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                The agreement of Rudolf Steiner and Onisaburo Deguchi
                   ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符合
                                                                   咲杜憩緩

■一■ 経典における弥勒菩薩と出口王仁三郎の足跡

(1)経典における弥勒菩薩


 弥勒菩薩について述べられた経典は、総称して「弥勒経」と呼ばれています。

 

弥勒経は、

 竺法護(じくほうご)訳の『弥勒下生経』、

 鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の『弥勒下生成仏経』、

 義浄(ぎじょう)訳の『弥勒下生成仏経』、

 鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の『弥勒大成仏経』、

 訳者不明の『弥勒来時経』、

 沮渠京声(そきょきょうしょう)訳の『観弥勒菩薩兜率天経
        (かんみろくぼさつとそつてんきょう)』

 

という六経典の総称であり、これは弥勒六部経とも呼ばれています。ただし、浄土三部経に対抗して弥勒三部経というときには、『観弥勒菩薩兜率天経』、『弥勒下生仏経』、『弥勒大成仏経』のことをいいます。

 そこで、次にこの弥勒三部経とは、どのような経典なのかを簡単に追ってみることにします。

 

(二)弥勒三部経・観弥勒菩薩兜率天経とは

 

 三部経のうち、最も有名なのは『観弥勒菩薩兜率天経』とされています。この経では、釈迦が祇園精舎に滞在していたあるとき、初夜(夜を三分割したその初め)を突然金色の光が染め、その光明中にいる化仏(けぶつ:つくりだされた仏)の演説にその多くの弟子たちが集まってきます。

 

 その中に弥勒菩薩もいました。集会にいた阿羅漢(あらかん)のひとり優波離(ゆばり)が、「弥勒は成仏するといわれているが、まだ凡夫の身である。いったい彼は何処の国に生まれ変わるのか。」と釈迦に問うのです。すると釈迦は、「十二年後に命尽きると兜率天(とそつてん)に生まれ変わり、五十六億年もの間諸天を教化し、再び閻浮提(えんうだい:人間世界のこと)にその姿を現す。」と説きます。

 

 そして、聴衆に「仏教的な善行を積み、兜率天を観じることによって弥勒に会い、彼と共に下生して成仏の預言を受けるべきである。」と勧めるのです。これを聞いた聴衆は歓喜し、釈迦に拝礼したとされています。

 

 ちなみに、ここで登場する「兜率天」とは、一切衆生が、生まれ、また死んで往来する三界(欲界・色界・無色界)の内の欲界に属すとされ、その俗界は、四王天・?利天(とうりてん)・夜摩天・兜率天・楽変化天・他化自在天という六俗天に分けられ、兜率天はその中の第四天とされています。

 

 さらに、この第四天には、内院と外院があり、内院は将来仏となるべき弥勒菩薩が住するとされ、外院は天衆(帝釈天などの天の諸神のこと)の住む所とされています。

 

 本来、天宮への昇天は十善を行なうことが不可欠であるようですが、「仏の形像を念じ、弥勒の名を唱えるだけでも往生することができ、九六億劫の生死の罪を越えることができる」というのが、この『観弥勒菩薩兜率天経』の教義であるといわれます。

 

 また、十善とは、十悪を犯さないことであり、具体的には、不殺生・不偸盗(ふちゅうとう:人のものを盗まぬこと)・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口(ふあくつ)・不綺語(ふきご:真実に反して言葉を飾りたてぬこと)・不貪欲(ふとんよく)・不瞋恚(ふしんに:自分の心に逆らうものを怒り恨まぬこと。)・不邪見、の事を示します。

 

(三)弥勒三部経・弥勒下生仏経とは

 この経は竺法護(じくほうご)と義浄(ぎじょう)によって伝えられたとされます。竺法護は、(二三一―三〇八頃)中国、西晋時代の僧であり、月氏の出身で西域諸国を巡遊して経典を収集し、般若(はんにゃ)思想の仏典を中心に漢訳した人物で、月氏菩薩、敦煌菩薩とも呼ばれているようです。

 一方、義浄(六三五―七一三)は、中国、唐代の僧で、斉州(山東省)の人であり、玄奘を慕ってインドに行き、帰国後「華厳経」などを漢訳し、三蔵の号を賜り「大唐西域求法高僧伝」「大唐南海寄帰内法伝」などを著したとされています。

 『弥勒下生仏経』では、釈迦の弟子大迦葉についての話しが中心となっています。兜率天に住した弥勒は、転生の地を翅頭(しとう)という美しい都市に定め、修梵摩(しょうぼんま)とその妻である梵摩越(ぼんまおつ)を両親と決めて下降し、その晩に成道します。

 そのころ、大迦葉(だいかしょう)は山中にて涅槃(ねはん)することなく、釈迦の命を受けて、禅定し続けた状態でこの山中の石窟(せっくつ)で弥勒を待ちつづけていました。

 やがて、弥勒は弟子たちを伴い、頭蛇行(あらゆる煩悩を払い去って仏道を求めること。)をつづける大迦葉と会うのです。このとき、弥勒が大迦葉の僧迦梨(そうぎゃり:僧の着る三種の衣のうち、最も大きな袈裟のこと)を取って自ら身にまとうと、大迦葉の身体は砕け散って消えてしまうという内容です。

 この大迦葉から弥勒へと伝衣(でんね:法脈伝授の証として師から弟子に伝えられる法衣)された僧迦梨とは、八万四千年もの間、釈迦から大迦葉へ、そして弥勒菩薩へと伝承された仏法真理の象徴を意味しているとも云われています。

  

(四)弥勒三部経・弥勒大成仏経とは

 

 鳩摩羅什(くまらじゅう:344―423)は、中国、六朝時代の仏典の翻訳家であり、中央アジア亀茲国(きじこく)の僧として知られています。父はインド人、母は亀茲国王の妹とされ、前秦の亀茲攻略後、長安に迎えられ、訳経に従事し、法華経・阿弥陀経など三五部三百巻に及ぶ訳経は、旧訳において最も重要な地位を占め、三論宗の祖師とされる人物だったといいます。

 弥勒大成仏経では、釈迦の高弟である舎利弗(釈迦十大弟子の一人。十六羅漢の一。インドのマガダ国に生まれ、釈迦に師事し、その布教を助けた。智慧第一と称される。)が波沙山(はしょうさん)の山頂を釈迦と逍遥(しょうよう:散歩)していると、釈迦が無比の功徳をもつ人が出生するであろうという偈頌(げじゅ:経典中で、詩句の形式をとり、教理や仏・菩薩をほめたたえた言葉のこと)を説きます。

 それを聞いた者たちが集まり、その人のことを教えて欲しいと懇願したので、未来において翅頭(しとう)という美しい都市に、修梵摩(しょうぼんま)とその妻である梵摩越(ぼんまおつ)を両親として生まれてくる弥勒について話し始めます。

 そこで、釈迦が弟子たちに語る話は、『弥勒下生経』の内容とほぼ一致するといわれますが、大迦葉(だいかしょう)の僧迦梨(そうぎゃり)を受け取った後、弥勒は六万億年在世して涅槃し、荼毘(だび:死体を焼いて弔うこと)に付されると説きます。釈迦はこれらを説き終えて、受持(仏の教えを銘記して忘れないこと)をすすめると、集まってきた聴衆たちの中から歓声が上がり、本経は終わります。


(五)迦葉と弥勒、穴太の皇子と出口王仁三郎 

 

 シュタイナーは迦葉の伝説について、講義の中で次のように述べています。

 「東洋の偉大な導師である仏陀・釈迦牟尼仏は、深い叡智によって東洋に恵みをもたらしたその叡智は霊的存在の源泉から汲み取られたものであるために、人々の心を深い至福で燃え立たせた。
 
人類がまだ神界を見ることができたころ、人々の心に深い至福をもたらした神秘的――霊的世界の原初の叡智は、釈迦の時代まで人類のために取っておかれた。

 仏陀が説いた包括的な叡智を他の弟子たちは完全には理解できなかったが、偉大な弟子・迦葉は理解した。彼は仏陀の教えのなかに最も深く参入した者のひとりで、仏陀の最も重要な弟子のひとりであった。

 死が近づき、涅槃に入ろうとしていた迦葉はある険しい山に登り、ある洞穴に隠れた。この洞穴のなかの、彼の身体は死後も朽ちことなく残った。

 秘儀参入者たちのみが、どこに迦葉の身体が永眠しているかを知っている。秘密の場所に、偉大な秘儀参入者・迦葉の身体は永眠しているのである。

 仏陀はまえもって、いつか仏陀の後継者である、人類の新たな偉大な導師弥勒がやってくる、と語っていた。そして、弥勒は地上での人生の頂点に達したとき、迦葉のいる洞穴を探し出し、右手で開悟者迦葉の不朽の身体は、地上的存在から霊的存在へと変化する、と仏陀は語った。」

 (シュタイナー仏教論集 弥勒菩薩 迦葉の伝説 一九〇九年四月十日)


 以上から、シュタイナーの講義では、弥勒下生経における山中の石窟で弥勒を待つ大迦葉の奇跡を紹介していることに気付かされます。

上 :小幡神社 2013年8月
左下:高熊山の岩窟 2013年8月
右下:高熊山修業を再現する王仁三郎
下 :(クイックすると拡大します)

 一方、出口王仁三郎は二十七歳の時、京都府丹波穴太の霊山である高熊山で小松林命と芙蓉仙人に導かれて七日間の修行をしています。

 また王仁三郎の生家のすぐ近くには開化天皇を祀った小幡神社があり、穴太の皇子が高倉山(現在の高熊山のこと)に隠れて一生を送ったという伝説があるとされており、これが弥勒を待つ大迦葉の存在に重なるのです。

 さらに、王仁三郎が修行をした場所に岩窟があることなどからも、大迦葉と弥勒菩薩の経緯は王仁三郎の足跡と非常に符合点が多いのです。

 

 山中の石窟で弥勒菩薩を待つ大迦葉  
        →  高熊山で一生を送った穴太の皇子

 山中石窟で大迦葉の僧迦梨を受け取った弥勒菩薩
        →  高熊山の岩窟で修行をした王仁三郎

上画像は、現在の高熊山の岩窟付近 (クイックするとパノラマ画像が開きます)

     小幡神社 瑞泉苑 高熊山 (Googleマップより)

[操作方法]
 ・右上の【地図】を左クイックで地図、【航空写真】を左クイックで戻ります。
 ・左レバーを、【+】にスライドで拡大、【−】にスライドで縮小。
 ・【赤○】を左クイックすると、瑞泉苑、小幡神社、高熊山、と表示されます。
 
・左上の【黄色い人形】をマウスで左クイックしたまま、地図上に移動させると、
  青くなる場所が表示されます。マウスの左クイックを手放すと、
  そこでから見た画像(ストリート・ビュー)に切り替わります。
 ・画像を操作すると360°の景色、拡大&縮小、矢印方向への移動等々が可能です。
 ・右上の【×】を左クイックで、最初の航空写真に戻ります。


 以上のことから、シュタイナーの洞察や、王仁三郎の足跡から、共に『弥勒下生仏経』との関連性が最も深いと考えられます。


上画像は、現在の瑞泉苑 (クイックするとパノラマ画像が開きます)


(六)弥勒菩薩の名の由来


 それでは、釈迦はどういった意味を込めて「弥勒」と呼んだのでしょうか。弥勒とは、サンスクリット語のマトレーヤの音写(音を漢字に写したもの)であるとされています。

 さらに、マトレーヤの語源を辿ると、味方とか友人を意味する「ミトラ」にたどりつきます。この「ミトラ」は、古代イランのゾロアスター教の有力な神「ミスラ」の語源でもあり、ヴェーダ文献においてもミトラ神としてよく見かける名だとされています。 


 また、ミトラの派生語であるマイトリーも、友愛を意味し、仏教においては仏の衆生に対する慈しみを意味するとされます。そのため、マトレーヤには、本来「友愛・慈悲の教師」という意味があとされています。 

 シュタイナーも、弥勒菩薩の呼び名について「将来、弥勒仏となるこの菩薩を、東洋の神秘学では『善をもたらす者』と呼んでいる。」とも述べていますので、このマトレーヤの意味と同じと考えて良いかもしれません。

 

 ちなみに、韓国では弥勒を「ミロ」と呼び、中国では(七福神の)布袋「ホテイ」とも呼ばれているようです。さらに、ミトラ教の流れはゾロアスター教に受け継がれながら、マニ教(摩尼教)に受け継がれ、マニ教は弾圧を逃れるために、明教と名を改めて中国に受け継がれたと伝えられています。

 そのため、マニ教の創始者のマニと弥勒菩薩とを同一視している教派もあるとされます。

 

 上記の弥勒菩薩の名前の由来に「ミトラ」という言葉が登場しましたが、実は、この「ミトラ」の神話の中にも、シュタイナーの神智学と出口王仁三郎の大本の経綸に符合する点があるのです。

 

 そして、その弥勒の名前の由来となったミトラ神話が継承されたゾロアスター教、マニ教を人智学的に考察すると、そこにも出口王仁三郎の言動との深い関連性が見えてくるのです。




制作者関連

制 作:咲杜憩緩

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著書:ルドルフ・シュタイナー
   と出口王仁三郎の符合