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                The agreement of Rudolf Steiner and Onisaburo Deguchi
                   ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符合
                                                                   咲杜憩緩

ルドルフ・シュタイナーと人智学協会  


   

 ここでは、ルドルフ・シュタイナー(1861−1925)の生涯を現実的(表面的)な視点で伝記的に綴っています。
 この序章の内容は、ルドルフ・シュタイナーをご存じない方々にも、過酷な時代を生き抜いた彼らの波乱の人生と、その精神の概要を理解していただければという趣旨で書いたものです。
 ただ、シュタイナーの言葉の抜粋は、第三章とも関連してくると思います。

       

  

はじめに


「体が魂に浸透されているのと同じく、地球はその中に住む霊の外的形態なのです。このように、地球を体と魂をもった人間のように見なしたとき、ゲーテが『過ぎ去るものはすべて比喩にすぎない』といったときに意味した概念が把握(はあく)できます。」
(薔薇十字会の神智学)

 このように語るルドルフ・シュタイナーという人物を理解するために、何よりも先に知っておかなければならないことは、彼には非常に繊細にして明晰な霊的認識能力があったということでしょう。しかし、シュタイナーが他の霊能者や神秘家と最も異なっていたのは、物質界と霊界に境界線を設けて霊界のみについて語るのではなく、物質界の鉱物、植物、動物、人間、天体といった存在に対して、いかに神霊世界の存在が絶え間なく活発に作用を及ぼし続けているかを、現実的な現象と照合して説明したところにあります。

そのため、シュタイナーの霊的考察の対象は、哲学・宗教・心理学・神学・芸術・教育・政治・経済・医学・農業といったあらゆる分野に渡り、それらの要素が包括的に矛盾することなく説かれているのです。また、その主要論文は三六巻を数え、講演や演説は五九六五回に達し、私家版の形で三二四冊もの書物となっています。さらに、会議、討論会、講演後の個人相談は数え切れないと云われ、彼から泉のように湧き出る叡智は、その源泉が無限の霊的世界から来ていることを証明しているといえます。

 彼はこの全てを包括した霊学を「人智学」と名付け、「人智学は、人間存在のなかの精神的なものを宇宙のなかの霊的なものに導こうとする、ひとつの認識の道である。」としています。この人智学という言葉は、アントロポゾフィー(Anthroposophie)を和訳したもので、シュタイナーはこの言葉をギリシア語の人間を意味する「アントロポス」と、智を意味する「ソフィア」を合成した認識論として構築し、彼自身も「人智学者」という肩書きをもつようになります。
 ただ、一説によると、この人智学という用語自体は、十六世紀から存在した言葉とされており、シュタイナーはウィーン工科大学における哲学の師、ローベルト・ツインマーマン氏から、はじめてこの言葉を聞いたとされています。そのツインマーマン氏は、人智学という言葉を人間の探求(アントロポキー)と、人間が神と結合するという神秘学(デオゾフィー)とを哲学的論理にまで結合する試みとして用いていたようです。

 また、シュタイナーは一九一三年に人智学協会を創設するまで、ブラヴァッキー夫人が創設した神智学協会で活発な講義活動を行なっていたため、「神智学」という言葉も使用しています。そのため、彼が神智学協会に在籍中に使用していた神智学と、その後の人智学とは同じ意味と受け取っても語弊はないといえます。一般的に、シュタイナーの生涯は次のような七つの活動期に分類されています。

第一生活期   (一八六一―一八八九 ・    〇―二十八歳)

第二生活期   (一八九〇―一八九六 ・ 二十九―三十五歳)

第三生活期   (一八九七―一九〇二 ・ 三十六―四十一歳)

人智学第一発展期(一九〇二―一九〇九 ・ 四十一―四十八歳)

人智学第二発展期(一九一〇―一九一六 ・ 四十九―五十五歳)

人智学第三発展期(一九一七―一九二三 ・ 五十六―六十二歳)

人智学第四発展期(一九二三―一九二五 ・ 六十二―六十四歳)

そこで、シュタイナーの霊的世界観は巻末に譲るとして、ここでは彼の霊的歩みとその功績を簡単に追うことにしましょう。


(一)第一生活期 (一八六一―一八八九年 ・ 〇―二十八歳)

 

彼自身は、一歳から二十八歳までの期間を振り返り、「この時期の外面的特徴を考えてみると、三十歳の私がいかなる<職業>によっても拘束されないように運命が私を導いてくれた、という印象が浮かんでくる。」と述べています。

 

○霊的認識と旺盛な知的欲求

 ルドルフ・シュタイナーは、一八六一年二月二十七日、オーストリアとハンガリーの国境の町クラリュヴエッグ(現在のユーゴスラビア領)に生まれます。
彼が、霊眼と霊耳によってこの世ではない、別の世界に由来するはじめての繊細な印象を覚えたのは七歳の頃だったといいます。この頃から、彼は木や石の内なる魂の空間に顕現する霊的な実体とも魂的に触れ合うようになります。

 
幼少時代のシュタイナーと妹レオポルディーヌ
1865年

左:父ヨハン
右:母フランチスカ

 
 後にシュタイナーはそうした少年時代を振り返り、「自然現象を認識しようという志向を抱き始めたが、(自然界と霊界との)関係の認識と『認識の限界』のせめぎ合いに晒(さら)された時代でもあった。」と述べています。

 シュタイナー少年は、こうした霊的体験の意味を自分なりに論理的に理解することに関心が向かっていたため、幼少の頃から同世代の友達と関わるよりも、父の友人達や小学校の指導教員、森の中で薪拾いをする村人達といった大人たちと接する機会が多かったといいます。
 また、そういった人物から知恵に満ちた話しを聴き、あるいは蔵書を借りるなどして様々な分野の認識を広めてゆきます。小学生の時には、ある生徒とその親からあらぬ誤解と侮辱を受け、それに腹を立てたシュタイナーの父親は学校の通学を拒否し、自分の職場で勉強させたこともあったといいます。また、父の収入が少なかったため、兄弟と一緒に近隣の家の畑仕事を手伝い、十四歳からは学費と生活費のために家庭教師をするようになります。
 
一方、「四年間(十一歳―十五歳)の実科学校では、自然現象の本質に到達することで、自らの霊体験を把握することを試みていた。」という言葉が示すように、知的好奇心はその後も更に加速してゆきます。例えば、学校の講義とは別に、実科学校の年報に書かれていた『運動の作用としての引力』という高校生レベルの論文を読むために他の多くの自然科学の文献を学び、十四歳になると宗教学の書物の内、教義学、象徴学、典礼学、教会史を夢中になって読むようになります。
 十五歳の時にはレッシングやヘルバルト哲学の立場から書かれた『哲学入門』や『心理学』に学び、学校の教師とも積極的に意見の交換をしています。十六歳になると、カントの『純粋理性批判』を二十回以上も読んで自然と創造行為がいかなる関係にあるかを理解しようとしたといいます。そして、十八歳のシュタイナーは、ウィーン工科大学に進学します。

 

○霊的指導者との出会い

1878年 18歳頃 
高等学校卒業時

 ウィーン工科大学の時代になると、「当時の私は、哲学を通して真理を探求する事が自分の義務であると思っていた。」という言葉の通り、工科大学にも関わらず独学でフィヒテ、トラウゴット・クルール、シェリング、ヘーゲル、ゲーテ、シラー、ハルトマンといった哲学者の思想を学ぶほかウィーン大学に聴講生として医学を学び、それらを自己の霊的認識と結びつけてゆきます。

 こうした学生生活の間も霊的認識は更に深まりを見せ、「しかし何と言っても、私は霊界を現実として視ていた。個々の人間の霊的個性が、私にはまざまざと見えた。霊的個性は、物質としての肉体や、物質界における行為に現れているにすぎなかった。霊的個性は、両親から肉体的な胚種として伝えられるものと一体化していた。私は死者の後を辿って霊界にまで至った。」と述べています。勿論、シュタイナーのこうした認識は、多くの友人や教師からはまったくといってよいほど理解や共感を得ることはなかったようです。

 しかし、学生時代のある日、彼が通学する汽車で、田舎で薬草を採集しては毎週ウィーンの薬局に売りにゆく素朴な男、フェリックス・コグツキー(一八三三―一九〇九)なる秘儀精通者と出会います。二人は互いに霊界について語りあう仲になり、シュタイナーはこの人物について「彼と一緒にいると、自然の神秘の奥処を窺(うかが)い見ることが可能であった。」「彼と一緒にいると、私は文明や科学や現代的な物の考え方に侵されていない、前世についての直感的な知識を私に与えてくれる太古の魂を目の前にみているのだ、という感じを次第にもつようになった。」と述べているように、シュタイナーの霊的認識はより深められてゆきます。

 さらに、その二年後の二十一歳の頃には、コグツキーを通して世に知られていない卓越した「霊的指導者」とも知り合いになります。シュタイナーはこの人物に対して多くを明かしていませんが、この霊的指導者はシュタイナーに深遠な生命衝動を与え、とりわけ唯物論的・自然科学的な思惟方法を根本的に内面から学ぶ衝動を与えたとされています。
 そして、シュタイナーが自らの霊的使命を歩むことへの様々な問いに対して、この師は近代科学を竜に喩えて、『お前が敵に打ち勝とうと思うのなら、まず、彼を理解することから始めよ。お前が竜のふところに身を潜めた時に初めて、お前は竜に対する勝利者になるのだ。』といった意味の言葉でこれに答えたといいます。そして、この導師からは「どのような人も四十歳になる以前に、公然とオカルティズムの講師になることは避けるべきである」という指導を受けることになります。

シュタイナー 1882年

この霊的指導者がシュタイナーにどれほどの影響を与えたかは定かではありませんが、それ以降、通常の見霊者であれば避けて通るような分野の教授、教会史家、神学者、哲学者、作曲家、彫刻家といった様々な人物たちやグループと活発な交流をするようになってゆきます。

 彼はこうした関わりによって、「私にとって偉大と思われるものに対しては、たとえそれが内容的に私の立場とは一致していないからといって、賞賛を拒んだり無関心であったりすることはなかった。それどころか、このような対立はどこかでやはり一致点を見出すに違いない、と私は密かに思っていた。
こう考えていたから私は、自分とは異なる立場の人間の思考過程も、まるでそれが自分自身の考えと一致しているかのように、理解しつつ辿ることができた。」
という広い精神性を獲得してゆきます。

シュタイナー 1885年

 さらに、シュタイナーはこうした人々に接近する中で、再生(輪廻転生)の謎に関わる幾つかの知恵を心得ることになり、次第に人間の繰り返される地上生活についての確固とした洞察力を得るに至ります。とはいえ、こうした友人たちとは現実的には活発な交流であっても、共に霊的謎に取り組むようなことは無かったために、シュタイナーは次第に強い孤独感を抱くようになり、いつしか彼の魂を現実的自分と霊的自分という二重生活に追いやるようになります。

 

○ゲーテの論文との出会い

一方、現実面においては、学生時代に親しくなったカール・ユリウス・シュレーアー氏の講義の影響を受け、ゲーテ(一七四九―一八三二)の『ファウスト』をはじめとする、多くの文学書に親しむようになります。そして、これがきっかけとなり、二十一歳の頃に『ドイツ国民文学叢書』の中のゲーテの自然科学論文の出版の手伝いをする機会を得ます。

 しかし、「私の見る処、ゲーテは世界に対する人間の独特な霊的関係を理解しており、それ故また、自然認識を正当な方法で人間活動の全体性の中に位置付けることのできた人物である。」という見解をもっていたシュタイナーにとって、この自然科学論文の出版という仕事は、一方では霊的認識を無視した自然科学との対決を、他方ではゲーテの世界観との対決を意味することになります。
 何より、シュタイナーの内面で獲得したものを、既成の表現方法で言い表そうとすると、みすぼらしい姿でしか現れてこないことにいつも悩まされ、それが彼の内的不満を生じさせる原因にもなってゆきます。

 こうしたゲーテの研究はその後も続き、自身でも論文を執筆し、二十八歳になるとゲーテ発祥の地であるドイツのワイマールでゲーテ全集の出版に協力する機会を得ることになります。
 

ゲーテの自然科学論文集刊行のための研究プランの直筆

 

○霊的認識の表現形式について

 二十八歳の頃、シュタイナーは自分の語ることを自然科学で通常用いられる形式で表現するか、神秘主義的感性を持つ著作家たちによって用いられている形式で表現するか、この二者択一の前に立たされることになります。

シュタイナー 
年代不明

 しかし、神秘主義の表現方法は、人間の主観体験のみを記述し、人間の外部にある客観的実在を示すことができないため個人的なものに過ぎず「確実な認識」として語ることを許されない、という結論に至ります。そのため、自然科学の理念が感覚的に知覚可能なものを思考するように、霊的なものを思考する理念を造りあげ、霊的な叙述に理念的性格を賦与することを目指すべきである、という結論に達します。

 こうしたことから、彼は自身の霊的認識を自然科学で通常用いられる形式で表現する方法を選択することになり、以後、これまでの神秘家や神秘主義的表現方法とは一線を画し、シュタイナー特有の客観的な論述方式が取られてゆくことになります。


      

(二)第一生活期 (一八九〇一八九六年 ・ 二十九−三十五歳)


  前年からのゲーテ全集の出版に協力したことを機に、彼はこの時期をワイマールで生活することになります。後に「ワイマールにおける最も重要な出来事は、何といっても、そこで結ばれた人間関係であった。」と自らを振り返っているように、ワイマールでは以前にも増して多くの人々と出会い活発な交流を重ねます。しかし、その反面で、内的な孤独は頂点に達してゆくことになります。

 

○ゲーテ研究と孤独

ゲーテ
1749 ―1832

 シュタイナーはゲーテの解釈に取り組んでいた頃のことを、「私はゲーテのことを、自身の傍らにいて『霊の道を進むのに急ぎすぎる者は、狭い範囲での霊体験には到達できるだろうが、しかし現実内容が乏しくなり、生の豊穣さから疎外されてしまう』と絶えず呼びかけてくる警告者のように感じていた。」と述べています。

 そのため、彼は仕事としてゲーテを研究する傍ら、ニーチェ、ハインリッヒ・フォン・シュタイン、ジャン・パアウル、ショーペンハウエルといった人物たちの思想に対して霊的認識から独自の見解を獲得して行くことになります。同時に、ゲーテの研究は自然界と霊的世界との間の関連性について多くの認識を彼にもたらす事になります。

 しかし、この頃のシュタイナーは、ゲーテの研究に際しても一般的な人間とは異なる苦労をしており、「私はたとえば学問上の不可欠な外的資料の内容を記憶したり習得したりするのに、いつも苦労していた。ある自然の物事がなんと命名されているのか、それは学問的にどんな種属に分類されているのかなどを知る必要があるときには、私は何度もその対象を観察しなければならなかった。私にとって感覚界とは、幻影のような、比喩的なものであったといってよいだろう。霊的なものとの結合は、あくまでも現実的な真の特性を帯びていたのに対して、感覚界は観念的に私の魂をよぎっただけであった。」と語っています。
 つまり、シュタイナーにとっては、霊界こそが真の現実であり、感覚界(物質界)とは幻想であると感じられていたわけです。そのため、彼は「自身の魂とともに外部世界に隣り合う一つの世界に住んでいる」という状態にあり、外部世界の人々と何か関わりを持とうとするときは、いつもこの壁を乗り越えねばならなかったといいます。

 さらに、「自分以外の人々の中に『自然が世界の全てである』という世界観に対する衝動的欲求が根源にまで浸透し、それが無意識に人々を支配している」という実態に気付き、唯物論に染まりながらそれに気付かない人々の中で、シュタイナーはひとり深い孤独に苛まれます。

 特にゲーテ・シラー文庫での仕事は、彼にいっそう孤独にさせていたようで、女流作家ローザ・マイレーダへ宛てた手紙には「ここでは、私は孤立しています。私を感動させ、私の精神を支えているものを少しでも理解してくれる人は、ここにはいないのです。」と綴り、友人のエックシュタインに宛てた手紙にも「ここにいる私が、いかに孤独で理解されていないか、おそらくあなたには、想像もつかないでしょう。」と綴っています。

 

哲学的思考の熟成

 哲学的思考の蓄積と霊的体験の熟成によって、シュタイナーは次第に当時の様々な思想に対して独自の見解を示すようになってゆきます。例えば、主知主義については、「主知主義の『立場』は、相互に反発しあっている。霊的観照は、『立場』を『立場』として尊重する。立場が異なれば、世界も違って見えるものである。ちょうど、一軒の家をさまざまな角度から写真に撮るようなものである。その写し撮られた象は違っていても、家そのものは同じである。家をぐるりと一周して初めて、全体の印象が捉えられる。霊的な世界に立ってみると、ある立場の『正しさ』を承認することができる。ある『立場』から撮影された写真が妥当であると認められる。すると、次にはその立場の妥当性と意味が問題になる。」として、その危険性をと問題点を指摘しています。

 さらに、この時期にアメリカを発祥の地とする「倫理文化協会」の一支部がドイツに設立されますが、シュタイナーはその倫理的深化を追及する運動に対しても強い疑念を抱きます。というのも、この倫理運動の主題は『たとえ研究対象の領域が違っていても、万人が是認し得るような原理を追求すること』にあったのですが、これが自然現象ばかりを対象としていたため、道徳的・霊的世界内容との間に深い亀裂を生み出している事実に気付いたためです。
 
 これに対しシュタイナーは、「自然現象および霊的・道徳的現象の上部に、一つの真の現実が存在し、この現象の中に道徳的な現れ方はするが、同時に、道徳的行為を自然現象と同じような作用へと変容させる力が含まれている。」ということを霊的に確信していたのです。

 つまり簡単に言えば、「自然現象は単なる物理現象や化学変化ではなく、統一された霊的な力によって、道徳的意味が自然界(現世)に現象化されているのである。そうでなければ、人間の霊的道徳的行為は自然界にとって何の意味ももたなくなってしまうはずだ。」という事実を確信していたわけです。そのため、シュタイナーにとっては「霊的洞察に由らない自然界の倫理的追求」は、「死体解剖による人間の心の研究」のように不可解極まりないものに感じられたともいえます。

 さらに、『一切の世界観に触れることをせずに、人々の間に道義性を広める』という倫理的手法に対しても痛烈に批判します。それは、「自分なりの見方をできる限り拡大できる人間こそが、世界現象を発見できるのだろうし、また、道徳的な実在性も自然的なものの実在性も、そうした営みの中から人間に向かって姿を現すのではないか。」と、シュタイナーが直感していたためです。これは、安易な倫理的全体主義は、人々を必ずしも真の洞察と道徳に導くとは限らず、衆愚主義に陥る危険性を多分に感じたためとも考えられます。それは、彼が自然現象の奥に霊的実在と道徳性を認識していたからこそ語れる見解であったといえます。

 

○自由の哲学の出版

 こうした世論が渦巻く中、三十二歳になった彼は、一八九三年の十一月に『自由の哲学』を出版するに至ります。
 後に、シュタイナーはこの著書について自伝の中で次のように綴っています。
「『自由の哲学』において私が論証しようとしたのは、感覚世界の背後に何か未知なものが存在するのではなく、感覚世界の中に霊的世界があるということであった。人間の理念の世界についていえば、それが前途の霊的世界の中に永続していることを、私は明らかにしようとしたのである。
 したがって、心が感官を通してのみ知覚するかぎり、感覚世界の本質は人間の意識には閉ざされている。理念が感覚的知覚と統合されて体験されるときこそ、感覚世界は、その本来の客観的本質において意識により体験されることになる。認識とは本質を写しとることではなく、本質の中へ心を注入することである。意識の内部で、依然として本質ではない感覚世界から本質的な感覚世界への変容が生起する。
 こうして、感覚世界は、意識が感覚世界を克服しない限り、現象(幻想)にとどまる。実際、感覚世界は、それ故、霊的な世界なのである。魂は霊的世界に拡張することによって、この認識された霊的世界と合一する。認識という行為の目標は、霊的世界を意識的に体験することにある。霊的世界を眼のあたりにすると、すべてが溶解して霊となる。」

 例えば、私たちが外的な風景や芸術作品に感動できるのは、その本質を単なる物質の塊として認識するからではなく、その内部の霊的な本質を雰囲気や美として内的に認識するからこそ可能であることになります。それを考慮すると、私たちは「この物質界において霊的に生きている。」はずですし、この感覚世界の本質をさらに深く感じ取ることができるようになれば、全てを霊的な世界とし認識することができ得るということです。

 

○二人の霊の友人

アンナ・オイニケ

 ウィーンで生活していた頃、シュタイナーは互いに恋心を抱いていた女性がいたのですが、同時に一度も面識の無い彼女の父親の霊とも出会うことになります。彼女の父は、その後他界してしまいますが、彼の霊との交流はその後も続くことになります。
 また、後に結婚するアンナ・オイニケと死別していた前夫の霊とも霊的な交流を深めることになります。アンナ・オイニケは、一八九九年にシュタイナーと結婚し一九一一年に他界することになります。

 彼はこの恋愛相手に関係するこの二人の霊的友人を通して、「霊が死後に自然科学的思考を霊的体験が起る段階にまで向上させていること」を知ります。このことから、『地上生活においても、内的な勇気と力を発揮すれば、自然科学的思考を霊的体験が起る段階に向上させ得ること』を確信します。しかし、同時に『人間は、自己を独立し完結した霊的存在として感知できなかった古い集合的な思考状態から、自然科学的思考によってのみ獲得できる理念世界の補足を目指して(物質界で)進歩してきたこと』、また『単純な自然科学的思考様式に意志を拘束された人々が、自分自身を霊の世界から遠ざけ、人間の人間たる所以を一層そこねてしまっていること』、といった霊的事実を洞察してゆきます。

 同時に、霊媒を必要とするような心霊術(人の肉体に霊を憑依させて話しをさせる方法)は邪道に堕していることに気付き、如何なる形式の心霊術とも異なる道を歩む必要性を強く感じこととなります。

 さらに、三十五歳の夏には、感覚的に知覚できるものに対して、これまでなかったような注意力がシュタイナーの内で目覚めます。これによって、感覚界には感覚界でなければ露われてこないものがあると感ずるようになり、感覚的観察力が正確で鋭くなるにつれてこれまでとは違うまったく新しい世界へ踏み込む可能性がひらかれてゆきます。
 こうした経験の積み重ねによって、彼は「人は自己を脱却し、対象に没入でき、そしてまさにそのことによって、人は霊的な観察能力を高められ、霊界に参入できる。」という結論に達することになります。


(三)第三生活期 (一八九七―一九〇二年 ・ 三十六―四十一歳)

 

 シュタイナーは、世界観の欠落した倫理学者たちに対し、自分の意見を雑誌に発表し意見を闘わせるためにワイマールからベルリンに移り住み、『文芸雑誌』の編集責任者のポストを得ます。以来、彼は約三年の間この職務を勤めることになります。

 しかし、『文芸雑誌』での編集は、実際には「自由文学協会」を中心とする勢力の機関紙的役割が強く、ここで出会う友にもシュタイナーを真に理解する者は誰もいなかったため、彼はこうした経緯を運命(カルマ)の摂理によるものだと自覚しつつも、以前にも増して霊的洞察について「なぜ沈黙を守らねばならないのか?」という疑問をいっそう強めることになってゆきます。

 

○霊的試練と秘儀参入

 それまでシュタイナーは、感覚器官で体験したことを記憶にするためには激しい緊張が必要だったといいます。ところが、ベルリンに移住してから、身体的世界の事物や現象を厳密に透徹して観察する能力が形成されてくるようになります。こうした変化は、シュタイナーが他の人よりもずっと遅い年代で、人生の転機を経験していることを暗示しています。しかし、この変化によって彼は、「霊的世界における心の営みが物質体験へと移行するのが早すぎると、霊的世界だけでなく物質世界をも純粋に把握することができなくなってしまうこともわかった。」としています。
 さらに、この霊的世界と感覚世界という二つの対立する世界の進入によって、「人間は世界そのものの共同創造者であり、世界にとって無意味な、世界を完成するのに何の役にも立たないようなものを作り出す模造者ではない。」という認識論に自信を深めてゆくことになります。

 また、この頃には「自然認識から霊界への洞察を獲得し得る基盤」を見出すものの、その反面で、アーリマン(機械論的・唯物論的思考方法を生じさようとする悪魔)的な緒力との内的闘いが、一段と意識的になったとしています。シュタイナーは、それまでにも一度もアーリマンの誤謬に囚われたことはなかったとしながらも、一八九七年から一九〇〇年までの三年間は、彼にとって極めて集中的な霊的試練を克服した時期であったとしています。

 この悪霊との内的な激しい戦いをしていた頃、シュタイナーは、霊的認識の深化と共にそれまで宗派的な解釈の意味で使用してきた「キリスト教」という言葉に対して、その認識の転換を求められることになります。シュタイナー自身「この試練の時にあたり、私は霊的観照を通してキリスト教の発展を心で辿ることによって、かろうじて前進できた。この結果が『神秘的事実としてのキリスト教』で述べた認識へと向ったのである。」と語るように、このキリスト教の霊的認識の深まりこそが、アーリマンとの内的闘いを克服する礎となっていったのです。

 やがて、シュタイナーは真のキリスト認識の深まりによって霊的にゴルゴタの秘蹟を洞察し、「秘儀参入の門」を通り抜けることになります。こうした経緯について彼は、「キリスト教をめぐって、言葉の意味上、後の発言と大いに矛盾する表現をした、まさにその時に、キリスト教の真実が私の心に内的認識現象として芽吹き始めた。その芽は世紀の転換期(十九世紀から二十世紀への転換期)にいよいよ力強く成長した。この世紀の転換期に先立って起ったのが、前述した(アーリマンによる)心の試練である。最も内的な最も真剣な認識の祭典の渦中にゴルゴタの秘蹟に直面したことが、私の心の成長にとって重要な意味を持っていたのである。」と語っています。

シュタイナー 1900年

 この体験を境として、シュタイナーは一九〇〇年ごろから次第に霊的事実を前提として執筆や講演活動を行なうようになってゆきます。
 実際、この頃の『文芸雑誌』第十六号の論文には、「現時点での自然科学的な『認識の限界』には未来においては限界としての根拠を失う。それは同時に、自然科学とは、必然的に限界があることを自ずと証明している。よって、霊的認識方法を用いればその限界の壁を乗り越えて前進できる仮説を立てることができる。……」いった内容を示します。

 さらに、この著書を完成した直後、太古から現代に至るまでの有機体の真の発展がシュタイナーの想像力の前に姿を現したとされています。
それは、アカシャ年代記(アカシックレコード)を読み解く体験だったと考えられます。

 

○神智学協会(一)

ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー
 1831-1891

 神智学協会は、ニューヨークでH・P・ブラヴァッキー(一八三一―一八九一)と、H・S・オルコット(一八三二―一九〇七)によって一八七五年に設立された組織です。

 一九〇〇年九月に『文芸雑誌』の編集を他の人々に委ねたシュタイナーは、講演活動や筆活動に集中するようになります。この頃、神智学協会のベルリン支部に招かれたシュタイナーは、ニーチェやゲーテに関する講演を成功させます。
 こうして彼は、人智学協会員の前で定期的な講演の依頼を受けることとなります。ただし、シュタイナー自身は神智学協会から発行されている資料をほとんど読んでいなかったことと、神智学に関わる知人の姿勢に共感できないことが多かったことを理由に、神智学協会の会員としてではなく、彼自身が直接得た秘教体験を基にして話すことを条件としてこの契約の更新に同意します。それは、神智学協会の会員の大部分が、協会の個々の指導者の熱狂的な信奉者となっており、その指導者のドグマを盲信していることに嫌悪感を覚えていたためであったようです。

 こうして、四十歳を目前に「神秘的事実としてのキリスト教と古代秘儀」をテーマに連続講演をすることになります。また、当時のシュタイナーは、この他にも「ジョルダーノ・ブルーノ同盟(註1)」や「来るべき者たち」という名のサークルで活発な講演活動を行なっています。

                     

註1・ジョルダーノ・ブルーノ(一五四八―一六〇〇)、イタリア・ルネサンス期の自然哲学者。コペルニクスの宇宙論を認め、世界は無限であり、神は宇宙の内部に存在し、一切の生物の裡(うち)には神が内在力として働き、これらの無限の原子から成る生物は、各々が世界を各自の仕方で反映すると説き、汎神論(はんしんろん)・モナド論的傾向を示したとされ、異端として焚刑に処された。ただし、この同盟は、一九〇一年にブルーノ・ヴェレによって組織されている。



(四)人智学第一発展期 (一九〇二―一九〇九年 ・ 四十一―四十八歳)

 複数のサークルで、講演や講義をしつつも、過酷な試練を抜けたシュタイナーは、一方では霊界に完全に踏み込むようになってゆきます。彼は当時を振り返って「私にとって一九〇一年から一九〇七年にかけての期間は、迫り来る霊界の事象や存在を心のあらゆる力を振り絞って受け止めた時期であった。」と述べています。また、一九〇二年からの数年間に
『イマジネーション
   (アストラル体やエーテル体といった心魂界を透視する能力)』

『インスピレーション
   (神霊世界との往来により精神界の解読や聴取をする能力)』

『インテュイション
   (神霊存在と合一して神霊の内側から宇宙を認識する能力)』

といった極めて高次の霊的能力を獲得するに至ります。そうした更なる霊的能力の充実もあり、その講演の舞台はベルリンに留まらず、次第にドイツ各地や周辺諸国からも招待されるようになってゆきます。

 

○神智学とアカシャ年代記より

 一九〇二年、四十一歳となったシュタイナーは、月刊誌『ルシファー』(註1)を発行し自ら編集長となると、この誌上でこれまで蓄積していた霊的認識を次々と公開してゆきます。一九〇四年には、『神智学』を出版した他、誌上では『いかにして超感覚世界の認識を獲得するか』、『アカシャ年代記より』の連載を開始するようになります。

 シュタイナーはこうした執筆活動に対し、「霊の世界を神秘主義者として描き始めると、誰もが当然のごとくこう主張する。君は君の個人的な体験について語っているのだ、君が書いていることは主観的だ、と。神秘主義者のような霊の道を歩むことは、霊界に身を置く私からすれば、自分の課題ではないことは明らかであった。私の課題は、科学的思考と同じように客観的な人智学の基盤を作ることにあった。しかし科学的思考といっても、それは、感覚的な事実の記録にとどまるのではなく、総合的な把握に向って前進するものでなければならない。」として、全ての著書が相互に関連しあう壮大な霊的世界観を構築してゆくことになります。

 

註1・『ルシファー』の名称は「光を運ぶもの」の意味で、悪魔のルシファーではない。

 

○神智学協会(二)

 一九〇二年一月、シュタイナーは神智学協会に加入します。その後、アニー・ベサント同席の下に「神智学協会ドイツ支部」の書記長の地位に就くよう神智学協会本部から要請を受けます。当時の人智学協会は、霊媒を用いる降霊術を重視していたため、その教えに共感できずにいたものの、その後、ドイツとロンドンからの強い要請があったといいます。そこで、支部同士のことには口出しせず、自らの霊体験を基に自由に話すことを許可する条件でドイツ支部書記長を承諾します。

 アニー・ベサント(一八四七―一九三三)は、イギリスの女流神智学者で、一八八九年にブラヴァッキーの著書『秘密(シークレット)教義(ドクトリン)』を縁に神智学協会に加入しています。また、ブラヴァッキーとオルコットの死後、神智学協会の中心人物として活躍し、一九〇九年から一九三三年まで神智学協会会長を務めた人物です。

 しかし、シュタイナー自身は、予てからブラヴァッキーのような霊的認識方法は、必然的に危険が伴うと懸念してきたようです。実際、神智学協会では覚醒した意識を制圧して古代の夢のような意識へ再び回帰しようと試みており、ベサント夫人にもこうした回帰願望がみられたとしています。これに対し、人智学では意識魂の内部で霊界を洞察することを硬く守っているため、こうした危険性は全く考えられないと確信していたのです。
 こうした洞察から、彼は神智学協会からE・S(エソテリックスクール=秘教講座)の承諾を受け、これまで以上に、より高次の霊的講義を行なう場を設けます。こうして、四十五歳となった一九〇六年には、自身が人間存在の指導者として、霊的認識が成熟したことを自覚するに至ります。


     

(五)人智学第二発展期 (一九一〇―一九一六年 ・ 四十九―五十五歳)

 

 この期間のシュタイナーに最も特徴的なことは、神秘劇、オイリュトミー、ゲーテアヌムの建設といったように、霊的認識を独自の芸術として具現化したことにあるといえます。彼の芸術的可能性を広げたのは、一つには様々な作家や画家、音楽家との活発な交流があげられます。
 もう一つは、文芸雑誌の編集長であった頃に、雑誌サークルの関連団体である「演劇協会」の役員に選出され、リハーサルに立ち会うなど作品や舞台の構成全般に関わっていたことが上げられます。そして、最も大きな影響を与えたのが人智学協会でのマリー・フォン・ジーフェルス(一八六七―一九四八)との出会いでした。

マリー・シュタイナー(マリー・フォン・ジーフェルス) 1906年頃

   シュタイナーとマリー夫人

 後にシュタイナー夫人となるマリー・フォン・ジーフェルスは、ペルテスやパリで著名な舞台俳優のもとで徹底した演劇の修行を重ねてきたことや、芸術全般に深い造詣があったという経緯から、芸術的な面でシュタイナーに助力した人物でした。
  また、彼女はシュタイナーの講演活動の秘書を勤めると共に、堪能な語学力を生かして通訳も行い、講義に際してはこれを筆記していた他、哲学・神智学出版社(後に、哲学・人智学出版社)を創設、運営し、後に多くのシュタイナーの著書を出版することになるなど、シュタイナーにとっても人智学の普及にとっても極めて重要な役割を果たすことになります。

 

○神秘劇

 一九一〇年、四十九歳のシュタイナーは、神秘劇『秘儀参入の門』の脚本を執筆し、ミュンヘンで上演します。彼はこの神秘劇を「人智学的な生き方の全ての原動力となっているものを、どのようにしたら芸術の形で表現できるかの試みである。」としています。
 さらに、「この神秘劇が含んでいるものは、『未来においてようやく人々の認識に達するであろう豊富な精神科学上の真理である』ということも見逃してはならない。」とも述べています。神秘劇はこの年から一九一三年までに、毎年一本ずつドラマの脚本が執筆され、『秘儀参入の門』に続いて『魂の試練』『境域の守護者』『魂の目覚め』として、全四部作が上演されることになります。

 

○オイリュトミー

 シュタイナーによれば、本来、歯や口蓋といった言語器官や歌唱器官によって音声化するために吐き出されるものとは「空気の姿態」であり、それは感覚的・超感覚的観照を通して見てとることができるといいます。この時、本来言語器官や歌唱器官が常に行なっている運動を、人間が手や腕を使って行なうことで、「目に見える言語」、「目に見える歌唱」として表現することが可能になるとしています。そして、この「目に見える言語」、「目に見える歌唱」としての動作こそが『オイリュトミー』なのだといいます。

オイリュトミー 
新しい人間創造のための言語音楽芸術
高橋巌〔監修〕泰流社より

 また、このオイリュトミーは「舞踏ではなく動作と化した歌」であり、オイリュトミーによって表現されるものとは「人間の心性の作用の純粋な表出であり、それが視覚的に行なわれることにある」とも述べています。

 こうして、純粋に芸術活動として創始されたオイリュトミーは、後に「肉体と心性と霊性とが一体となっている体操」という認識から、現代の子供に必要とされている「積極的な行動意志力」の発達を促進することが明らかとなります。
このことから、この舞踊芸術は、次第にヴァルドルフ学校の必須科目や治療オイリュトミーとして欠かせないものになってゆきます。
 特に、治療オイリュトミーは、新陳代謝障害および運動機能障害、小児の多動症の治療などに特に効果的であることが判っています。

 
     

「art of eurythmy 1981 (オイリュトミー芸術1981)」
                    YouTubeより(Krzysztof Bieda氏)
 ノルウェーの「ベルゲン・インターナショナル・フェスティバル」で演じられた時のもののようです。



○神智学協会(三)

 シュタイナー独自の人智学的認識に共感する人々が増加する反面、神智学教会内では、彼が次第に協会を踏み台として利用しているという反感を抱く声も高まることになります。しかし、彼自身は、神智学協会の内部に「人智学協会」という特別な部門を作ればよい、という考えであったといいます。

 ところが、彼は協会内部に次第に危険極まりない堕落的な兆候が現れてきたことを強く感じるようになってゆきます。当時、シュタイナーの影響力の及ばない指導者らに率いられた協会員たちの間に、心霊術の弊害を想起される予兆が現われ始めていたのです。

 この心霊術の活動が頂点に達した頃、ヒンズー教の少年ジッドゥ・クリシュナムルティ(一八九五―一九八六)が、キリストの生まれ変りであり、弥勒菩薩であると主張されるようになります。そして、一九一一年には、神智学協会の中に『東方の星』と称する結社がインドのアジャールで設立され、アニー・ベサント女史とチャールズ・リードビーター氏とが率先して顧問を務め、これを大々的に宣伝するようになります。さらに、ドイツの支部のシュタイナーらにもこの結社への加入を呼びかけます。

 しかし、こうした誤った見解はシュタイナーには絶対に認められないことであり、自身が洞察した真のキリストや弥勒菩薩についての見解を強調するようになります。こうして、薔薇十字会の神智学を重視するシュタイナーと、キリストの再誕(再臨ではなく再誕)を信じる神智学協会との間には、埋めることのできない深い溝が生じてゆくことになります。

 しかし、シュタイナーは神智学協会での活動について、「私たちの運動の出発点として必要な要素ではあったが、しかしそれは、私たちの活動のほんの一部分にすぎなかった。私たちの主な仕事は、公開講演を催すことであった。」としているように、むしろ神智学協会に属さない人々との交流を重視していたのです。

 そして一九一三年、ついにアニー・ベサント女史はシュタイナーが書記長を務めるドイツ支部に対し、「設立許可状」の返却を要求することとなり、彼は神智学協会から除名されます。そのために、シュタイナーは新たに人智学協会を設立することになってゆきます。

 一方、救世主とされたクリシュナムルティは、一九二九年に「真理とは道なき地平であり、どんな宗教も組織化しえない」として、アニー・ベサント女史立会いの下で期待された真価が完全に発揮されないまま、自ら『星の教団の解散宣言』をします。しかし、それはシュタイナーが他界してから五年を経過した後のことだったのです。

 

○人智学協会とゲーテアヌム

 人智学協会が発足してまもなく、歯科医師グローズン・ハインツ氏からスイス・ドルナッハの小高い丘に人智学施設の建設用地提供の申し出があり、シュタイナーはこの申し出を受け入れます。彼は自らドルナッハの建設計画の責任者となり、「建物の細部に至る形態を内面から生じてくるものに相応させた施設」の建設に取りかかります。また、彼は前例の無い建築物の立体的な模型を作り、これを基に参加していた建築家たちと討議を重ねながら、数々の難題をクリアし、建築界にも重要な貢献をもたらすことになります。

 

 こうして完成した施設は『ゲーテの館』を意味する『ゲーテアヌム』と称され、観客席の収容可能人数は千人、建物全体の容積は約六万六千立方メートル、建築費用は当時の貨幣価値で七百万スイスフラン以上にのぼる施設となりますが、その費用はすべて寄付でまかなわれたといわれています。

 以来、この第一ゲーテアヌムは、講演活動や神秘劇、オイリュトミーなど、シュタイナーの活動の拠点となると共に、人智学を象徴する建築物となります。

 



     

「Rudolf Steiner's Goetheanums」
                YouTubeより (Cosmic Polymath)



(六)人智学第三発展期 (一九一七―一九二三年 ・ 五十六―六十二歳)

○社会有機体三分節化運動

 第一次世界大戦の中にあって、シュタイナーは、彼自身が個々人に対しては非常に重要なことはできても、一般社会の悲嘆に暮れる無数の人々に明白な何かを提示するこができていないことに心を痛めます。そうした中で、彼はこの戦争の真の原因を政治的外交問題ではなく、社会問題と見なすべきであることを洞察し、その問題が「政治」、「経済」、「精神」、という三領域が危機的に混淆している点にある、という結論に至ります。

 そのため、人間が望む「自由・平等・友愛」は、一元的に考えた場合、同時に両立する事は矛盾を生じるものの、精神(霊)に自由を、政治(権利)に平等を、経済に友愛を、それぞれを作用させることがこの問題を解消すると提唱します。そうすることで、社会は『個人の自由に基づく精神生活』、『民主主義による平等な政治』、『博愛を基盤とする経済活動』という、三領域がバランスを取りながら独自に機能するようになり、そこに共同生活の理想が実現されるのだといいます。

 そして、このためには、
第一に「法治国家が力を及ぼす範囲は、政治的な生活や市民を体内的にも対外的にも守ることを課題とするべきである」こと。
第二に「やむをえない状況を除き、国家は経済活動の統括者であってはならず、その代わり、生産者と消費者によって構成される組織に感傷的ではない友愛が求められる」こと。
第三に「国家は国民の精神生活を監視指導してはならず、あらゆる種類の芸術、学問、宗教に対して、自由が保証されなければならない」こと、といった条件を加えています。こうして、社会を一つの有機体として捉え、その機能を三文分節化するという独自の論理を展開したのです。

シュタイナー講演会のチケット
      1919年7月16日

 一九一九年の四月に『社会有機体三分節化』を出版すると、ドイツの人々に大きな感銘を与え、多くの国々で翻訳され、工場経営者や労働者からも歓呼の声をもって向かえられるようになります。
 そして、シュタイナーは、戦時中にドイツおよびオーストリアの有力政治家を前に、自身の見解を説明する機会を得るのですが、消極的な政治姿勢によって意見を保留されてしまいます。
 さらに、戦後には経済界からの依頼で活動の場を得るものの、この時は、共産主義者、貴族的地主、保守勢力からの反対、さらには党略的な思想を抱く労働者組合の首脳部の圧力に屈することになります。

 ところが、この活動の基礎となっていた思想が、多くの人々の共感と支持を得たことによって、そこからシュタイナーの教育論を実現する学校を望む声が高まることになってゆきます。

 

○自由ヴァルドルフ学校とシュタイナー教育

 シュタイナーは、十四歳からに二十九歳までの十五年間、生活と学費のために幼・少年少女期の子供の家庭教師を続けています。特に、二十三歳の時からは住み込みで四人の子供の家庭教師をしていたのですが、その子供の一人、オットー少年(当時十歳の男の子)は、脳水腫を病んでおり、読み、書き、計算の基礎もできておらず、教育を施せるかどうか疑わしいほど知能の発達が遅れていた状態でした。
 シュタイナーは、この子供のために三十分の授業に二時間の準備を要し、その献身的努力によって二年後には健康状態を回復させ、ギムナジウム(ドイツの大学進学を前提とした七年制または九年制の中等教育機関)に入学させるまでになります。この少年への教育は六年間続き、少年は後に医師になるものの第一次大戦で病死してしまいます。

 しかし、この体験は、人間における「霊的・心的なものと肉体的なものとの関連」に開眼させると共に、生理学と心理学の実習となり、「教育と授業が、真の人間認識に基礎を置く一つの芸術になるべきだ」と悟らせることになります。

シュトゥッツガルトの最初のヴァルドルフ学校

 一九一九年、シュトットガルトのヴァルドルフ・アストリアにある大きなタバコ工場での、成人教育問題に関する講演をきっかけに、聴講者から新しいタイプの人間味のある学校教育を求める声が高まります。それを受けて、彼は教師を希望する人々に、人智学的な教育論を教示し、シュトットガルトにおいて“自由ヴァルドルフ学校”を設立することになります。

 ヴァルドルフ学校の評判が高まると、人智学徒ではない人々からも依頼を受け、シュタイナーはスイス、ドイツ、イギリス、オランダの各地で教育に関する講演活動を行なう他、教育者の育成にも尽力を注ぎます。
 こうして、一九二五年には、自由ヴァルドルフ学校の生徒は約九百名にまで達します。

 シュタイナーの教育論は、子供が誕生する以前の霊的経緯の延長として捉えられており、人間の構成要素(肉体、エーテル体、アストラル体、自我)の発達を霊的に洞察し、七歳、十四歳、二十一歳といった年齢に相応しい教育方法を取っています。また、先生と生徒の信頼関係が非常に重視されている他、オイリュトミー、フォルメン線描、気質やカルマを考慮した治療的教育なども成果を上げており、今日においては、様々な教育問題を解決する教育理念として世界的に評価が高まっています。

 

○人智学の拡大とゲーテアヌム焼失

 この時期のシュタイナーは、光学、熱学、自然科学、言語表現法、健康問題、医学、国民経済学、教育、農業、宇宙論、といた講義を集中的に行なっており、人智学の対する関心が広範囲にわたって最高潮に高まります。特に、一九二二年一月のベルリン音楽堂の講演では、数千人の聴衆が押しかけ、警察官により交通整理がなされ、中に入れない人が大勢出るまでになります。

 しかし、社会有機体三文節化運動といった人智学の光明に対して、国粋主義者のグループや様々な宗派のグループの敵対者たちがこれを激しく攻撃し、暗い影を落とすようになります。一九二二年五月には、ミュンヘンのホテルでの講演において、国民社会主義者(ナチス)の暴漢たちがシュタイナーに暴力攻撃を起しますが、友人達の助けでこれを逃れ、ホテルの裏口から脱出する事態となります。
  

 こうして、二十一年間途切れることなく続いたドイツでの活動を中止し、ゲーテアヌムのあるスイスのドルナッハを中心とした活動に移されることになります。しかし、ここでもシュタイナーの活動に妨害の手が及び、同年の大晦日には、その直後の事件を事前に察知するかのように、次のように語ります。

 「今までは抽象的な認識にすぎなかったことが、世界に対する感情的、意思的な関係を取り結ぶようになるのです。世界は神の家となり、認識する人間は犠牲を捧げる人間となるのです……。今日の私たちに課せられている大きな課題は、世の中では大晦日の雰囲気、衰退と滅亡の気分に満たされていますが、自分たちの真の人間性、神的な人間性を自覚している人たちの心の裡には、新年の気分、近世の気分、復興の気分が存在しなければならぬと認めることです。」

消失した第一ゲーテアヌム

 そして、その夜遅く、ゲーテアヌムが放火によって焼失されてしまうのです。この放火は、ヒトラーの精神的な指導者であったトゥーレ協会のディートリヒ・エッカルトの遺言をナチスの支持者が忠実に実行に移したことによるものであったと伝えられています。
 幸いシュタイナーの指示で負傷者を一人も出さず、翌日から焼失をまぬがれた木工所で講演を行います。そこでは、「私たちは、まだ残されているこの場所で、私たちの内面的義務を果たしてゆくでしょう」と語り、国内外から訪れた聴衆を勇気付けます。シュタイナーは一九二五年に他界しますが、その意志を継いで一九二八年代に第二ゲーテアヌムが完成し、現在でも人智学活動の拠点となっています。
 

 

  第二ゲーテアヌム

     第二ゲーテアヌム (Googleマップより)

[操作方法]
 ・右上の【地図】を左クイックすると地図に、【航空写真】を左クイックで戻ります。
 ・左レバーを、【+】にスライドで拡大、【−】にスライドで縮小。
 ・【曲がった矢印】を左クイックすると、90°づつ違う角度の画像に変わります。
 ・左上の【黄色い人形】をマウスで左クイックしたまま、地図上に移動させると、
  青くなる場所が表示されます。そこでマウスの左クイックを手放すと、
  そこでから見た画像に切り替わります。
 ・同様に、地図上の【■】のマークの上に【黄色い人形】を置くと、そこからの景色に
  変わります。
 ・画像を操作すると、360°の景色、拡大&縮小、等々が可能です。
 ・右上の【×】を左クイックで、最初の航空写真に戻ります。


(七)人智学第四発展期 (一九二三―一九二五年 ・ 六十二―六十四歳)


○一般人智学協会

晩年のシュタイナー

 シュタイナーの活動が多方面に広がると共に、彼を支持する多くの専門家たちが、各々の見解の相違によって分裂するようになります。また、それと共にシュタイナーとは理解し合えるが、彼の昔からの弟子たちと理解しあう事は困難だとする人智学徒らの声が高まるようになります。

 この危機に直面したシュタイナーは、各研究所や施設の多くの協力者に、人智学の母体に帰一するよう呼びかけると共に、ドイツ、ノルウェー、スイス、イギリス、オランダ、オーストリア各地で一般人智学協会の内部改革を行ないます。

 こうして、一九二三年十二月二十四日から翌年一月一日にかけて、約八百人の人智学者をドルナッハに集め、クリスマス会議を開催します。ここで、「個々の人間および人間社会の中における魂的生活を霊界の真の認識の基盤の上に養育しようとする人々の結合」としての『一般人智学協会』が創立されます。そして、南北の霊統を統合するローゼンクロイツの流れと、東西の霊統を統合するシュタイナーの流れが人智学協会の中に受け入れられるに至ったとしています。

シュタイナー 1923年頃

 この後も、医学、農業、演劇などについても多大な功績を残しつつ、第二ゲーテアヌムの建設を弟子達に託し、一九二五年三月三十日、ルドルフ・シュタイナーはドルナッハのアトリエで安らかに息を引き取ります。

 



     

「Rudolf Steiner Goetheanum DOKU」
             YouTubeより (Kevin Stier氏)


  


制作者関連

制 作:咲杜憩緩

ブログ:地球の救い方
     ルドルフ・シュタイナー
        の人智学に学ぶ


著書:ルドルフ・シュタイナー
   と出口王仁三郎の符合