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                The agreement of Rudolf Steiner and Onisaburo Deguchi
                   ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符合
                                                                   咲杜憩緩

出口王仁三郎と大本


 ここでは、出口王仁三郎(1871−1948)の生涯を現実的(表面的)な視点で伝記的に綴っています。
 この内容は、出口王仁三郎と大本ををご存じない方々にも、過酷な時代を生き抜いた彼らの波乱の人生と、その精神の概要を理解していただければという趣旨で書いたものです。
 ただ、霊界物語の内容の一部や出口王仁三郎の言葉の抜粋は、第二章以降とも関連してくると思います。

        

はじめに

 日地月(にっちげつ)合わせて作る串団子
         星の胡麻(ごま)かけ喰らふ王仁口(わにぐち)


 日地月(にっちげつ)星の団子も食い飽きて 
         今や宇宙の天海も呑()


 天と地を丸めむとして大王仁(おおおに)
         全大宇宙に大活(だいかつ)入れるも

 大宇宙スメール山を笠にきて
         億兆無数の宇宙を踏まむ 

 千万年歴史の末に生まれたる
        吾現世(われうつしよ)に教(おしへ)を説くなり 

 今の世わが大道(おおみち)の無かりせば
         天地は鬼畜の住処(すみか)となるべし

 釈迦孔子エスキリストやマッホメット
          あななひ教の先走りせし

 

 この宇宙の果てから手足が出るような、時空を超越した壮大なスケールの歌を詠み、地球の主宰神・国常立尊にして『三千世界の大化物』と呼ばせた人物、それが出口王仁三郎です。
 
 彼の生きた時代は、国家神道を楯に天皇を現人神(あらひとがみ)として崇拝し、国家が国民の言論と表現の自由を奪い、対外的にも軍国主義に染まっていた大日本帝國が支配する社会であり、現在の日本とは全くと言って良いほど国民の価値観や意識が異なっていた時代だったといえます。

 そのため、彼ほどその言動が国家と社会から非難と誤解を受けた人物もいなかったと言っても過言ではありません。実際、一九二一年(大正十)に第一次大本事件、一九三五年(昭和十)に第二次大本事件として、国家から二度の壊滅的な弾圧を受けているのです。

 しかし、その一方で、この人物の言動と足跡を霊的に理解する人は、彼の活動こそが当時の大日本帝國の体制をひっくり返し、現代のような自由な社会を実現させたことを洞察するのです。そして、その王仁三郎の活動は、彼の他界後にも神道においては素盞鳴尊、仏教においては弥勒菩薩、キリスト教においては救世主(メシヤ)という存在である特徴が、各宗教に精通した人々によって無数に発見されてゆくのです。

 ただし、この出口王仁三郎という人物を理解するには、大本の開祖出口直と彼女に神懸りした艮の金神(国常立尊)の存在を知る必要があります。そこで、彼らの霊的活動の真意については第一章以降に譲るとして、ここでは出口王仁三郎の主だった活動と、出口直と大本教についてもなるべく簡単に解説してゆくことにします。

(1)  出口王仁三郎

○破天荒な神童

 一八七一年(明治四)旧歴の七月十二日、丹波国桑田郡穴太村の農民の長男として上田喜三郎(出口王仁三郎の幼名)は出生します。彼の祖父は枕頭(ちんとう)に立つ産土神から、度々、上田家の家屋敷を無くさなければよい芽が出ないからと告げられ、晩年は博打に明け暮れ、一家は貧しい生活を余儀なくされていたといいます。

写喜三郎の母 上田よね
1932年

 この祖父は、王仁三郎が一歳になる前に、「上田家は、古来七代目にはかならず偉人があらわれたものである。上田家は円山応挙はん(本名・上田主水(もんど)、江戸時代の天才絵師)の出た血筋で、喜三郎はその七代目。あれは、大物になる。上田家に縛りつけずに、大きくなったら養子にやれ。」と家族に言い残して臨終します。その遺言の通り、彼の大物振りは少年期からその兆しがみられ、大地に耳を付けて地底の水音を探っては、大人に井戸を掘る場所を教えることが度々あったといいます。

 王仁三郎自身も「私は七歳の時から神憑り状態で、突然に体が空中にとび上がったり、人の病気を治したり、人の知らぬことを知ったり、里人から『不思議な子じゃ、神つきじゃ』とか『神童じゃ』とかいわれたものでありました。私の郷里の老人連中にお聞きになれば事実がわかります。」と語っています。とは言うものの、その反面で、口を開けて空に浮かぶ雲を眺めるようなことも多く、阿呆なのか賢いのか見当がつかない子供だったともいわれています。

 一方、祖母からは言霊学を学んでおり、後に当時を回想して「祖母はまた彼()の有名なる言霊学者・中村孝道の家に生まれたので言霊学の造形は深かった。王仁(おに)は十歳位の時から折々祖母の口から言霊の妙用を説明されたので、何時とはなく言霊の研究に趣味を持つように成り、山野に住って傍(そば)に人の居らぬのを考えて、力一杯の声を出してアオウエイと高唱して居ったのである。」と語っています。

 さらに、少年時代について「王仁(おに)(自分)は子供の時から老人の友が多かった。いや老人を友としたのだ。つまり彼らから、経験からきた知識というものを吸収しようと思ったからである。……老人を友達に持つことは、王仁の処世法の一つであった。」とも語っています。

 彼は病気のために九歳になってから小学校に入学しますが、人並外れた記憶力と天才振りを発揮してその遅れを取り戻し、他の生徒たちを追い越してゆきます。十三歳の時に担任の教師の漢字の読み間違いを指摘したことで、教師の逆恨みで酷い仕打ちをされますが、王仁三郎は人糞を刺した竹の棒で教師の腰に突き刺してこれに応戦します。

 結局、これが原因で、王仁三郎は退学、教師も退職という処分が下りますが、校長に才能を認められていた王仁三郎は二日後に代用教員として採用され、図書館の本を片端から読破するなどして教師としての実力を発揮してゆきます。

穴太精乳館を経営していたころの上田喜三郎 1896年

 しかし年上の教師たちの嫌がらせで一年後には辞表を提出し、やがて牛を飼い精乳館を発足して牛乳を配達して生計を立てるようになります。

 反面、彼は安(あん)(かん)(ぼう)()(らく)のペンネームで狂歌(きょうか)や都々逸(どどいつ)の創作や落語や浄瑠璃に興じたり、多情多恨さを発揮して美醜を問わず異性を誘ったり、強い正義感と人望が災いして荒くれ者たちとの喧嘩で瀕死の重傷を負うなど、血気盛んにして破天荒な青春時代を送ります。

 

○高熊山の修行

 王仁三郎は二十七歳の時、後に口述した大経典・霊界物語の「発端」で、「自分が明治三十一年旧二月九日、神使に伴われ丹波穴太の霊山高熊山に、一週間の霊的修行を了()へてより天眼通、天耳通、自他神通、天言通、宿命通の大要を心得し、神明の教義をして今日ありに至らしめたるについては、千変万化の波乱があり、縦横無限の曲折が在る。」と口述している通り、高野山修行によって驚異的な霊能力を獲得します。

長沢雄楯
1858−1940

 彼を霊界に導いた神使は、富士浅間神社の祭神・木花咲(このはなさくやひめひめ)の使いで松岡芙蓉(まつおかふよう)仙人と名乗り、後に鎮魂帰神法の導師、長沢雄楯(ながさわかつたて)の審神(さにわ)でこの守護神が素盞鳴神(すさのおのかみ)の分霊(わけみたま)だと判明します。神使は王仁三郎を霊界に導くと、彼の魂は富士山、皆神山(長野県)にはじまり、天国、地獄、中有界を探求することになります。厳寒の高熊山の岩窟で一滴の水を口にすることも赦されぬまま続いたこの一週間の修行は、二時間の現界修行と一時間の霊界修行がくり返されますが、「一時間の霊界の修行の方が十倍苦しかった。」とその霊的修行の過酷さを表現しています。

 王仁三郎はこの時の霊力進歩について、「たとえば幼稚園の生徒が大学を卒業して博士の地位に瞬間に進んだような進歩であった。過去、現在、未来に透徹し、神界の秘奥を窺知(きち)しうるとともに、現界の出来事などは数百年数千年の後まで知悉し得られたのである。」と述べています。

 修行を終えた後も、実家で七日の間意識があるものの身動きができない床縛状態となり、同年の五月には第二回目、明治三十五年の初夏には第三回目の修行があり、その度に霊界の見聞は広く深くなってゆきます。

 一回目の修行を終えて間もない明治三十一年の四月、産土の小幡神社で幽斎中に彼は「一日も早く北西の方をさして行け。お前を待っている人がある。」という神示を受けると、穴太から綾部の方向に旅に出るのです……。

 

 


(二)出口直と艮金神


○出口直の生立ち

晩年の出口直開祖  

大本開祖出口(でぐち)(なお)は一八一三年(天保七)旧十二月十六日、丹波国福知山の貧しい大工職、桐村五郎三郎の長女として生まれます。直の生まれた天保七年といえば、全国的に大飢饉が起り民衆は飢えと貧困のどん底に苦しんでいた時代です。また、多くの農民は自己の体制保全と上層階級のことばかりを考える支配権力に反抗し、全国的に百姓一揆が起こっていました。

彼女の父は早くに無くなり、寺子屋で読み書きも習わぬまま口減らしのために十一歳で奉公に出されます。直は、こうした時代を生きぬき、後にこの頃を回想して「この世にまずない苦労をいたした」と語っています。

 一八五三年(嘉永六年)彼女は十七歳で綾部に住む叔母の出口ゆりの養女となりますが、半年程で福知山に帰ってしまいます。しかし、このことが、子供がなかった叔母のゆりに対する親戚からの仕打ちをいっそう強め、ゆりは四十九歳の若さで自殺してしまいます。それからというもの、自殺したゆりの霊が寝ている直の枕辺に現われるようになり、激しい怨みと無念の感情を直にぶつけるようになります。これを恐れた彼女は、一八五五年(安政二)に再び綾部に戻ることになります。

 その年の三月、十九歳の直は中筋村の大工職・四方豊助(出口政五郎と改名)と結婚しますが、政五郎は仕事の評判は良かったものの、八人の子をかかえていたにも関わらず金使いが荒く次第に経済的に行き詰まってゆきます。そして、彼女が五十一歳のとき、政五郎が他界してからは収入が全くなくなり、自ら屑買いなどをして当時としても最低賃金の仕事に励んで生計を立てざるを得なくなります。こうして直は、またしても貧窮のどん底で苦しむことになるのです。

 後に末娘の澄(すみ)()(大本二代教主・王仁三郎の妻)は、当時を振り返り「教祖さん(直)がこたつにもたれて泣き、『わしはなんという業人であろう、地獄の釜の焦げ起こしじゃなあ……』とひとりごとを言うていられたのを、子供心にかなしかりた。」と語っています。しかし、直は少女時代から信仰心が深く、貧困生活の中にあっても神を祀り、仏を供養して感謝することは決して欠かさなかったといいます。

 

○艮の金神の神懸り

 一八九二年(明治二十五)の旧正月元旦、直が五十七歳のとき、気高い神によって天界に導かれ、一条の光を額から吹き込まれる夢を見ます。これを期に、同じ夢を夜ごと見続けるようになり、ついには激しい神懸りとなって腹の底から玉のような熱い塊がこみ上げたかと思うと、「この方は艮(うしとら)の金神(こんじん)であるぞよ。これより直の肉体を御用に使うぞよ。」と大将のような声の雄叫びが発せられるのです。そして、この艮金神の発端の神示は、次のような凄みに満ちた言葉でした。

 「三ぜん世界一同(いちど)に開く梅の花)、艮(うしとら)の金神(こんじん)の世に成りたぞよ。梅で開(ひら)いて松で治(おさ)める、神国(しんこく)の世になりたぞよ。日本(にほん)は神道(しんどう)、神が構わな行けぬ国であるぞよ。がいこくはけものの世()、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本もけものの世になりて居()るぞよ。尻の毛まで抜かれて居()りても、未(いま)だ目が覚めん暗がりの世になりて居()るぞよ。是では、国は立ちては行かんから、神(かみ)が表に現われて三千世界の立替え立直しを致すぞよ。用意を成されよ。この世は全然(さっぱり)、新(さら)つの世に替えて了(しま)うぞよ。三千世界の大洗濯、大掃除をいたして、天下太平に世を治めて、万古末代続く神国(しんこく)の世に致すぞよ。……」

 つまり、神霊界・冥幽界・現実界を合わせた三千世界を、艮の金神をはじめとする諸神によって、強い者勝ちの悪の世から善と誠の神の世に立替え立直しすると宣言したわけです。

 そして、直はこの神に命じられ十三日間の絶食と七十五日間の寝ずの水行を行ないます。さらに、一八九三年(明治二十六)にはこうした言動が誤解を受け、放火の犯人と疑われて真犯人が捕まるまでの四十日間座敷牢に閉じ込められるなど、過酷な日々を送ります。

出口直開祖の筆先

 直は、その牢生活で大声で叫ぶのを止めるよう神に頼むと、「それでは筆を持てい」と命ぜられて言う通りにすると、文字の読み書きのできない直が紙に自動書記で文字を書くようになったのです。こうして平仮名と漢数字で書かれるようになった神示は「筆先」と呼ばれ、一九一八年(大正七)に彼女が昇天するまでの二十七年間に、綾部の黒谷の和紙二十枚つづりを一帖として約一万帖も書き残されたといわれています。この筆先は、後に、出口王仁三郎が信者に対して誤解が無いように読みやすく漢字をあて、「大本神論」として発表されることになります。

 その一方で、直に艮金神が降りると病気が平癒したり、日清戦争の予言が当たるなどしたため、「綾部の金神さん」として次第に霊験が世間に広まります。しかし、多くの人々はお蔭信仰と御利益主義であり、金光教の布教師も直に関心を寄せるものの、彼女の霊力・信望を布教に利用とするのみで、艮の金神の真意を理解する者は無く、直は焦りと落胆を繰り返すことになります。そうする間も、子供の生活のために屑拾いの仕事を続けなければならない彼女の生活は、一向に楽にならなかったといいます。

 しかし、明治二十五年正月一日の筆先には「此の事判()ける御魂(みたま)は、東から出て来るぞよ。此の御方(おんかた)が御出でになりたら、全然(さっぱり)日の出の守護となるから、世界中に神徳が光り輝く神世になるぞよ。」とも書かれていたことから、直とその娘等は、この東から来るとされる人物の登場を待ち望むことになります……。

 


(三)神代の因縁と三千年の神仕組

 
 こうして、神のお告げによって北西に向って旅をする王仁三郎と、東から来る人を待ちわびていた出口直は、一八九八年(明治三十一)の夏に娘の福島久を通して初めて出会うことになったのです。二人は、一八九九年(明治三十二)年に再会し、この時から王仁三郎は綾部で活動することになると同時に、艮の金神の準備した神の経綸(しくみ)が本格的に幕を上げることになるのです。翌年の一九〇〇年(明治三十三)には、筆先の神定によって王仁三郎(画像・右)は、直の娘・澄(画像・左)と結婚することになります。



 

○天地創造

 では、どうして艮の金神(国常立尊)は、この二人を導いて、神の経綸に導いたのでしょうか。この問いについては、筆先には「何事(も人民の目に見えず、耳にも聞こえぬ神の仕組(しぐみ)は、人民の利巧や学や考えでは譯(わか)りは致さんぞよ。」(大正五年旧十二月三日)とあるように、究極的には人間には到底理解できない神霊界の深く難解な経綸であると艮の金神は告げるのです。そして、筆先の通りに素直に言動することで身魂を水晶のように研かなければ、返って仕組の邪魔になるとさえ警告するのですから手に負えません。
 しかし、「此の事判()ける御魂は、東から出て来るぞよ。」という通り、王仁三郎によってこの艮の金神の太古の因縁が、徐々に明かされてゆくことになるのです。

 こうした経緯から、神の経綸の真意を理解することは不可能であるということを前提として、ここでは、出口王仁三郎の霊界物語・第一巻を参考に、太古の神々と人間の経緯について、その大要を極々簡単に辿ってみることにします。

 大国常立大神とその補佐役の坤の金神(豊雲野大神)は、太古の昔に天地創造の大神業に着手し、ついに太陽と月と地球の初期的な創造に至ると、各惑星の霊・現、二界に主宰神を配します。また、この頃から大神から生まれた竜神が霊的人間へと変化してゆくようになります。さらに、大神から生まれた十二の神々が地球の大地の修理固成を手伝い、その他の竜神にも天候などの自然界の働きを命じます。

そこうして、実に数十億年という歳月を要して、大神は地上に人間を産み「日の大神と月の大神の霊魂」「国常立尊の主宰として神の意志を実行する機関としての肉体」を付与します。そのため、『神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の大司宰なり』と云われる働きを得ることになります。

 ところが、それから十万年を越える年月と共に、人の智は乱れ、情は拗(ねじ)れ、意(こころ)は曲がり、私慾によって弱肉強食の世界となり、さらに、邪気が凝って悪竜、悪陀、悪狐、悪鬼が発生し、人に憑依するようになります。そこで、本来なら泥海にして全てをもとに戻すところを、天地を創造した大国常立大神は大慈悲によって、雷神、荒の神、地震の神を発動させ、警告を発します。

 しかし、今度は怨恨(うらみ)、嫉妬(しっと)、悲哀(かなしみ)、呪詛(のろい)の声が天地に満ちたので、ついに大地震と大洪水を起して、地上は滅びたかのような状態になります。さらに、大神の雄叫びによって、大地は陥没と隆起を起こして、次第に現在のような地上の陸地の形になってゆきます。

 特に、太平洋にあった大きな大陸(ムー大陸と思われる)は、その中心の最も地盤の鞏固(きょうこ)な部分を竜形の島(日本)として残します。この日本の竜の形状は、大国常立尊が地球を固める時の姿と同様の大きさで、そのため日本は地球の艮(東北)に位置する神聖な土地とされているのです。

 そして、この大神は諸々の神々や人間を生む必要性を感じます。そこで、稚姫岐美命(天照大御神の妹)は天稚彦を夫にし、五男三女の神人(かみがみ)を生みます。しかし、先のように地上が乱れた型は、天界に移写して乱れを生じさせることになるため、大神は稚姫岐美命を天に昇らせ、自身(国常立尊)は地の幽界を主宰し、須佐之男命は地の現界を主宰します。こうして、太陽、月(太陰)、地球は、次のように神々が主宰することとなったのです。

○太陽神(天の太陽) 
  = 伊邪那岐命(霊界の主宰神) + 天照大御神(現界の主宰神)

○月神 (天の太陰) 
  = 伊邪那岐命(霊界の主宰神) + 月夜見命 (現界の主宰神)

○地球神(地)   
  = 大国常立命(霊系の主宰神) + 須佐之男命(現界の主宰神)

稚姫岐美命登天之図
出口王仁三郎 画

 そして、稚姫岐美命は天稚彦と共に神命を奉じて天に上り、天界の神政を司ろうしたのですが、昇天する途上で邪神たちに誤られ、天地の経綸の機織(はたおり)を仕損じてしまいます。このため、地上に降りて国常立尊と共に地底に潜(ひそ)み、艱難辛苦するようなります。

 そして、この稚姫岐美命の過ちこそが、出口直の身魂の因縁であり、これが、出口直が地上で苦難の修行を繰り返す原因となったのだとされているのです。

 

○国祖の隠退

 こうして、再び地上が混乱し、邪悪な分子が発生したので、大国常立尊は坤の金神(豊雲野尊)を内助にその他の諸神と共に非常に厳格な規則正しい政(まつりごと)を行うと共に、天の律法を制定して、少しでも天則に違反する者に罰を与えることにします。そのため、地上はしばらくの間は立派に神政が治まります。

 しかし、次第に世が開けてくるにつれて、神界、幽界、現界ともに邪悪分子が殖えたため、素盞鳴尊の霊系である大八(おおや)洲彦(しまひこの)(みこと)が和光同塵の神策を施してこれに対処するのですが、最終的には邪神たちが国祖・国常立尊の神政に反対するようになります。

 そのため、国常立尊はやむを得ずして天に救援を請うと、天の三体の神【天照大御神・伊邪那岐尊(天の大神)・伊邪那岐尊(月の大神)】が地に降臨し、国常立尊の神政の手伝いをすることになります。

国常立尊(左)と豊雲野尊(左)
出口王仁三郎 筆 

 しかし、時節が悪神に有利に働き、天の大神様の説得も及ばず、悪神によって国常立尊は髪、手足、骨、筋を無惨に引き裂かれていまいます。国常立尊は宇宙の大元霊であるため、その体は元通りに戻るものの、結局、天の御三体の大神様は後日の再起を約束して国常立尊に隠退を命ずることを余儀なくされてしまいます。

 同時に、須佐之男命も悪神たちに自転倒島(おのころじま)(日本)の地を追われ、悪神を改心させるために世界へ漂流(さすらい)の旅をすることになります。そして、いつか地上を天下泰平に治めて天の御三体の大神様にお目にかけ、再び地上の主宰神となるよう活動することになったのです。そのため、地上においては須佐之男命が、救世主として活躍することとなったのです。

 こうして、国常立尊と須佐之男命をはじめとする元の善神たちと、これに対抗する悪神の長い戦いがはじまることになります。同時に、この戦に偉大な力を発揮する宝珠をめぐり、この宝珠の争奪戦が繰り広げられることになります。

 しかし、祖神不在の世の中は、必然的に悪が蔓延し世の中が乱れ、自滅することは明らかです。そのため、国常立尊は三個の珠の体のみを竜宮島と鬼門島(鬼は、上に点のない文字)に納め、三個の珠の精霊をシナイ山の山頂に隠します。国常立尊はこれを一厘の仕組として秘めながら長い間、地球と人類を陰から守護しつつ、時節の到来を耐え忍ぶことになります。

 やがて、ついに時節が到来し、三千世界の神仕組の幕が上がる事になります。そして、地上においてこの仕組の中心的な役割をするのが、他でもない出口王仁三郎と出口直の二人であり、また、二代の澄(直の娘・王仁三郎の妻)と大本の信徒であったわけです。その神仕組の中で、王仁三郎と直は、次のような働きを担うことになります。

〇出口直 =変性男子(へんじょうなんし)
(肉体が女・御魂が男)=天照大御神(女神)・国常立尊(厳の御魂)=経糸


〇王仁三郎 =変性女子(へんじょうにょし)
(肉体が男・御魂が女)=須佐之男命(男神)・豊雲野尊(瑞の御魂)=緯糸

 また、両者の働きを仏教に喩えるなら、直は小乗の道を、王仁三郎は大乗の道を歩んだということができます。キリスト教に喩えるなら、直は洗礼者ヨハネとしての働きであり、王仁三郎はキリストの働きとして表現されています。

 



(四)大本と雛型の経綸

○大本に現われる型

 出口直の筆先には「世界へ善と悪の鏡を出す大本であるぞよ。今迄は日本(にほん)の事だけで在りたが、からは三千世界の鏡に成る大本といたすぞよ」(明治三十二年旧九月十九日)とあるように、大本の教団内には日本や世界の状態が象徴的に鏡として現わされるという法則性があると神は断言するのです。

 また、それは「如毎日(いつもも)申す通り、艮の金神の大本に実現(あり)た事は、世界に実現(ある)ぞよ。皆(みな)現演()て見せてあるのじゃぞよ。」(明治三十三年旧八月二十日)とあるように、大本の団体内で「悪い鏡」を改善して、未然に問題が起らないようにできれば、日本と世界を大難を小難に、小難を無難にと縮小することができることも意味しているのです。そのため、艮の金神は何度もくり返し信者や国民、人類や霊的世界の守護神に対して改心を迫るのです。

 そこで、大本の信徒は出口直に懸る国常立尊の筆先に忠誠を誓い、これを厳守することを最善とし、これに逆らう人間を悪の型だとして徹底的に排除する傾向を生じさせます。ところが、実は大本におけるこの「排他的な信仰」こそが、当時の日本や世界における「排他的な軍国主義」の移写(鏡)になっていたのです。

 さらに、筆先は平仮名と漢数字のみで書かれており句読点もなかったため、大本の役員等でさえ様々な読み間違いや解釈の間違いを起こします。特にお筆先の内容が戦争の予言を的中させるなどしていたため、「人間の身魂の立替え立直し」を意味する筆先を、天変地異による最後の審判のような終末論として解釈し、これを大々的に断言する幹部まで現れます。

 これを洞察していた王仁三郎は、出口直の筆先を偏狭な間違った解釈をしている信者に対し、筆先の真の解釈を伝えようとします。しかし、既に筆先の取り違えた解釈を盲信してしまっている信徒には、王仁三郎の言動は直に対立する悪の型だと感じられ、逆に執拗に王仁三郎に改心を迫り、罵声を浴びせる状況となります。一九〇五年(明治三十八)には、王仁三郎の書きためた膨大な書物を焚書し、さらには彼を殺すことすら企む信者が出る有様だったのです。

 筆先には「上田喜三郎(うえだきさぶろう:王仁三郎の旧名)殿、よう大望(たいもう)な御用を仕()て下さりたぞよ。其方(そなた)たが綾部へ参りたのは、神の仕組が致して在る事、……此の人が、誠の世話を致して下さるのざぞよ。」明治三十二年旧六月)といったように、度々、王仁三郎が重要な人だと書かれているのですが、同時に王仁三郎に改心を即する筆先も度々書かれていたため、彼らはその後も十年余りに渡って王仁三郎に対して悪の型として改心を迫りつづけます。そして、これは単なる大本信徒の不理解というだけではなく、仕組をする神々によって、当時の日本や世界がこのように利己主義が蔓延した社会であることを大本内に象徴的に映し出した結果でもあったのです。

 

○大本の神業

 筆先には「出口、上田は三千世界を、世の立替えの御役であるぞよ。」(明治三十三年旧八月十日)とあるように、直と王仁三郎には様々な神々が神懸り、二人にしかできない神界の神業を行なう事になります。

出口王仁三郎筆 
神素戔嗚大神ご神像:左
王仁三郎筆天照大御神ご神像:右

 一九〇一年(明治三十四)、元伊勢の水と、出雲の火による神業によって、直には天照大御神、王仁三郎には須佐之男命が神懸り、両者ともに天井まで飛び上がるなど凄まじい論戦をするようになります。この二人の肉体を通じて続けられた二柱の神の戦いは、「火水(かみ)の戦い」と呼ばれています。筆先には「こんどの大本の男子(直)、女子(王仁三郎)の御用は二度目の天の岩戸を女子が閉めるおん役であるからつらい役、小松林(王仁三郎の守護神)がすさのおの尊のおん役ざ」とあるように、これは古事記の天の安川の誓約(うけひ)の再現でもあったともいわれています。

 二神の神懸りが止むと、直と王仁三郎は共にいつも通り仲良く会話する状態になるものの、こうした二神の戦いは、須佐之男命の身魂である王仁三郎を悪の型としていっそう非難を浴びることになってゆきます。

 一九一五年(大正四)旧七月十二日の王仁三郎の誕生日の筆先には、「変性女子(へんじょうにょし:王仁三郎のこと)の霊縁(いんねん)が判りて来ると、世界の物事速(はよ)うなりて、至仁至愛大神様(みろくさま)の御神徳が現れるから、此処(ここ)迄に信心して居()る人は結構ざが、是から俄(にわ)かに信心致す人は、何彼(なにか)の事が遅延(おく)れて来るぞよ。」という、みろく大神と王仁三郎との霊縁(いんねん)が示唆されるようになります。

 それから一年程した一九一六年(大正五)、三度の神島の神業によって、王仁三郎に神懸る坤の金神(豊雲野尊)を綾部に迎える神業が行なわれます。それは、天地創造の神業を共にした艮の金神(国常立尊)との夫婦の再会を意味しているともいえます。

 つまり、直と王仁三郎は、神業を通して次々と神々を迎え入れ、ある時は天地二神の対立によって天岩戸を閉める型を示し、ある時には艮(東北)と坤(南西)とに離別していた二神を再会させる、というように国常立尊が隠退した太古に仕組まれていた経綸の封印を次々と解いていったと考えることができます。

 そして、神島の神業の後の筆先には、以前から艮の金神(国常立尊)の神業を手伝うとされていた「みろく様」という天のご先祖様の身魂が、実は、素盞鳴尊の霊であり、小松林命の霊であり、出口王仁三郎の働きであったことが明かされるのです。

 「五六七神様(みろくさま)の霊(れい)は皆神島へ落ちて居()られて、未申(ひつじさる)の金神どの、素盞鳴尊(すさのおのみこと)と小松林命(こまつばやしのみこと)の霊が、五六七神(みろくのかみ)の御霊(おんれい)で、結構な御用がさして在りたぞよ。ミロク様が根本の天の御先祖さまであるぞよ。国常立尊は地の先祖であるぞよ。」
(大正五年旧九月九日)

 こうして、王仁三郎を天照大御神に対立する須佐之男命という悪の役だと考え、王仁三郎とは別にみろく様を待ちわびていた信者に対して、直は「先生(王仁三郎)は、みろくの大神さまじゃと神様がおっしゃる。何度おききしても同じことじゃ。わたしは今の今までどえらい思い違いをしていたのやで。」と語ったといわれ、教団内ではこの真実を全面的に受入れるようになってゆきます。大本では、こうして初めて出口直が、真実を認めたことを「見真実」あるいは「顕真実」と呼んでいます。

 ただし、これについては「見真実」と「顕真実」という二通りの解釈がなされています。一つは、出口直は王仁三郎が弥勒菩薩であることを、大正五年九月まで本当に知らなかったという「見真実」という説。もう一つは、出口直は既にその秘密を知っていながら、仕組のために顕かにすることが出来なかったのだという「顕真実」の説です。
 その一つの原因は、王仁三郎の口述した霊界物語の解釈の仕方の違いにもあるようです。詳細は省きますが、例えば、第七巻・「総説」を読むと直は真実を知らなかったと書かれてあるように感じます。また、第十一巻・「言霊反」、第五十巻・第二章「照魔燈」などを読む限りは、この神島神業以前から直が真実を知っていたと解釈できるのです。

 また、顕真実の二年前の大本神諭には、既に「出口(でぐち:直のこと)は変性女子(王仁三郎のこと)に抱き込まれて居ると申すで在ろうが、其の様な事の判らぬ艮の金神出口直で在りたら、三千年余りての永らくのご苦労が水の泡に成るから、滅多に見違いはいたさんぞよ。人民の智慧や学で判るような、浅い仕組はいたして無いぞよ。」(大正三年旧七月十一日)と綴られており、一年前の神諭にも「変性女子の霊縁(いんねん)が判りて来ると、世界の物事速うなりて、至仁至愛大神様(みろくさま)の御神徳が現れるから……」(大正四年旧七月十二日)とあることから、出口直は既に真実を知っていたと考えた方が自然だとも感じられます。

 実際、直は王仁三郎と出会ってから十五年以上を経て神島神業に至っており、その間の大本神諭を読む限り、王仁三郎が非常に重要な存在であることは容易に想像できます。そのため、直は経綸の成就のために信者に真実を顕す(話す)ことができずに極めて辛い立場にいた(未顕真実)、と考える方が自然なのかもしれません。

 さて、出口直が真実を知っていたのか否かはともかくとして、こうして王仁三郎はみろく大神として救世の活動を本格的に開始することになります。その後の神諭には
 「天は至仁至愛真神(みろくさま)の神の王なり、地の世界は根本の大国常立尊(おおくにとこたちのみこと)の守護で、日本の神国の、万古末代動かぬ神の王で治めるぞよ。」
                  (大正五年旧十一月八日)

 「至仁至愛大神様(みろくさま)が、天の初発(はじまり)の御先祖さまであるぞよ。大国常立尊は、地の先祖であるぞよ。『天は父であるぞよ、霊であるぞよ、火であるぞよ。地は水であるぞよ、母であるぞよ、体であるぞよ』元(もと)の純粋(きっすい)の一厘(いちりん)の水晶の大神様の、今度の二度目の世の立替えの御手伝いを為さる大望(たいもう)な御用の神様であるぞよ。」

                   (大正六年旧二月九日)
として、みろく大神の働きを告げています。


 一方、直は「見真実」からおよそ二年後に昇天し、霊的次元から神業に参加することになります。そして、ほぼ同時に第一次世界大戦の幕が閉じてゆくのです。

 

○出口直の顕真実

 さて、直が真実を知っていたか知らなかったかに関わらず、神島開きまで王仁三郎が弥勒菩薩であることを信者に語れなかったのには、いくつかの理由があるはずです。なぜなら、少なくとも艮の金神・国常立尊は、王仁三郎が弥勒菩薩として活動する存在であることを最初から知っていたはずだからです。つまり、直の口から真実を語らせなかったのは、艮の金神なのです。

 実際、神諭には「人民からは見当が取れん経綸(しぐみ)が致してあるから、此の綾部の大本の仕組(しぐみ)は、前(さき)に言われんのであるから、斯の経綸(しぐみ)を解る人民なれば豪(えら)いなれど、是が皆解りたら物事成就いたさんから、出来上(できあ)がるまでは肝心の経綸(しぐみ)は申さんぞよ。」(明治三十六年旧六月四日)と綴られているのです。

 その理由を推測すると、一つは、直が早くからそれを信者に伝えたとしたら、今度は緯糸役の王仁三郎の言葉だけを重視し、経糸役の直の筆先を軽んじるようになり、艮の金神・国常立尊の教えを非難するようになる危険性があったということです。そうなると、王仁三郎のみを重視する信者は、「筆先を七分にして霊学を三分で開いてくだされよ。」という筆先も省みなくなり、大本を離れた役員のように鎮魂帰神などの霊術に興じるなど好き勝手な行動をする可能性があったはずなのです。

 もう一つの理由は、早くから信者が真実を知ってしまえば、野望を秘めた「悪の雛型」の役員は改心する前に大本を離れてしまい、立替えができなかった可能性があるのです。また、残った信者も王仁三郎に敵対しなくなるため、天照大御神と須佐之男命の火水の戦いの後、王仁三郎が須佐之男命として千座(ちくら)の置戸(おきど)を負う経綸や、天の岩戸閉めの経綸が成就しなかったはずなのです。

 そうなれば、直の御魂の因縁も晴れることもなく、仕組が成就できなかったはずです。すると、神島開きもできず、国常立尊は艮に豊雲野尊は坤に押し込められたまま、世界を救うことができなくなってしまうわけです。そのため、出口直は仮に国常立尊から全てを知らされていたとしても、王仁三郎を排斥する悪を改心させる経綸の成就のためには、真実を誰にも言えない非常に辛く苦しい立場にいたはずなのです。また、出口直が何も真実を知らなかったとすれば、それは国常立尊の仕組みであったのです。


 一方、王仁三郎は、直が昇天するまでの間は、「開祖が『顕真実』以前に神仕組を明確に理解していることを明かせない辛い境遇にあったこと」を秘めておく必要があったはずなのです。なぜなら、王仁三郎が出口直の存命中に「実は出口直開祖は、真実を知っていたのだ」と明かせば、今度は直に対して信者が「どうして、真実を隠していたのだ。」「出口直は嘘をついていたのか。」と、腹を立てる可能性があったはずなのです。

 そう考えると、神島開きまで出口直もしくは国常立尊が真実を秘めたからこそ、信者の心は経(たて)に緯(よこ)に揺れ動きながら、善者は大本に残され、悪者は大本から離れるという立替えの経綸が成就したはずなのです。この意味で、出口直が真実を知っていたかどうかよりも、艮の金神が信者に真実を明かさなかったことの方が重要なのです。

 実際、大本神諭には「腹底まで見貫かんと、実地の筆先は見せんが可()いぞよ。是(これ)は出口と上田の心中(はら)で、中々実地はまだまだ見せられんぞよ。先楽しみじゃそよ。遠国から甘い言を申して来ても、上田は今の内は、実地の事を申すで無いぞよ。真正(まこと)の経綸(しぐみ)は、未だまだ人には言われんぞよ。」(明治三十三年旧八月十一日)とも記されています。

 では、直の顕真実の後は、国常立尊の筆先はまったく無視してよいのかというと、そうではないのです。なぜなら、この神仕組には「筆先が出口直開祖という、文字を満足に読むことも書くこともできなかった人物によって書かれている。」という事実が必要だからです。そうでなければ、出口直は、はじめから一芝居打っているのではないかという疑いが生じ、神の実在と其れに対する強い信仰心が揺らぐはずだからです。そうなれば、その後のミロク様としての王仁三郎を疑う信者が出るでしょうし、二度に及ぶ過酷な弾圧に耐える原動力を失っていったはずなのです。その意味で、筆先は「無学の出口直が書いた」ということが、王仁三郎自身にとっても極めて重要な意味があったはずなのです。

 そして、筆先が必要であるもう一つ理由は、「王仁三郎が弥勒菩薩として仕組を成就した時に訪れるミロクの世とは、他でもない国祖・国常立尊が頑なに守りつづけてきた嘘偽りのない誠の世の実現であり、神政によって統治された社会」を意味するからです。

 実際、筆先とは「みろくの世」の青写真であり預言書でもあるのです。そう考えると、国常立尊が発した筆先を誰よりも深く知悉し、誰よりも筆先の示すミロクの世の実現に忠実に活動してきたのは王仁三郎なのです。そのため、出口直の筆先は、王仁三郎によって鮮明になり、真価を発揮できたのです。

 実際、霊界物語の歌には「……この物語わからねば 大本神諭の真解は いつになつてもつきはせぬ……」(第二十七巻 総説歌)と詠み込まれています。その逆に、直と筆先を理解するほどに、王仁三郎の真の価値も深く理解できるはずなのです。つまり、両者の関係は不即不離だということです。

 しかし、当時の大本内においては、一部の信徒の間で「直と王仁三郎」、「天照大御神と素盞鳴尊」、「国常立尊と豊雲野尊」を天秤に乗せ、どちらがより重要かという論議が巻き起こります。ところが、天と地、火と水、の神々の慈悲は全人類に向って常に注がれ、その恵みがなければ一時も生きることができない人間の立場(ぶんざい)を考えれば、これは、明らかな慢心であったことが判ります。人間は神々の陰と陽という、相反する性質の調和によってこそ、発展的に生きることができるはずなのです。


 王仁三郎自身もこの顕真実について、霊界物語・第七巻・総説にも「経緯(たてよこ)不二(ふに)の真相を知らむと思へば、教祖の直筆をお読みになったら判然するでしょう。」と語っているように、筆先には王仁三郎の解釈が必要であることを強調しています。しかし、霊界物語の口述が開始されていない当時、王仁三郎への風当たりは強くなる一方だったのです。



(五)霊界物語の口述と二度の弾圧


○第一次大本事件

 直が昇天して三年の後、王仁三郎は亀岡の明智光秀旧城趾の買収や五六七殿の建設、大正日日新聞を買収し全国に立替え立直しの警鐘を打ち鳴らすなど、活発な活動をするようになります。

しかし、それが国家権力の干渉の標的となり、一九二一年(大正十)二月十二日に不敬罪と新聞紙法違反の容疑で王仁三郎は拘束されてしまいます。彼は百二十六日後に仮釈放されますが不敬罪の判決に対して控訴し、裁判に縺れ込みます。そして、間もなくして、本宮山の神殿の取り壊しが断行されることになるのです。

この第一次大本事件と呼ばれる状況の渦中にあって、王仁三郎は十月八日に神から霊界物語の口述を指示され、十月十七日には枕元に出口直の霊姿が現われて物語の口述を即されます。

 一方、第一次大本事件は、一九二七年(昭和二)五月十七日、王仁三郎五十五歳までに、不敬罪で懲役五年の判決が下されていましたが、大正天皇の崩御による大赦令により免訴となります。

 

 

○霊界物語の口述

 こうして、第一次大本事件の真只中にあって、王仁三郎は「霊界物語」の口述を開始します。彼は全八十一巻(全八十三冊)もの内容を何も見ずに平均して三日に一冊という早さで口述し、その驚異的な能力を示します。

霊界物語 第二十八巻 序歌の冒頭部分 (出口王仁三郎による直筆原稿)

 その内容は、王仁三郎が高熊山で修行の際に体験した霊界体験の描写に始まり、神素盞鳴尊を中心とした善の神々と、悪神との戦いの物語を主軸として、霊的な地球の実相、天地開闢、言霊学、種々の祝詞、和歌などが散りばめられています。さらに、その物語の解説や、登場人物の歌や言葉の中の所々に宗教・哲学・教育・文化・芸術・政治・経済などの思想が示唆されたものとなっています。

 王仁三郎は、第五十四巻の序文では、「本物語の目的は霊界現界の消息を明らかにし、諸人が死後の覚悟を定め、永久に天国浄土の悦楽(えつらく)に入()るべく、仁慈の神の御賜(おんたまもの)として人間一般に与えられたものである。現界に用ゐては大(だい)は治国平(ちこくへい)天下(てんか)の道より、小(せう)は吾人が修身(しゅうしん)斉家(せいか)の基本となるべき神書である。」と述べています。ここで、「一般人間に与えられたもの」ということは、大本内だけではなく、聖書や仏教経典と同じように、世間に普及されることを目指して口述されたものと考えてよいと思います。

 同時に、大本神諭を理解しようとするとき、この物語の全編が大本神諭の詳細な解説書であり、参考書にもなっていることに改めて気付かされるのです。例えば、「本宮坪の内出口竹造、お直の屋敷には、金の茶釜と黄金の玉が埋けてあるぞよ。是を掘り出して三千世界の宝といたすぞよ。黄金の玉が光(だしたら、世界中が日の出の守となりて、神の神力は何程でも出るぞよ。」(明治二十七年旧正月三日)という神諭などは、霊界物語(第六巻・第四十一章)を読んだ時に初めてその霊的経緯が理解できてくるのです。

霊界物語 第十巻 総説歌 
(出口仁三郎による直筆原稿)

 また、その解釈の仕方は三十六通りあるとされ、これは、人間の御魂の研き具合や霊層などによって解釈や重視する部分が異なることを意味しているとも考えられます。また、そうでなければ、観世音菩薩が三十三相に化身して人々を導くように、この物語を読む全ての人を救済することができないという解釈もできるかもしれません。

 そのため、霊界物語の感想や解釈は読む人によって様々です。勿論、本書では、シュタイナーの人智学的見解から霊界物語を考察していますが、これも多様な解釈の一つと捉える必要があります。したがって、筆者がその全貌を説明することは到底できないことなので、ここでは王仁三郎がこの霊界物語にどのような気持ちを込めていたかを知るために、霊界物語の余白に詠んだ歌を抜粋してご紹介します。

 

【真実について】

 日と月を重ねて見れば此書(ふみ)

 まことの心明らかとなる 

  天地(あめつち)の神の御旨(みむね)の明らかに

 悟るは是の神書(みふみ)なりけり

  伝奇物語(ロマン)なる書(ふみ)にはあらず言霊の

 生ける真言(まこと)の証(あか)しなりけり 

如意宝珠(にょいほうじゅ)黄金の玉もこの神書(ふみ)

 ひそみてありぬ探(さぐ)りて受けよ

【内容について】

天地(あめつち)の未だ固まらぬ天(あま)の世の 

状態(さま)をつぶさに証(あか)すこの物語(ふみ) 

天国や中有界や地獄道 

詳細(つぶさ)に覚る神の書(ふみ)かな 

史詩(シャンソン)の形式(かたち)をかりて天(あま)の世の

 ありしことごと説き示すなり 

霊界のさま委細(まつぶさ)に説き明かす

 わが物語諾(うべ)なひてよめ 

国々に天地開闢説(てんちかいびゃくせつ)はあれど

 言霊学(ことたまがく)に依()りたるはなし 

歴史(れきし)にも無き神界の有様(ありさま)

 つぶさに語るこれの神書(かみふみ) 

【解釈について】

   聞く人の心によりて善くも見え 

悪しくも見ゆるこれの神教(みおしえ) 

この書(ふみ)をおとぎ話と笑ふ人

 瑞(みづ)の御魂(みたま)の足もともみず

【救済について】 

夢ならばいつかは醒()めよ夢の世の 

夢物語聞いて目さませ 

天地(あまつち)のあらむ限りは人の世の 

光とならむこの物語 

(みち)のため書き記したる経典(おしえぶみ)

 千代万代(ちよろずよ)に栄えとぞ思ふ

【拝読について】 

物語聞く度ごとにわが胸は

 蓮(はちす)の薫(かほ)る心地なりけり  

村胆(むらきも)の心の塵(ちり)を払はむと 

暇あるごとに物語読む 

細々(こまごま)と真理(しんり)を説きし神の書(ふみ)

 拝読(はいどく)するたび開く神国(かみくに) 

物語読む度ごとに根の国も 

高天原(たかあまはら)の心地するなり 

わが胸の曇りを払う物語

 読む人神の御使(みつか)いと思ふ

【口述について】 

吾は今宇宙の外に身をおきて

 天界の事象を語りつゞくる 

いたつきの身を横たへて述べおきし

 この物語は月の血の露(つゆ) 

(いにしえ)への今に変らぬ神の世の

 活()き物語するぞうれしき 

一巻の参考書もなく口述(のべ)て行く

 天祥地瑞(てんしょうちずゐ)の物語かも 

頼るべき何物もなき霊界の

 この物語口述(のる)るは難(かた)しも 

()の神(かみ)の神言(みこと)(かしこ)み我は今

 この物語謹(つつし)みて編()む 


霊界物語を後述する出口王仁三郎

【弥勒について】 

この神書(しんしょ)もし無かりせば地の上に

 弥勒(みろく)の神世は開けざらまし 

天火水地(てんかすいち)結ぶ紫色(ししょく)の宝玉は

 弥勒神示(みろくしんじ)の霊界物語なり 

(いにしえ)の聖(ひじり)も未(いま)だ説かざりし

 弥勒胎蔵(みろくたいぞう)の吾は道説く

     
「霊界物語」YouTubeより(八幡書店)




○蒙古遠征とパインタラの法難

 この霊界物語の口述期間にも、王仁三郎の眼は日本のみにとどまらず海外に向けられます。一九二二年(大正十一)にはバハイ教と交流を始め、同十二年にはエスペラントを採用、また中国の道院紅卍字会と提携、同十四年には人類愛善会を設立するなど、国際的活動の場を広げます。

 そして、霊界物語の口述が六十五巻まで進むと、翌年一九二四年二月に王仁三郎は仮釈放の身でありながら、選りすぐりの信者と共に蒙古(もうこ)(モンゴル)の地へと神業に向います。馬賊の中心人物である盧占魁(ろせんかい)将軍が王仁三郎と会うと、観相学的に「三十三相具備の菩薩」として手を組み、独立を夢見る満州浪人や馬賊らがぞくぞくと王仁三郎の傘下に加わります。彼は、現地で病気治しや雨を降らせるなどの奇蹟を次々とおこすと、やがて成吉斯汗(ジンギスカン)の生れ変りなどと噂が広まります。

 しかし、これが現地での戦争に兵力を必要としていた張作霖(ちょうさくりん)の疑惑を招くこととなり、軍によってパインタラに追い込まれた盧占魁将軍をはじめとする百三十七人の将兵が銃殺されます。後日、王仁三郎ら日本人六名も捕らえられ、銃殺が宣告されます。ところが、射殺の瞬間に射手が機関銃の反動で後方に倒れ、一時執行を中断します。翌朝、現地の日本人がこれに気付き、領事館を通して王仁三郎一行の引渡しを要求します。この交渉は難航するものの六月三十日には護送が開始され、七月十三日に日本に帰国した王仁三郎は、そのまま未決監に送られ十一月まで入監することを余儀なくされたのです。

 

○第二次大本事件

 大正天皇の崩御による大赦令で第一次大本事件が解決した翌年の一九二八年(昭和三)三月三日、王仁三郎は「みろく大祭」を執行します。この時、王仁三郎の年齢は満五十六歳七ヶ月となります。この頃から、大本の布教活動は一段と活発になってゆき、新聞の発行も軌道にのり布教活動は世界に及ぶようになります。

一九三四年(昭和九)七月、王仁三郎は国家革新勢力との連携のもと、国家革新を目指す国民的精神運動団体として「昭和神聖会」を発足させます。これが大衆の共感を呼び、創立一年後には地方本部二十五、支部四百十四 、開催された講演会だけでも二八一九回、入場者計百万人に及び、賛同者は八百万人に達します。しかし、その膨大な民衆のエネルギーが次第に先鋭化し、倒閣・現状打破へと傾いてゆくにつれ、当然のように政府の目にとまることとなります。
 こうして、一九三五年(昭和十)十二月八日、大本に第二次弾圧が断行されます。ただし、当時六十四歳になっていた王仁三郎は、事前にこの事件を察するような言動を取っており、そこに神の経綸を背負う者としての逃れられない使命を感じていたことは確かであったようです。

 この二度目の弾圧は、武装警官隊を京都の綾部と亀岡に五百名、王仁三郎が滞在していた松江の島根別院に二百八十名を送り込む大規模なものとなります。翌年の一九三六年三月三十日、王仁三郎以下教団幹部六十一名が、治安維持法と不敬罪で起訴され、役員信徒の被検挙者は三千人におよびます。さらに、本部、昭和神聖会などの大本関連八団体に結社禁止命令を出し、裁判を前にして全施設をダイナマイトを使用するなどして徹底的に破壊したのです。この間、拘留された信徒等の中には、日夜を問わず自白を強要する激しい拷問を受ける者がおり、発狂者、死者が多数出るに至ります。

 裁判は、一九四二年まで続き、不敬罪・出版法違反・新聞紙法違反などで有罪の判決が出ますが、これを上告します。こうして、八月七日、王仁三郎(七十一歳)らは、六年八ヶ月(二四三五日)ぶりに保釈されます。三年後の一九四五年(昭和二十)九月八日の判決では、不敬罪のみ有罪となるものの、すでに日本は第二次大戦に敗戦し、間もなく大赦令の公布により不敬罪が解消されます。こうして、大本内に多大な破壊と死者を含む複数の犠牲者を出した第二次大本事件は、大きな爪痕を残して幕を閉じていったのです。



 (六)お筆先の預言と出口王仁三郎の預言


○大本の足跡と筆先の型

 出口直と出口王仁三郎の人生の流れの中で、筆先に示された艮の金神、国祖・国常立尊の預言の通り、大本と世界の型はハッキリと示されてゆくことになります。ここでは、最初に大本で起ったことが、その六年後に日本や世界に現われていることを箇条書にして示すことにいたします。

昭和 九年七月二十二日、大本は昭和神聖会を軍人会館で発会。

 昭和十五年七月二十二日、第二次近衛内閣組閣。十月に軍人会館で大政翼賛会の発会式を開催。

昭和 十年十二月八日、未明に第二次大本事件が勃発。松江に滞泊中の王仁三郎を検挙。

 昭和十六年十二月八日、未明に太平洋戦争が勃発。ハワイに碇泊中の米太平洋艦隊に奇襲攻撃。

昭和十一年四月十八日、綾部・亀岡の大本聖地の所有権が両町に移り、関連施設は破壊。

 昭和十七年四月十八日、東京・名古屋・神戸などを米軍機が初の空襲をし、主要建物が焼失。

昭和二十年九月八日、大審院の判決で第二次大本事件が終結。

 昭和二十六年九月八日、サンフランシスコで講和条約が結ばれ、太平洋戦争が終結。

 さらに、次のような型も現われています。

○第二次大本事件による多額の損害賠償の請求権を、王仁三郎が自ら放棄。

 敗戦後、連合軍が日本に対する賠償権を放棄。

○寸断されていた綾部・亀岡の両聖地が、大本に無条件で返還される。

 占領軍に日本の領土が分割占領される危機を乗り越え、無併合に終わる。

 こうした雛型の経綸は、「国常立尊が日本や世界の事を全て知悉し、それを誘導する神力を保持していることの証明」「現実界の事は、神霊界の移写である証拠」「複雑に感じる世界情勢を、雛型である大本を考察することで解り易く示すため」「大本の雛型によって、何が善の型で、何が悪の型かを信徒に明確に理解させるため」といった複数の意味を私たちに提示していると言えます。

 その他にも、筆先には「東京は元の薄)野に成るぞよ。永久(ながく)は続かんぞよ。東(あずま)の国は一晴(ひとは)れの後は暗がり。これに気の付く人民はないぞよ。神は急()けるぞよ。此の世の鬼を往生さして、地震雷火の雨降らして……」(明治二十五年旧正月)という、一九二三年の関東大震災や、一九四五年の東京大空襲を暗示するような預言をしています。

 さらに、「からと日本の戦いがあるぞよ。此のいくさは勝ち軍(いくさ)、神が蔭(かげ)から仕組(しぐみ)が致してあるぞよ。神が表に現われて、日本へ手柄致さすぞよ。露国から始まりて、モウ一戦(ひといくさ)あるぞよ。あとは世界の大(おお)たたかいで、是から段々判りて来るぞよ。」(明治二十五年旧正月)として、日清(一八九四年・明治二十七年)日露戦争(一九〇四年・明治三十七年)と第一次世界大戦(一九一四年・大正三年)の預言も明確に発していたのです。

 

○出口王仁三郎の預言

王仁三郎はこと在るごとに大本信者に、戦況や重大な事件などについて預言しています。特に、信者の命に関わるような空爆や災害については、非常に克明に指摘しています。他にも非常に多くの預言や数字に示された型があるのですが、ここでは、その一部を箇条書にしておこうと思います。

一九二一年十一月四日「あっ、原敬がやられた!」「東京駅で暴漢に襲われよった。」と発言。

一九二一年十一月四日、この2時間後に、原敬が暴漢に襲われて暗殺される。

一九二三年 春 、今年の秋、はじめが危ないとして、東京に大地震があることを預言。

これが霊界物語にエトナの爆発(エトナは江戸の地、東京)として書いたと説明する。

一九二三年九月一日、関東大震災が起る。

一九三一年九月八日「十日後に大きな事件が起き、世界的に発展する。」と発言。

 一九三一年九月十八日、満州事変が勃発し、第二次世界大戦へと発展する。

一九四一年八月七日、保釈直後「わしが出た今日から日本は負け初めじゃ」と発言。

一九四一年八月七日、米兵一団がソロモン諸島に上陸し、翌日から反撃を開始。

一九四四年 「広島は戦争終末期に最大の被害を受け、火の海と化す。……その後、水で洗われるんや」と預言。

 一九四五年八月六日、広島に原爆が投下され、九月に二度の大水害に見まわれる。

 また、王仁三郎は「みろく」を「五六七(みろく)」とも書いていたのですが、次のような五六七の型を生きた印を残しています。

一九二八年三月三日、王仁三郎、満五十六歳七ヶ月でミロク大祭を執行、弥勒下生を宣言。

 一九四八年一月十九日、王仁三郎、満七十六歳五ヶ月で昇天。

この他にも王仁三郎は和歌や霊界物語の中に多くの預言を示唆しているのですが、細かい考察を必用とするような預言については、王仁三郎や直について書かれた他の文献をご参照下さい。

 

○晩年の王仁三郎

作陶をする王仁三郎

 第二次大本事件の解決が近づく一九四四年(昭和十九)の暮から王仁三郎は作陶に情熱を傾け、一九四六年(昭和二十一)一月までの一年余の間に約三千個の楽焼を制作しています。それらの作品は、伝統的な茶碗の枯れた世界とは明らかに異質な、歓喜に満ち溢れた奔放な色調に輝くもので、のちに「ようわん」と名付けられ、芸術作品として世界的に高い評価を受けることとなります。

晩年の出口王仁三郎

 また、第二次大本事件が解決した一九四六年二月七日には、出口王仁三郎はこれまでの『大本』の名を『愛善宛』として新たに発足します。この愛善という言葉を王仁三郎は度々使用していますが、霊界物語の特別篇の入蒙余禄には、次のように述べられています。

「愛といふことは基督も、マホメットも説いてゐる。仏教は慈悲心を説き、あるいは十善といふ事をといてゐる。各神道、各仏教はみな愛と善との他に出てゐないのであります。
 しかし、今までの宗教は国によって皆垣を造ってゐる。出雲八重垣を造ってゐる。すなはち猶太(ユダヤ)は猶太の神、支那(シナ)は支那の神といふ風に自分一国の神様にしてゐる。
 この垣を、この出雲八重垣を破るのには、人類愛善といふ大風呂敷を頭から被せて行くのが一番よいのであります。ラテン語で言ふと『人類愛善』と言う言葉は『大本』といふことになる。それで『人類愛善』も『大本』も精神は少しも違わない。
 併(しかし)しながら『大本』は至粋至純なる日本の神様、日本の国体を闡明(せんめい)する所のものであり、『人類愛善』は各思想団体および各宗教一切の融合統一する所のもので、同じ名前であっても異なった働きをしてゐるのであります。」

 こうした願いを込めて『愛善苑』を発足した夏、彼は建築現場で陣頭指揮にあたっていた際に脳出血のため半身不随となります。しかし、性来の楽天的な性格は相変わらずで、いつも病室は笑いと明るい雰囲気にみちていたといいます。そして、一九四八年一月十九日に、水が引くように静かに昇天します。



     

「史上最強の大霊能者」YouTubeより(田中健一氏)
 故 丹波哲郎氏が語る「大本」の歴史と基本教理。 制作:「天声社」






制作者関連

制 作:咲杜憩緩

ブログ:地球の救い方
     ルドルフ・シュタイナー
        の人智学に学ぶ


著書:ルドルフ・シュタイナー
   と出口王仁三郎の符合