真彦司は、これまた月照彦神の後をおひて月氏国に出生し、達磨となりて禅道を弘布したり。」 と口述されており、足真彦(=大足彦)とは、豊雲野尊(瑞の御魂)の荒魂であるとされています。

 つまり、瑞の身魂の四魂である、釈迦(和魂)、イエス(幸魂)、孔子(奇魂)と並ぶ四魂の中の一柱が達磨(荒魂)なのです。

そして、神諭には「撞(つき)の大神様は、地の世界では足定満様(だるまさま)の霊魂(みたま)の性来(しょうらい)であるから、此の足定満様(だるまさま)の誠の心に成りたなれば、世界の事は何事に依よらず、思うように、箱さしたように行きだすぞよ。」 (大正七年旧二月二十六日)ともあるのです。

 このように、今後一人でも多くの日本人が公共への意識を拡大しながらも(大乗・瑞)、足元の身近な行動の中に世を救う「型」を意識することができたとすれば(小乗・厳)、個人は全ての人を救う存在となりますし、また、全ての人によって個人が救われる社会(中庸・伊都能売)になってゆくに違いありません。

 そして、その時こそ、イエス・キリストが五つのパンと二匹の魚で五千人の人々の空腹を満たしたように、一つの地球が全ての人類の精神と肉体の空腹を満たすような、みろくの世が実現するのかもしれません。



  完 

制作者関連

制 作:咲杜憩緩

ブログ:地球の救い方
     ルドルフ・シュタイナー
        の人智学に学ぶ


著書:ルドルフ・シュタイナー
   と出口王仁三郎の符合