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                The agreement of Rudolf Steiner and Onisaburo Deguchi
                   ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符合
                                                                   咲杜憩緩

 ■五■ 哲学と信仰・西洋と東洋            
             ・仏教とキリスト教の融合時代
 




(一)霊界の説明が霊能者によって異なる理由


 この■五■からは、高次の霊能者の符合点を明らかにすること以上に、これまでの内容を集結させて導き出される『宗教』の『宗』(根本とするもの。おおもと。の意)とは何なのか?・・・・・・といういような根源的な部分についてイメージを深めてゆきます。

 この本を執筆してゆくなかで、自ずと気付き、導き出された内容でもあるので、個人的には本書の核心的な部分と表現したいところですが、悪く言えば悟りのプロセスを無視した極論でしかありません。そのため、ある種の宗教のみ、宗派のみ、あるいは、シュタイナーのみ、王仁三郎のみ、を信じている方々には受け入れ難い内容かもしれませんので、その点を予めご理解いただければ幸いです。

 

シュタイナーは、古代エジプトのヘルメス(ゾロアスターの弟子)の秘儀参入者の霊的な宇宙の体験について次のように述べています。

 

 「ヘルメスの秘儀によって高次の世界に参入した魂も、秘儀参入において常に生じるように、自分は肉体とエーテル体の外にあると感じ、霊的事象と霊的存在の世界の内部にいると知ります。魂はこの世界を眺めまわします。さまざまな存在、事象が魂の前に現れます。

 足で歩きまわるようにではなく、全宇宙領域をぐるりと眺めるのです。そして、終わりだと感じるときがやってきます。まわりを海に囲まれた陸地を巡回し、やがて『岸』に着くような体験です。自分が最も外側の地点に着いたことを参入者は知ります。」
                (『秘儀参入の道』第三章)

 

 実は王仁三郎が霊界物語の「神示の宇宙」で小宇宙について語った内容にも、次のように説明されています。

霊界物語 神示の宇宙 より

 「又、地球 《所謂(いわゆる)地球は神示によれば円球ならずして寧(むし)ろ地平なれども、今説明の便利のため従来の如く仮りに地球と称しておく》は、四分の三まで水を以て覆はれあり。――後略――」 (霊界物語 第四巻 第四十六章 「神示の宇宙」)
  そして、 「周りを氷山に囲まれた地球(地平)」の図が示されているのです。


霊界物語 神示の宇宙 より

 したがって「神示の宇宙」の小宇宙についての口述に限れば、王仁三郎はこのヘルメスの秘儀の観点に立って述べていると推測されます。

(ヘルメスについて)

※第二章■三■(一)参照

※第二章■七■(三)参照 

              



 ただし、シュタイナーと王仁三郎の宇宙論は、その観点や論証方法がまったくと言って良いほど異なるため、符合する点は少ないと感じられます。

 一方、スウェーデンボルグは霊界の見え方について、次のような興味深い記述を残しています。

 「それから他世界へ霊がまぎれ込むと、上、中、下、三世界では方位、方角の基準が違っているためその霊自身にも、またその霊と想念をかわした霊の中にも方位の錯乱という混乱した現象が生じる、これは霊には、まさに死の苦しみを与えるほどのもので彼らはものを見る視力や視界、物事を判断する知性も混乱と錯覚の中にまきこまれてしまう。

 霊が他の霊の世界へ入ると方位の感覚に錯乱がおき自分はもちろん他の霊たちにもその苦痛を与えることになる理由は霊界の太陽の非常に変わった性質による。つまり霊界の太陽は上世界ではつねに太陽として上世界の霊たちの眼に映っているが、下世界では、つねに光の弱い月となって下世界の霊たちの眼に映るのである。

 そして太陽は上世界の霊の右眼に見え、月は下世界の霊の左眼に見えてその間には30度の角度の開きがあるため二つの世界には方位の違いが生ずるのだ。また中世界の霊にとっては、太陽は霊の霊的状態の如何によって太陽として右眼にみえたり、月となって左眼に見えたりする。このことは変化の海のところで述べたとおりだ。

 このようなことがあるため、上、中、下、三世界の間には交通、交流が許されていないのである。」
                    (私は霊界を見て来た)


 これに対して、王仁三郎の場合は、「霊界には神界、中界、幽界の三大境域がある。」 (霊の礎)としており、神界(天界・高天原)を霊国(月の国)と天国(日の国)に分けており、霊国を信真に象徴される世界であり、天国を愛善に象徴される世界であるとしています。



 ちなみに、スウェーデンボルグの「太陽は上世界の霊の右眼に見え、月は下世界の霊の左眼に見えて」という言葉は、古事記で伊邪那岐大神が「次に左の御目を洗ひたまふ時成りし神の名は、天照大御神。次に右の御目を洗ひたまふ時成りし神の御名は月読命。・・・」という内容を連想させます。 

 つまり(これも一つの推論にすぎませんが)、左目を洗う時は、右目に太陽が見え、右目を洗う時は左目に月が見えるということです。同時に、人間の魂の霊的次元や視点によって、霊界の様相が非常に変わってくることも理解できます。


 これは、物質界的な比喩を用いれば、物質界において一本の鉛筆を観察する場合、鉛筆とは「正面から見れば六角形」、「側面からみれば長方形」、「斜めから見れば六角柱」とでもいうように形が変化して見えるのと同じようなものだと考えられます。つまり、霊的価値観の違いは霊界においては立場の違いとなり、同一の事象や現象が異なった見え方をするということです。


 
さらに、鉛筆の詳細を知るために鉛筆の仕組みを分析すれば、鉛筆とは「黒鉛と粘土を高温で焼いたものを、樹木を乾燥した木材で包んだものである」とか、「炭素や水素や酸素などの無機物で合成した芯を、樹木という有機物で包んだものである」とも説明できます。そして、究極的には、鉛筆とは「電子・陽子・中性子の三位一体の働きが、多様に変化して形成されたものである」と説明することもできるわけです。


 そして、その全てが科学的には矛盾の無い正しい見解なのです。このことは、同一人物をピカソとシャガールとゴッホが描いた場合、その描写方法はまったく異なったものになるであろうことからも容易に理解できるはずです。

 また、コンピューターが、0と1という二進法によってあらゆる機能を果たしていることによっても、厳と瑞、という二神の伊都能売の働きによって、八百万の神々の働きが支えられていることを、多少なりとも想像でき得るはずです。

易の組織図 
易経(上)岩波文庫

 中国古典の易経も、大極を「陰と陽」の両儀に分け、陰と陽を組み合わせて「老陽、小陰、小陽、老陰」の四象となし、四象に陰と陽を配して「乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤」という八卦となし、八卦を二つ組み合わせて八×八=六十四卦とし、これによって森羅万象の法則を説くわけです。

 このように、霊界の外的様相は、視覚する者の霊的次元の高低によって別様に観察されるために、主神について一神論や二神論や三神論、或いは多神論として説明されたりするのは、実に当然のことなのです。

 これは、現代の科学者が、数学、物理学、化学、生物学といったように地上の物質世界を様々な観点から別様に解析したり、人体を内科、外科、精神科といった別の観点から治療を施したりしていることが当然であるように、霊的にも数学的霊学、物理学的霊学、化学的霊学、生物学的霊学の観点があるのと同じ道理です。

一霊四魂を示した図(霊界物語 第二十六章)


 そのため、現代において科学ではそれを認め、霊学ではそれを認めずに矛盾した内容であるとする見解こそが、実は非常に矛盾した偏狭な思想だと言うべきなのです。
 ※ 第一章■五■(二)参照

 こうしたことから、違う観点から説明をしたものや、同一の観点からであっても違う比喩や論証法を用いて説明したものに対して、符合しないからと言って霊的に矛盾していると考える必要はないはずなのです。むしろ、その矛盾の中にこそ霊的観点の個性と多様性が表現されているともいえるのです。
※ ルドルフ・シュタイナーと人智学協会(二)参照

 以上から、仮に出口王仁三郎かシュタイナーもしくは、他の見霊者や宗教家のみの観点を絶対とし、他の観点の一切を排除する人がいるとすれば、それは文系か理系か芸術系か、あるいは体育会系かという一個人的な単なる好みや価値観に由来する感情論による選択でしかないというべきなのです。
 

 出口日出麿氏は、次のようにも述べています。

 「すべて霊的事実を判断する場合には、よほど明敏なる直観力を持っておらねばならぬ。すべて霊的の事柄は、現界へ対してはある比喩であり暗示である。あやしい霊眼などを信じきっていると、ついにはとんだ目に会わされることが往々ある。これが霊眼そのままを信じて、正しき審神をなさないためである。

 現界にもピンからキリまであるように、霊界にも無限上より無限下まである。――中略――真の信仰にはいった人は、あくまでも現界的に、全人類の幸福をきたすべく活躍するものである。

 いったん霊界の存在を知り、死後の霊魂の存続をさとった人であるならば、も早これ以上霊界の諸事情に通じようとあせるのは無駄である。なんとなれば、霊界は無限であって、いくら研究したしたところでその真相を知りつくせるものではない。

 いわんや、吾が聖霊を中有界におきながら、天国の模様を知らんとするのは、あたかも地上から恒星を調査せんとするようなものであり、厳寒に凍死せんとしている際に、春陽のうららかさを謳わんとあせっているようなものである。――後略――」
                    (信仰雑話・霊的事実の判断より)

 

(二)宗教的信仰と哲学的理性の融合時代

 出口王仁三郎やシュタイナーがこの世に生を受けていた十九世紀の後半、ロンドンにはA・ファーニスという霊媒がいました。

 

 彼は一八九六年頃、イタリア人貴族の霊であるフランチェツォから霊界の様相を聞いて「A Wanderer in The Spirit Lands」(邦語訳書・スピリットランド 地上と霊界の純愛物語)という霊界の探検記を記し、当時、英国のベストセラーになっています。

 そこには、次のような言葉が綴られています。

 

 「したがってある領域を描写する場合には、君らは自分で見て来たことは描写し告げることができる。しかし、同じ領域でも他の部分を見た者は全く異なった内容を描写するであろうから、何事にも極端に限られた見方しかしない地上の人々は、同じ領域のことを異なる内容で描写するのはおかしい、それは両方とも間違っているからだと言うであろう。」

 これについても、先の鉛筆の比喩と同じように考えてよいと思います。また、霊界における地球の様子についても次のように語られています。

 

 「霊界では惑星の地球のように表面が丸くないので、地平線にある物が消えて見えなくなることはありませんし、地と空が最後に出会うようなこともありません。その代わり、空は頭上にある大きな天蓋(てんがい)としてあり、頭上にあるサークルは地平線にある山々の頂に懸る高原のようですが、その山々の頂に到達すると目の前には新しい国が広がっています。」

 

 こうした見解は出口王仁三郎の霊界物語の第四十七巻から四十八巻の治国別と竜公の体験を連想させる内容です。

 そして、フランチェツォは、霊界の思想の原理について次のように語っています。

 

 「しかし今や、その魂が測ることのできない無限の宇宙が存在し、その宇宙に囲まれて人間は存在していることを自覚し始めました。さらに、この宇宙には多くの神秘が隠されていて、理性だけでは到底説明できないと自覚しています。人はもう一度信仰の世界へ戻りつつあり、その信仰を理性と一体化し、お互いが支え合うことができるようにしようとしています。

 

 信仰と理性は霊界の二つの異なった思想領域の中心的思想原理なのです。信仰は宗教ないしは教会精神の活動原理であり、理性は哲学のそれです。この二つは当初は、お互いに敵対するものとして現われましたが、しだいに一つの人格の中で心を発展させるために協力し合えることがわかってきたのです。二つが平等に働くとき、心は均衡のとれた状態で存在できるのです。」

 

 「盲目的な信仰では誤謬を避けることはできません。多くの宗教迫害の歴史は確かにそのことを証明しています。偉大なる発見をした地上の人物たちは皆道徳的な力と知性の力の両方が均等しています。完成した人間や天使と言われる存在は、あらゆる特質が最高度に発達した魂の持ち主なのです。」

 

           信仰 ⇔ 理性

            ↓(均衡)↓   

           宗教 ⇔ 哲学

              ↓(均衡)↓

                道徳的な力 ⇔ 知性の力

   

 イタリア人貴族だった霊フランチェツォのこうした言葉は、宗教的な信仰の要素の強い王仁三郎と哲学的な理性の要素の強いシュタイナーという双方の言葉を理解できる今日の私たちには、非常に重要な見解であると感じられます。

 また、これはイエス・ベン・パンディラに始まった弥勒仏への流れと、ローゼンクロイツに始まった薔薇十字会の流れとの合流ということもできます。
※ 第一章■七■参照

 

 さらに、主については強い口調で、次のように告げています。

 

 「おお、希望の同胞よ!人は、その矮小な器で全能者の力を計ることができようか?人は神の大いなる慈悲に制限を与え、どれほど罪が大きくても、その嘆きの中にいる罪に向って、神の慈悲は汝には与えられないと言うことができようか?神お一人が罪を宣告することができるし、また神お一人が赦すことができるのである。――中略――

 われらの神の善と慈悲は何と偉大であろうか、どれほど長く苦悩されてきたことか、しかもその怒りをどれほど遅らせておられることか!またその声は多くの天使と仕える霊によるラッパの音と共に、悔い改めと慈悲を求める全てに向って、慈悲はつねに与えられ、また全面的かつ無条件に全ての求める者、そのため真理に努力する者に赦しが与えられていると叫んでいるのである。」

 

 こうした言葉は、諸宗教において主神が化身して霊界の裁神となっていること、また 「天地(てんち)の御神様(おんかみさま)に御詫(おわ)びが第一等であるぞよ。御詫びが叶えば結構になるが、此の世の人民、天地の御無礼は言い尽くされぬぞよ。御詫び致せば赦してやるぞよ。」という大本神諭、『修証義』第ニ章「懺悔滅罪」 などの言葉を想起させます。
 ※ 第三章■一■(十)参照

 

 さらに、地上の大きな戦争に際して、霊界でも天使と悪魔との激しい戦いがあったことを告げています。

 「悪霊たちの指揮者が戦いに軍勢を駆り立てようとしても、もう無駄でした。彼らははるかに強大な軍勢が敵対していたからです。彼らは、この天の軍勢の輝きよって投げ返され、暗く邪悪な霧のように沈んでしまい、彼らが出てきた暗黒の霊界にまで追い返されてしまいました。」

 

 そして、この天の光り輝く天使たちは、決して相手を殺さず、強い善の意志の力によって悪に相対していると語られています。これは、大本神諭の「三千世界の大戦い」という言葉や、霊界物語の三五教とウラル教の戦い、ミトラ神話の光神と闇神の戦いなどを想起させます。

 

 このように考えると、このロンドンに生きたA・ファーニスという霊媒は、王仁三郎やシュタイナーと同時代を生きた人物であることからも、世の立替えを告げる国常立尊の使った神柱の一人であったとも感じさせられます。

 

 また、アメリカにおいては、1901年に当時24歳であったエドガー・ケーシー(1877-1945)がリーディングを開始しており、他界するまでの間にカルマや太古の歴史について一万五千件に及ぶ膨大な数のリーディングを残していますが、これも決して無関係ではないと思われます。

 

 実際、シュタイナーがキリスト教的試練を克服し、またアカシャ年代記を読み解くことができるようになったのも、二十世紀初頭であり、ケーシーと同じ時期なのです。また、シュタイナーとケーシーの飲食物(例えばスフィンクスやジャガイモなど)についての見解にも一致する点がみられるのです。(シュタイナーとケーシーのスフィンクスの見解についての符合は、第四章■二■(四)を参照)

 

 そして、出口王仁三郎が30歳の頃、素盞鳴尊の霊が降り、出口直に降りた天照大御神の霊と火水の戦いが起こっていたのも1901年の事です。

 

1901年頃                     

R・シュタイナー 1861−1925 40歳 神智学協会で講義を行う

出口王仁三郎  1871−1948 30歳  火水の戦い

エドガー・ケーシー1877−1945 24歳 リーディングを開始

 

 このように、私たちはこうした世界各地で偉大な霊能者が同時期に本格的な活動を開始したことを知る時、カリ・ユガ(暗黒時代)が十九世紀と共に終わり、新たな霊的光の時代(日の出=冥界のオシリスが天界の太陽神ラーとして活動する夜明けの時)を迎えたという事実をより大きな世界的スケールで把握することができるのです。

※カリ・ユガについては、第二章■二■(四) 参照

 実際、出口王仁三郎は、大正十四年八月十五日(一九二五年)に次のようにも語っています。 

 「ここにおいて国祖の神霊はこの惨状を座視するに忍びず、神より選まれたる清浄無垢なる霊身・国照姫命をして深意伝達の機関となし、万有救済の聖業をたくされたのであります。故に三五(あなない)の教えは根本の大神の聖慮を奉戴し、神界よりこの地上に天降したまえる十二の神柱を集め、霊主体従的国土を建設常闇の世をして最初の黄金世界に復帰せしむる御神業に仕へまつるべき大責任をお任せになったのであります。
 
今や天運循環の神律によって、世界各地に精神的救世主が現れております。ついては日出雄(王仁三郎自身のこと)主の神の神示に従い、到底この小さき教団(大本教団の意)のみの神柱となっていることは出来ないようになりました。――後略――」 
       (霊界物語 特別編・入蒙記・第二章「神示の経綸」)
         (仏説法滅尽教と弥勒下生 第五編 (二) 

 それは、科学的法則性が実験や観察、統計などによって真実であると証明されるように、霊的法則性も時代に連動した形で、証言内容が一致しているという多くの事実によって、その実在を明確に証明しているのです。

 

 1900年当時を振り返り、シュタイナーは次のように述べています。

 「キリスト教をめぐって、言葉の意味上、後の発言と大いに矛盾する表現をした、まさにその時に、キリスト教の真実が私の心に内的認識現象として芽吹き始めた。その芽は世紀の転換期(十九世紀から二十世紀への転換期)にいよいよ力強く成長した。

この世紀の転換期に先立って起ったのが、前述した(アーリマンによる)心の試練である。最も内的な最も真剣な認識の祭典の渦中にゴルゴタの秘蹟に直面したことが、私の心の成長にとって重要な意味を持っていたのである。」
                  
(シュタイナー自伝 下)

 「世紀の転換が人類に新しい霊の光をもたらすに違いないという確信が、当時、私の心をよぎった。私には、人間の思考と意志を霊から切り離そうとする機運が最高潮に達している、と思われた。人類発展の生成過程に激烈な変化が現われるのは、不可避であると思われた。」
                   (シュタイナー自伝 下)

 

 そして大本神諭には次のように書かれています。

 「皆神の仕組であるから、我が我がと思うて致して居ることが、皆艮の金神が、化かして使うて居るのであるぞよ。此の神は、独り手柄をして喜ぶような神で無いぞよ。」 
                     (明治二十五年旧正月)

 「世界に大きな事や変わりた事が出て来るのは、皆この金神の渡る橋で在るから、世界の出来事を考えたら、神の仕組が判りて来て、誠の改心が出来るぞよ。世界には、誠の者を神が借りて居るから、漸々(だんだん)結構が判りて来るぞよ。」    
                   (明治二十六年月日不詳)

 

 

(三)絶対神の愛によって得られる信教の自由

 この(三)には、人智学と大本の書籍から私が得た宗教観を凝縮させているつもりです。多少長いですが、(三)を理解していただけると、これ以降、最後まで面白く読み進める事ができるのではないかと思います・・・。

 シュタイナーは霊的真理について、次のように語っています。

 「『人はみな真理に向かって努力しているではないか。だが、さまざまな観点があるゆえに、闘争が生じ、分裂が生じるようになるのではないか。』と反論されるかもしれません。

 ――このような考えは、真理について十分に根本的な認識がなされていないために生じます。真理は唯一でしかありえないということを、まず認識しなければなりません。真理は国民投票に依存するようなものではありません。真理はそれ自体において真理なものなのです。

 ――中略――三角形の内角の和は180度であるかどうかを投票で決めたりするでしょうか。百万人の人々が承認しようと、誰一人承認しまいと、この定理は真理なのです。」  
              
(薔薇十字会の神智学・第十三章)

 

 そうすると、先の(一)(二)の論理とは矛盾すると感じるかもしれません。しかし、「三角形の内角の和=180度」という真理は唯一ですが、「三角形の面積=底辺×高さ÷2」も唯一の真理であり、「直角三角形の斜辺の2乗=底辺の2乗+高さの2乗」も唯一の真理なのです。そして、これらの定理の2という数字に、他の数字を入れることは全て真理ではなく過ちなのです。

 

 したがって、「真理は一つのみですが、その唯一の真理は無数に存在する」ということにもなります。そのため、先の(一)(二)では「霊的な真理は無数にあるということを矛盾していると考える必要は無い」ことを説明し、同時に「複数の霊能者の語った霊的真理の全てを符合させたり一致させたりする必要もない」ことを述べてきたつもりです。

 

 そこで今度は視点を変えて、この無数に存在する真理ではなく、『全てを包括する真理』につい考察してゆきましょう。

 シュタイナーや王仁三郎、スウェーデンボルグ、A・ファーニスらが述べているように、『霊界には多彩な階層や団体が存在する』というのは、多くの霊能者の共通の真理です。

 また、顕幽一致の法則から、「霊界の多彩な階層が現実界に移写しているとすれば、現実界にも多彩な階層の宗教団体の存在を認める必要がある」ことになります。この法則をふまえて、次に一つのイメージをしてみましょう。

 

 例えば、ある人が「私の信じる絶対神の教えのみが絶対教であり、他の宗教は全て間違っているし、それを信じる人間たちも間違っているから、絶対に信じてはいけない!」 と断言したとします。すると、その人は「全知全能の絶対神は、間違った人間を創造してしまい、信じてはいけない間違った宗教を放任してしまっている。」ことになります。

 

 そうだとすると、「『間違った人間を創造し、間違った宗教を放任してしまうような絶対神』を信仰する人間も、間違った宗教を信じたまま放任されている可能性がある。」ことを認めざるをえなくなります。この世の中に完璧で全智全能な人間は存在しないわけですから、これは当然のことなのです。

 

 これでは、絶対神を信じる人自身が絶対性を失うため、明らかに自己矛盾していることになります。また、間接的に「(私は絶対に正しいのに)絶対神は過ちを放任し罪を犯している。」と言っていることになってしまうため、結果として絶対神を冒涜することにもなるのです。歴史的に見ても、この過ちによって多くの独裁主義的な国家や宗教団体が自己矛盾を露呈し、内部分裂や崩壊を余儀なくされています。

 

 そのため、絶対神の絶対性を前提とした場合には、必然的に現存する全存在に対する全面的な肯定のみしか定義できなくなるはずなのです。すると、出口日出麿氏の記したように「この世は無限の肯定であって、否定はその過程に過ぎない。」「否定は、更によりよき肯定を得んがためである。」(信仰覚書・第1巻)ということが理解できてくるのです。

 

 つまり、不完全な人間が絶対神への絶対的信仰を定義した場合、全てを肯定的に考える必然性が生じるのです。これをさらに要約すれば、「全否定は、全肯定に通ずる」(出口日出麿の言葉)ことになるのです。

 このため、宗教における否定的な言葉(言霊)とは、神を否定する人を肯定させるためや、低次の否定的認識を否定することで高次の肯定的認識に導くために使用されるべきなのです。

 

 そして、これは「人を裁くな、自分が神に裁かれないためである。」(キリストの福音)という肯定のための否定である福音に通じるのです。

 

 このことから、もし現実界においても絶対神の絶対性を全肯定的に定義するとすれば、「人間は発育途上の存在であり、絶対神によって御魂の成長に応じた人生や宗教に導かれ、御魂を向上させているはずである。」という大前提に至ることになります。

 

 同時にそれは、人間の親が幼稚園児には幼稚園に通わせ、大学生には大学に通わせるように、「絶対神は、様々な発育段階(霊層)にある全ての人類の御魂の成長のために、多種多様な人生経験や信仰の多様性を赦されているはずである。」ということになります。

 

 したがって、「たとえ優れた大学生が、低次元の幼稚園や小学校のような宗教の必要性を感じなくとも、その大学生も幼稚園や小学校を経て大学生になれたのだから、絶対神は幼稚園や小学校のような低次の宗教の存在の必要性をも認めているはずである。」ことになります。

 同時に、「幼稚園児にとっては、今は難解な大学生の教科書を必要と感じられなくても、いつか理解できるようになり必要になる時が来るはずである。」という認識になるのです。

 

 それによって、「絶対神は全ての人類を肯定し、愛し、赦し、育んでいる存在である。」とか、「この世に未熟な人間が存在できることこそが、絶対神が絶対愛の存在であるという証拠である。」という結論に至るのです。

 

 同時に、「現実界の父と母の愛によって子を身篭るように、全ての人間は絶対神の愛によって創造され、育てられてきた。」ことになります。大本神諭にも「人民は皆神の子であるから、親が子を思うのと同一事じゃ。人民歓びて呉(く)れると、神も勇むぞよ。」(明治三十三年旧十二月十三日)とあります。

 

 そう考えると、『全ての人には絶対神の愛の下に全肯定という自由が与えられている』ということになります。ただし、これを実現するためにはもう一つの重要な定義が必要になります。それは、『全ての人は絶対神の愛の下に与えられている他者の自由を犯してはならない』という定義です。それは、絶対でない私たち人間にとっては、最もシンプルにして、最も達成が困難な共通の根源的宗教理念といえるかもしれません。

 

 なぜなら、自己の自由と他者の自由を共に両立させるには、自我の主張を断念し、相互の思想の違いや過ちを寛容し赦し合い、相互に無条件に愛を与え合うことができる高次の博愛的精神を獲得する必要があるからです。

 

 これは新約聖書では「敵を愛せよ」「求める者には与えよ、借りようとする者を断るな」という福音、あるいは黄金率と呼ばれる「何事によらず自分にしてもらいたいと思うことを、あなた達もそのように人にしなさい。」という福音で表現されています。

 

 このことは、シュタイナーがゲーテの言葉を用いて、詩的に表現している次の言葉にも関連してくるはずです。

すべての存在を拘束するちからから  

自分を自由にできるのは自己克服のちからだけだ。

自己を克服できた人は  みずからの真実を見出す。

だから人類はキリストの中に  人類の真実を見出すことができる。

              (シュタイナーコレクション5・第二部)

 つまり、他者の自由を束縛しないためには利己心や執着を克服することが不可欠であり、利己心の克服によって他者を自由にすることは、カルマ的には自己の内に真の霊的自由を獲得することになるのです。

 

 ただし、その時に獲得した自由とは、主神のため、社会全体のために役立ち喜ばれるような自分であることを喜び望む意識であるために、利己的慾望によって他者を束縛したり害したりするような行動は存在し得ないのです。それこそが絶対神の愛に貫かれた高次の霊界であり、天国、高天原、極楽浄土における相互の愛と自由と歓喜の世界のはずなのです。

 

 これはマニ教における「光の一部が悪の中に入ることによって、闇の国は光の国によって罰せられるのではなく、むしろ寛大さによって征服されるべきである」という洞察にも通じていることがわかります。
第二章■四■(三)参照

 

 歴史を辿れば、偉大な聖者は皆そうした博愛と非暴力主義や無抵抗主義の信仰を説き、それを貫き通してきたのですが、結局、吾々のような発育途上で利己心が強く、物質欲や支配欲を制御できない未熟な人間には、その実践が極めて難しいのです。そのために、様々な修行を必要とし、種々の戒律や法律が生じ、それを守り実践することで個々が理想的人格と理想的な社会秩序の実現を目指す必要性が生じたのです。

 

 これが諸宗教の教理経論の違いや民族間の文化や風習の違いとなり、次第にその法や戒律を厳守することが絶対神への忠誠であるかのように固定観念的に考えるようになっていったのです。

 そして、いつしか法主徳従や、戒主愛従といった内面性の伴わない信仰になり、徳と愛による赦しや相互理解を得られなくし、法や戒律によって心の自由を失い、双方の信じる宗教や法律、戒律の違いで争い、相互に迫害を繰り返し、自ら負のカルマを担うようになっていったのです。

 つまり、宗教と信仰における体主霊従の悪の世です。

 こうして、すべての宗教信徒が崇拝する唯一であるはずの絶対神は、神自らは宗教によって人を差別しないにも関わらず、人が宗教によって神を差別し、人を否定するようになってしまったのです。

 

 このことについては、第二章でも取り上げたように出口王仁三郎の次の言葉に集約されています。

 「仁慈無限なる神様の方より、天地間の万物を御覧になった時は、一さいの神人禽獣虫魚草木にいたるまで、一として善ならざるはなく、愛ならざるはないのであります。ただ、人間としての行為の上において、誤解より生ずる諸多の罪悪が不知不識のあいだに発生しそれが邪気となり、天地間を汚濁し曇らせ、みづから神をけがし道を破り、自業自得的に災禍を招くにいたるものであります。」
                 (霊界物語十三巻「モノログ」)

 

 勿論、以上は人間には理解できない絶対神と、本来は言葉で表現できない絶対愛についての比喩による概念に過ぎません。ただ、『全てを包括する真理』についてこのように考えた場合、地球上において多種多様な価値観を持つ人類が、真に宗教的な世界平和を望むとするならば、次のように言うことができると思います。

 『絶対神が絶対であるにも関わらず、この世に吾々のような未熟な人間が存在できるのは、全ての人々が絶対神の絶対的な愛と守護によって生かされているからに他ならない。そのため、全人類には絶対神の信仰の基に自由である権利が与えられていることになる。

 しかし、それは同時に、個々の人間は、絶対神に与えられている他の全ての人々の自由を侵してはならないことをも意味している。したがって、絶対神を信じることとは、信教の自由を認めることに他ならない。また、絶対神が絶対であるならば、絶対神の赦していない宗教はこの世に絶対に存在し得ないはずである。

 したがって、すべての宗教信徒は、絶対神は絶対であるが故に、未熟な全ての宗教の存在を偉大な愛によって育みながら許容されていることを認める必要がある。そのため、各々の宗教信徒は、他のすべての宗教とその信仰者を肯定する寛容な態度をとることこそが、自己の信じる絶対神の絶対愛と赦しを自ら実証することになる。

 そして、その時こそ、あらゆる宗教徒の間に絶対神の偉大な愛が流れ込み、あらゆる宗教徒同士の争いに終止符が打たれ、恒久的な和解の道が開かれることになる。また、それこそが全ての宗教が求める地上天国の礎となるはずである。』

 

 

(四)蓮の花 ・ 薔薇の花 ・ 梅の花 の象徴

 先の(三)のようなイメージで、至仁至愛によってすべての宗教を肯定的に受け入れる努力をしていったとします。

すると、理想と現実との深溝の間で生きる私たちは、多くの真理や説法を学び、肯定的に受け入れることができればできるほど比較する対象が増えるので、その分だけ、善悪、正邪、美醜、真偽、愛憎の判断をより明確に悟れるようになってゆきます。

 こうして様々な経験と学びを通して、私たちは少しずつ自分の判断で取捨選択しながら、善、正、美、真、愛という方向に進んで行けるようになるわけです。

 このことは、論語においては 「子張、禄(ろく:俸給)を干(もと)めんことを学ぶ。子の日わく、多くを聞きて疑わしきを闕(か=止めること)き、慎みてその余りを言えば、則ち尤(とがめ) 寡(すく)なし。多くを見て殆(あやう)きを闕き、慎みて其の余りを行なえば、則ち悔(くい)寡(すく)なし。言に尤寡なく行に悔寡なければ、禄は其の中に在り。」(論語・巻第一・為政第二)という言葉に良く表わされています。

 

 それは、この世の善悪、正邪、真偽の混合体の中から無数にある真理のみを抽出し、自身の精神を純化することであり、悟りの道であり、身魂研きであり、神の道だとも言えます。そして、これは論証の方法は異なるものの、光が闇に混じ、善が悪を改心させるというマニ教の原理と同じことを示していることが解ると思います。
 ※ 第二章■四■(三)参照

 

 そして、このマニ教の原理を理解した時、ムー大陸の文明や古代エジプトや仏教では、これを『泥沼に根を伸ばして水面に美しく咲く蓮の花』に譬えて象徴してきたことに気付かされます。

 ちなみに、「失われたムー大陸」の著者チャーチワードは、「ハスの花はムーを象徴する花である。地上に咲いた最初の花であるとの言い伝えから、母なる国の象徴とされたのである」としています。

 

 また、王仁三郎が「人間は木から生まれた」(水鏡)、「神は大全宇宙を創造し、宇宙の一切の花とし、実として人間を造った。」 (水鏡)とし、大本神諭で「三ぜん世界一同に開く梅の花」と艮の金神が宣言された意味も、違った角度から理解できると思います。

※ 第二章 ■二■ (五) 参照


 そして、クリスティアン・ローゼンクロイツを祖師とする薔薇十字会においては、『十字架から現われる不死の個我を象徴する薔薇』ということになると考えられます。

 つまり、無花果(オシリス)の秘儀に到達した人間の個我,、あるいはその修行のための象徴は、仏教徒では蓮の花、大本では白梅の花、薔薇十字会では薔薇の花に表象されているのです。

※ 第二章■七■(五)〜 (八)参照
 

 善悪、正邪、美醜、真偽、愛憎が清濁混じている物質界をこのような観点で意識できるようになると、私たちがこの世に生きること自体が経験と学びを積んで、清濁混じた娑婆世界に根を張り、花と実という霊魂の栄養分を蓄えているわけですから、究極的には、宗教団体に関わらずとも”神仏を信じる者”にとっては「生きることそのものが宗教」であり「人生そのものが身魂磨きの修行」であると言えるのです。

 

 その意味では、クリシュナムルティが一九二九年に、「真理とは道なき地平であり、どんな宗教も組織化しえない。」と述べた『星の教団の解散宣言』は、宗教の団体化に対する至言といえます。

 

 これを禅語で表現すれば、無門関・十九の「平常心是れ道」というのと同じです。人は生まれながらに仏門をくぐらずとも既に仏道を歩んでいるのですが、せっかくその尊い無門の仏道を歩んでいるのに、そのことが解らないで仏の道を探し求めて迷っているというのが世の常、人の常なのです。

 

 また、白隠和尚の座禅和讃にある「衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ、譬(たと)えば水の中に居て、渇(咽の渇き)を叫ぶが如くなり、長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず」というのも同じ意に解せるはずです。

 そして、この「長者の子」の譬えは、妙法蓮華経・信解品に通じているのです。さらに、この信解品が理解できると、ルカ福音書の「放蕩息子の譬」も同じような解釈で理解できるはずです。

 

 こうしたことに気付けると、絶対神の愛と救いは宗教団体の内にも外にも平等に存在し、地球の内にも外にも存在し、宇宙に遍く充満していることが解るのです。それゆえ極論をいえば、この世に存在できていること自体が、絶対神に愛され守られ、生きることを許されている証拠であるということになります。

 

 そのため、神仏の存在を強く信じる者は、「アーメン」「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」「天照大神惟神霊幸倍坐世」といった数ある真言のいずれかを唱えるだけでも、黙して参禅するだけでも即座に霊的に救済されるはずなのです。

 

 実際、霊界物語においても、三千彦(三五教の宣伝師)という登場人物は、「三五教といひ、バラモン教といふも元を正せば一つの神様でございますから、教には勝劣はございますまい。ただ道を奉ずるものの心によって、御神徳の現れに大小高下の区別がつくだけのものです。」 (第五十六巻十八章)と語っています。

 

 さらに第二十巻・第十一章においても、「たとえバラモン教でも、三五教でも、誠の道には変わりはありませぬ。私は誠の道の宣伝使です。三五教、バラモン教、またアルプス教というやうな区別した名称にあまり重きをおいてはおりませぬ。」とあるのです。

※ 第四章■四■(八)参照

 

 しかしながら、皮肉なことに神仏の道に悩み迷う吾々凡人は、自分に理解でき、納得し得るレベルの宗教組織や団体に救いを求めるので、宗教家は吾々の霊層相応に神仏の様々な教えを説く必要性が生ずるわけです。

 

 そう考えると、やはり現代の世の中には多くの人々の霊層に相応した宗教団体が必要ということにもなるのです。したがって、極論としては本来「真理とは道なき地平であり、どんな宗教も組織化しえない。」はずなのですが、人類全体がそうなる過程においては、様々な宗教が必要であり、それが組織化し団体化することも肯定するべきであるので、宗教の団体化についても「全否定は全肯定に通ず」という結論に至るのです。

 

 シルバーバーチの霊訓にも次のような対話があります。

 

問 ――私はどのスピリチュアリスト教会にも所属していないのですが・・・・・・

答 「それが何か不都合でもしょうじましたか」

問 ――私はどういうということはありません。多分あなたにも・・・・・・

答 「わたしもどうということはありませんよ」

問 ――どういうわけか私は教会に所属する気になれないのです。何かが私を躊躇(ちゅうしょ)させるのです。何なのでしょうか?

答 「人間には自由意志と責任があるというのが、私たちの基本理念です。自分の意志を自由に表現する機能を大霊から授かっています。糸であやつられる人形ではないということです。自由意志があるということです。もちろん、ある一定範囲内でのことです。つまり、あなたが到達した進化の程度に応じて行使できる範囲がきまるのです。

 もしもあなたが気に入らないと思えば、拒否なさればよいのです。あなたにはもっと別の進むべき道があるのかもしれません。霊界のほうから強制することはありません。援助を求めている人たちにだけ援助します。ただし、あなたが選択なさることについての責任は、すべてあなたにあることにもなります。」
 
        (古代霊シルバーバーチ 最後の啓示 ・ 二章)

 

 その他にも、次のような言葉もあります。

 「大霊が無限であるということは、大霊に近づく道も無限にあるということを意味します。たった一本の道というものはありません。また、どこかの一個の団体の専売特許でもありません。私たちは“今はやりの”とか、“伝統的な”といった方法にはこだわりません。むしろ非伝統的であることに誇りを覚えるくらいです。伝統的ということは古くさいということを意味し、進歩がないということの証明でもあります。

 たとえばチャクラについて説くことは必ずしも必要とは考えません。肝心なことは、特別な人(霊能者)に賦与されている霊的能力を発現させることです。誠実さを動機とし、人のためにということをモットーとしておれば、道を誤ることはありません。

 ご自身でこうだと思うことを実践なさることです。間違っていれば、すぐに気づきます。大霊は各自に判断のモニター装置を植え込んでくださっています。道から外れかけていると、すぐに警告を発してくれます。目的さえ誠実であれば、必ず良い結果が得られます。――後略――」
         (古代霊シルバーバーチ 最後の啓示 ・ 二章)


 つまり、私たちは他人の自由を束縛しないという前提であれば(この前提も既に宗教ですが)、自己の自由においてどのような宗教を信じても善いはずですし、今信じている宗教、あるいは信じていたい宗教が、その人にとって必要な教えのはずなのですから、それを改宗する必要も無いはずなのです。

 それと同時に、他人を無理に引き込む必要もないはずですし、やっぱり自分には合わないと感じたら他教に改宗すれば良いはずですし、宗教に洗脳されるのが怖いのなら、一人や二人の宗教家の書籍ではなく、五人、十人の宗教家の書籍を読んでしまえば、どれも要点は共通し符合していることが解ってきますし、次第にその時々で、自分に必要な教えを自由に選択し活用できるようになってくるはずです。そうして、各自がそれぞれの宗教の山道から他教と同じ頂上を目指せば善いはずなのです。

 この「信教の自由」という言葉に対しては、次の2点の疑念がわいてきます。

その一つは、「信教の自由などと言っているが、そんな呑気な事を言っているからイスラム教の極一部に見られる過激派組織のように、他の宗教や民族を非難し、テロや侵略を行うような宗教の存在が無くならないのだ。」というものです。

 この疑念に対しては、次のように答えることもできると思います。

 「テロや侵略によって他の宗教や、他の民族の存在を否定する組織の中には、正に『信教の自由』という選択肢がないからこそ、自分と同じ宗教、同じ民族でない宗教や民族を否定し敵対せざるを得ないのだ。『信教の自由がない宗教』とは、『愛』や『赦し』や『寛容』のない宗教のようなものであり、それは愛という真理の源泉を枯渇させた戒律の奴隷制度のようなものでしかなく、もはや『宗教』と呼ぶべきものではない。」

 そのことは、出口王仁三郎の霊界物語等の著書においても、ルドルフ・シュタイナーの人智学書においても、極めて多くの宗教家・哲学者の書籍のエッセンスが組み込まれていることでも理解できるはずです。

 

 出口王仁三郎は月鏡 のなかで、次のように述べています。

 「人間は天から降ったのか、それとも土から生まれたのか。天から降ったものなら、かならず天国へ昇り帰るはずだ、地からうまれたものなら、ふたたび地底に堕ちてゆくだろう。

 生まれない先と、死んだ後は、もはや人間ではない。人間を論ずるならば、人生でたくさんだ、死なんがために生まれたものは死んだがよい。

 寂滅為楽の宗門の好きな人間なら誰にも遠慮はいらぬ、ドシドシ寂滅して、楽と為すがよい。

 アダム、イブを人間の祖先と信じ、祖先の罪をひっかぶることの好きな人間は、自分を罪の子として、どこまでも謝罪し、一生罪人で暮らし、十字架を負うたがよい。

 人間はどうせ裸体(はだか)で生まれて、裸体で天国に復活するのだ、その間の人間の行路はなかなか面白いものだ。そこに人生の真価があるのだ。

 永遠に生きんとするには、第一に信仰の力がいる。その力は神に依れる力がもっとも強く、その言霊は大きくなくてはならぬ。

 人生に宗教があるのは、すべての樹草に花のあるようなものだ。花が咲いて、そしてりっぱな実がみのるのである。

 いづれにしても信教の自由だ、意志想念のままになる天地だ。天国に堕つるも、地獄に楽しむも、苦しむも、みずから罪人となって歓ぶも、泣くも、意思の自由だ。

 人間は各自勝手に宗教を選択するがよい。それがいわゆる信教の自由というものかも知れぬ。」 
           (月鏡 「意志想念のままになる天地」)

 

(五)絶対神の愛と人間(その1:自由と戦争)

 先の(三)のように「絶対神の絶対愛」と「人間である自己の未熟さ」という両極的な視点で、様々な事象を対比させることができれば、絶対神とは宗教の違いを差別することなく、個々人の身魂相応に平等に育ててくれている至善至愛の魂の親だと感じられてきます。また、絶対神の子供である私たちの苦悶葛藤の一切は、絶対神からの試験問題であると受け取ることもできます。

 

 例えば、「絶対神が完全であるにも関わらず戦争が起こるのは、絶対神が戦争を肯定し、それを放任しているからなのか?」という問いに苦悶葛藤したとします。この問題に対しては、次のような解答も可能だと思います。

 

 絶対神が完全であるとすれば、『戦争すらも人類の学びであり、教訓なのだ』と受け取ることもできます。ただし、人類がそこから学ぶ教訓は『戦争は、決して繰り返してはならない悪、邪、醜、偽、憎である、という真理』のはずです。ですから、それが悟れるまで、人は戦争という誤解答を繰り返して苦しむ可能性があるでしょうし、神は教育のために戦争の可能性を奪わず、これを教材として与え続けるはずなのです。

 

 そうして、豊かな大地は穀物を育て人々の心身を満たしますが、化学兵器や核兵器で汚染された大地は人々を飢餓と病気と怨みと苦しみで満たす結果になることを学べた時、人類は半ば当然のように戦争や武力という誤った選択を放棄して豊かな大地の恵みをお互いに共有するべきである、という解答を選択するようになるはずです。

 

 実際、大本神諭には、「世界の今度の大戦争は、世界中の人民の改心の為めであるぞよ。萬古末代戦争(いくさ)はつまらん物であると云う事を、世界中の人民に覚(さと)らせる為めの戦争であるぞよ。」
(大正六年二月九日)とあるのです。

 

 また、霊界物語の登場人物は次のようにも語っています。

 

 「高山彦:『――前略―― 誠一つの心でをれば、世界は敵の影を見たいといつても見ることはできない。山河草木、人類鳥獣魚鼇(じんるいちょうじゅうぎょべつ)に至るまで、みな吾々の味方ばかりだ。人を見たら泥棒と思へなどどといふ猜疑心に駆られてゐる人間の目には、何もかも敵に見えるだろうが、吾々は神様にお任せした以上一人の敵もない。――後略――』。」
                (霊界物語 第二十七章 第七巻)

 

 したがって、仏教的に表現すれば、因(考え方)が善であれば善果(善い結果)となり、因が悪であれば悪果となるということですが、戦争の勝利が善果なのではなく、カルマの法則を考慮すれば戦争そのものを望むこと自体がすでに悪因であり、戦争をすること自体が悪果だということです。

 

 ここで、更にもっと根源的な問題について考えてみましょう。

 第二章でも触れましたが、シュタイナーは『薔薇十字会の神智学』の中で、神々(ヒエラルキア存在)の断念があったからこそ、神に反することができる悪魔(ルシファー)の存在が可能になったことを述べています。そして、この神に反逆することができる存在(悪魔)無しには、「自由」である可能性も生じえなかったはずなのだとして、次のように述べています

 

 「悪の原因は悪魔の中にではなく、神の中にあるのです。神が断念を行うことによって初めて、悪を世界にもたらす霊が出現したのです。――」

 

 「――神々は悪と苦の可能性なしに自由を創造すべきであったというのは、三角形は三つの角を持つべきではなかったというのと同じです。三つの角が三角形に必要なように、霊的存在の断念によって生じた悪の可能性が、自由には必要なのです。神々は悪を再び善に戻すことができるように、供犠の断念を通して不死を獲得しました。神々は悪を退けませんでした。悪のみが自由を与えることができるのです。

 神々が悪を斥けていたなら、世界は単調な、変化に乏しいものになっていたでしょう。自由を賦与するために、神々は悪を世に出現させねばなりませんでした。そして、悪を再び善に戻す力を獲得しなければなりませんでした。この力は断念によってのみ得られるのです。」
         
 (薔薇十字会の神智学 ・ V太陽紀か月紀へ)

 

 そのことは、人間の自由についても同様のことであり、もしも神が人間に対して悪を選択する余地を与えなかったとすれば、人間には「自由」という概念そのものが存在し得なかったはずです。

 

 そこで、「神の能力が絶対ならば、戦争を企む人間を裁き、罰し、戦争が起こらないようにするべきだし、神ならそうできるはずだ。それにも関わらず、戦争が起こるということは、そもそも神など存在しないのではないか。」という疑問については、次のようにイメージをすると回答が得られると思います。

 

 もしも、人間に戦争をする自由や可能性が無かったとしたら、人間は戦争と相対する平和や調和を望む意志も、愛情も生じえないはずです。同じように、人類の平和のために神々が人間から悪を選択できる自由を次々と取り上げ、人間の可能性を奪って行ったとすれば、人間の意志と行動は極限まで制限されてしまうので、悪を知ることもできなくなります。悪を知らなければ、善を理解することもできないので、当然、善を望む意志や愛情を育む場をも失うはずです。

 

 結果として、人類は個々人に備わっている「私」という意識、つまり『個我』が育たないので、野生動物と同じアストラル的な本能で生きるレベルの自由しか神に与えられなくなるはずです。すると、食物連鎖と生態系の法則通りに生きることになるので、地球環境問題に苦悩することも無くなるでしょう。しかしその半面で、せっかく美しい大自然に暮らしていても、動物的な自由の範囲内でしか環境を認識できないため、大自然の美しさに感動する芸術的感性もまったく育たないまま生きることになってしまうはずです。

 

 したがって、「もしも、神々が人間から戦争の可能性を奪ってしまうとすれば、人間には自身の意志で平和を選択する意志も育たなくなり、平和が善であるということすら思考する必要性もなくなり、平和に感謝したり感動することもできなくなるはずである。」という結論に至るのです。

 この点によって、「神々が悪を斥けていたなら、世界は単調な、変化に乏しいものになっていたでしょう。」というシュタイナーの言葉を、より強く実感できてくるはずです。

 すると、「人間には神霊と悪魔という存在を意識できる能力と可能性があり、信教の自由がある」ということは、「人間とは動物よりも高次の自我を持つ存在であり、神という至善・至仁・至愛・至美・至真なる存在を認識し向上してゆく可能性と自由が与えられている」ことが理解できると思います。

 このことが何を意味するかといえば、「人間は神に分魂を与えられた神の子であると信じ、肉体の死後も霊として存在することを確信できている人間」 と、「宇宙は物理現象で生じ、人間の生命は複雑な化学反応であり、神や悪魔は幻想であり、肉体が死んで崩壊すれば、心も無に帰するのだと信じている人間」との違いが明確に理解できてくるのです。

 

 つまり、「前者の神を信じる人間には、霊界や神界へと向上する可能性と、それを選択する自由を得ている。」ことになり、「後者の唯物論者には、『神と霊を否定し、信じない』という選択によって、死後に存在する霊界や神界へと向上する可能性と自由を自ら閉ざしてしまっている。」ということになるわけです。

 

 別の表現をすれば、「神を信じる人間は天国に上昇したり地獄に落ちたりする可能性を得ると共に、霊魂を神霊への進歩向上させる道が続いている」ことになります。一方、「神を否定する人間は、死後霊的世界を否定することによって、自らの選択肢を『自分という存在は物質と共に崩壊するのだ』という可能性のみに制限してしまっている」ということになるのです。

 

 当然、自らの選択肢を制限するということは、自らの霊的(精神的)自由の選択肢を狭めることを意味するので、精神性・霊性の本質を退化・下降・荒廃・分裂へと向かわせてしまうことになるのです。それは、宗教的には、「魂を穢す」ことであり、「神を信じない者の罪」として表現されているわけです。また、その罪と穢れによって生じた不幸を「地獄」や「罰」とも呼んいるのです。

 

 この精神世界の法則性が認識できると、第三章■一■(一)で触れたように、「今の人生はそれだけで終るのではなく、来世の原因を含むものであると確信している人の来世は、その考えによって意味あるものになります。 輪廻転生など無意味だと考えている人の来世は、その考えによって無意味で空虚で荒涼としたものになります。」ということも、より深く理解できてくると思います。

 

 さらに、第四章■二■(二)で触れたように、チャーチワードやケーシーが語ったように、アトランティス時代に人間として進化しきれずに半獣人として人間の奴隷となっていた、ということも納得できます。また、「彼らと人間との最も大きな相違は、宗教を持つか持たないかというところにあった。人間に使役されて文明の空気を吸っていても、半獣人には宗教を理解することができなかった。」というチャーチワードの見解の理由も理解できると思います。

               

 同時に、死後の復活を信じる者は、死後に霊界において救われる可能性を自ら開いているわけですから、「信じる者は救われる」ことも理解できるはずです。その半面で、生前に霊界も神仏も信じなかった人間の霊が、死後に霊界を見い出せずに暗闇の世界を彷徨ったり、墓前で浮遊霊になったり、この世に強く執着して自縛霊になったりする理由も理解できます。

 

 そして、こうした不成仏霊に対して、神仏を信じる人々が大慈大悲の神仏の存在を説き、霊的法則を説く手段として、経典や祝詞を唱える必要性が生じるわけです。 また、遺族が仏様や霊自身に塔婆や灯明、御香、花を手向けて追善供養することで、その霊は霊界への旅を進めるための仏の愛と勇気と力を得ることができるのです。

 この道理が理解できれば、生前に経典や祝詞を理解できているわけですから、私たちは死後にそれほど供養されなくても、自分自身の絶対神の至仁至愛を信仰する力によって霊界を進んでゆけるのではないかと思います。

 さらに、こうした道理を世間一般で認識できるようになる頃には、もはや人間が神に戦争の勝敗や戦争の回避を祈願したりする以前に、そもそも戦争という選択を自ら拒絶しているはずです。同時に、その霊性に比例して極めて高度な水準で文明を発展させ、平和を維持してゆけるはずなのです。


(六)絶対神の愛と人間(その2:死・食・生)

 先の(五)のように、人間には動物より高次の自我を持つことで、善悪の選択肢が多義にわたるために、より広範囲の自由が許されている反面、その責任も重いために、悪に傾いた場合はカルマとして自己を苦しめる危険性を伴うことになります。

 そのため、私自身が思春期に抱いていたように、「人間は動植物を殺生して食さねば生きてゆけないということは、人間は動植物の生命を奪うという罪からは永遠に逃れられず、神仏に近づくことはできないのではないか?」という問題に苦悶葛藤する事もあると思います。

 

 このことについては、まず、物質的な視点からイメージをはじめると、人間も動物、植物、微生物も全ての生命は食物連鎖によって各々が生命を維持しており、生命が生命を奪い食することで生命を維持し、新たな生命を育んでゆきます。その意味では、すべての生命は生命の犠牲によって支えられており、生態系を維持しているので、「死は生命を生かしている」、「生命は死によって生かされている」ことになります。

 また、人間は「時間と労働 = 人生の一部 = 奉仕」を「金銭 = 他者の人生の一部 = 他者の奉仕」と交換し、自己、あるいは子孫の生命を維持しているともいえます。

 したがって、人間は他の生命への奉仕によって自己犠牲を払い、その恩恵としての他の生命の奉仕(犠牲)を受け取ることで、自己の生命を持続しているというイメージもできると思います。

 これを霊的な視点へと高めると、創造神が愛による供犠によって天地を創造したとすれば、人間が労働(自己犠牲)によって得た食物を神に供え、感謝の供犠を捧げることが罪ではないのと同様に、もし仮に人間自身が動植物にとって神のような尊い存在となるならば、動植物の生命は人間に供犠をささげることを罪としないはずです。

 また、人間は樹木が提供する酸素を呼吸し、あるいは草木を家や家具や衣服とし、動植物を食材とする以上、動植物に生かされている最下位の存在でもあるのです。

 そして、この動植物は太陽と月と大地の恵みによって生かされているのですから、人間は日月星と大地への報恩と動植物への感謝を忘れず、この全てを神の一部として無駄にしないよう大切に扱う必要があります。

 すると、この生命的な犠牲に対して、人間は愛を込めて少しでも上手に利用し、あるいは美味しく調理することで、さらに感謝して食する努力が大切になってくるはずなのです。

 さらに、荒地に道を通し、田畑を開墾した先祖の血の滲むような努力(供犠)の積み重ねによってこそ、今日の私たちの豊かさがあることに感謝することも忘れてはならないはずです。それによってこそ人間は神から動植物の供犠を受けるに値する尊い存在になれるはずです。

 また、真に愛と感謝が極まった時、もはや人は動物を殺してまで食そうとは思わなくなるでしょうが、“その精神性に至ったならば、鉱物、植物、動物、人間一切は、本来神の一部であり、神ならざるものはないはずであり、故に罪も生じないということになります。

 こうした一連のイメージは、第四章■四■(五)でも引用したように、出口日出麿の次の言葉にも非常によく表現されていることが解ります。

 「われわれの一念、一言、一行は、ことごとく相互に影響し合うているのである。このことを厳粛に考える時は、われわれは、わがための吾ではなくして、全体のため、一切のための吾であることを痛切に知るのである。

 であるから、真の生活というものは、この世においても、あの世においても、一切のため、全体のためにその用を遂げることにあるのである。」
                        (信仰覚書)

 そして、他の生命を神の一部として尊厳と賛美と感謝を向けることができるようになれば、それと同時に「私はこれまで非常に多くの生命の犠牲によって生かされてきた。だからこそ、この自己の生命を神の一部として大切にしなければならない」という責務を感じるはずです。

 また、自己の死に際しても、それまでの人生が他者への奉仕や供犠によって維持されてきたことを認識できているので、神と地上の全存在に感謝して死を迎えることができるはずなのです。

 その反面で、労働が自己犠牲や他者への奉仕になっていない場合、あるいは、単に他者の所有物を搾取するような場合は、その程度によってカルマ的にも悪業(罪)となることも理解できてきます。

 さらに、利己主義的な思考で生活し、弱肉強食の法則で生きているという認識の人は、神仏や周囲の自然や動植物へ感謝の念を抱くことなく、年を重ねる程に弱者の立場へと向かう自分に絶望を感じながら死を迎えることになるかもしれません。

 

 ここで、以下に参考までにシュタイナーの文献から今回のイメージと関連性のある内容が書かれているものを抜粋しておこうと思います。

 まず、西川隆範氏著の『シュタイナー式 優律思美な暮らし』には次のようにあります。

 「以前からグルメ記事・グルメ番組が多い。美食が人生の楽しみの大きな部分を占めているかのようだ。

 ところが、シュタイナーはこんなことを言っている。

 『楽園にいるというのは、精神的存在であって、物質的な食糧を摂取・消化する必要がないということにほかならない。人間は食料を摂取・消化しなくてはならなくなったことによって罰せられているのだ。・・・・・・“楽園から出て物質的な食糧を摂らなくてはならないこと”が多くの人々にとって最大の楽しみになったために、人間は二重に罰せられている』

 「食事=罰」とは、僕は思いつかなかった。

 仏教では。人間は大昔、光の体で空中に暮らしていたという。それが地上の粗雑な食物を食べるようになって肉体ができ、性別が現われて、あらゆる苦悩が発生したとしている。

 いまは肉体を持っていて、肉体を維持するには――食べない人々を除いて――食料を必要としているのだから、感謝していただくのが妥当だろう。」
             (シュタイナー式 優律思美な暮らし)

 

 『自然と人間の生活』の中の西川隆範氏の「編訳者はしがき」には、次のようにあります。

 「人間は殴られると痛みを感じますが、鉱物は痛みを感じない、とシュタイナーは言います。人間は喜びや悲しみを感じる心をもっているけど、鉱物にはそのような心がないというのです。しかし、地上の鉱物を統合する<鉱物界の魂>は天にあって、その魂は喜びや苦しみを感じる、とシュタイナーは言います。

 おもしろいのは、鉱物の魂は岩石が砕かれるときに幸福を感じ、破片がつなぎ合わされると苦痛を感じるということです。塩が水に溶けるときには喜びを感じ、水が冷えて結晶化するときには苦痛を感じるそうです。地中で結晶ができるときも、鉱物の魂は苦痛を感じるといいます。

 秋になって穀物が刈り入れられるとき、天空に生きる<植物群の魂>は痛みを感じない。とシュタイナーは言います。動物が草を食むとき、植物群の魂は、子どもに乳を吸われる親のような幸せを感じるそうです。植物が苦痛を感じるのは、地面から引き抜かれるときです。人間も、髪を切ったり、爪を切ったりすると、気分がさっぱりしますが、髪の毛を抜かれたり、爪を剥がれたりすると、痛いですね。」
                    
(自然と人間の生活)

 

 そして、『イエスからキリストへ』の中では、次のように述べられています。

  「キリスト教的秘儀参入のプロセスを明らかにしましょう。何が問題かを明らかにするために、最初の段階を見てみましょう。この講義の最初に述べた、正しくない秘儀参入とは違います。

 まず、一般的な人間の感情を作用させます。その感情が洗足のイマジネーションへと導きます。最初に、『ヨハネ福音書』の情景をイメージするのではありません。キリスト教的秘儀参入を目指すものは、最初に長期間、ある感情・感受とともに生きようと試みます。

 植物が土地から芽生えて、鉱物素材を受け取りながら、鉱物よりも高次の存在へと高まるのを、参入者は眺めます。植物はへりくだって、『鉱物よ、私は宇宙法則のなかで、君よりも高次の段階にいるが、君がこのような存在の可能性を私に与えたのだ。君は存在の秩序のなかで、私よりも低い存在である。しかし、私は自分の存在を、低い存在に負っている。私は謙虚に、君にお辞儀する』と、言わねばならないでしょう。

 同様に、動物は自分より低い植物に、『私が存在しているのは、君のおかげだ。私は謙虚に、そう認識し、君にお辞儀する』と言わねばならないでしょう。

 上にある存在は、下に立つものに、へりくだらねばなりません。精神的に高い段階に上がった者も、自分がそうできるようにしてくれた存在たちにへりくだらねばなりません。

 下のものに対する謙虚さの感情に浸透され、その感情を何か月・何年にもわたって自分の中に生かして、完全に身につける者は、その感情の中に広がり、その感情がイマジネーションに変化する体験をします。――後略――」

     (イエスからキリストへ ・ 10.エーテル的キリスト)

      もしくは、(薔薇十字会の神智学・]TX秘儀参入の本質)

 

 出口王仁三郎は霊界物語の中で次のように述べています。

 「――前略―― ただ人間に比べて、禽獣虫魚としての卑しき肉体を保ち、この世にあるは、人間に進むの行程であることを思へば、吾人はいかなる小さき動物といへども、粗末に取り扱うことはできないことを悟らねばなあぬ。その精神に目ざめねば、真の神国魂となり、神心となることは到底できない、また人間としての資格もない。――後略――」               (霊界物語 第三十二巻 第十三章)

そして、漁師や猟師はといった職業を守る人の場合は、宿世の因縁で天より許されていることや、殺されて食される動物にもそうなるまでに天則を破るなどの因縁がある、といったことも述べています。 

 

(七)絶対神の愛と人間(その3:マクロ宗教・ミクロ宗教)

 もう一つ、問題に取り組んでみましょう。

 例えば、既にある宗教団体に所属している人が、「何の宗教団体にも属さない人は、神の守護が少なく、人間としての存在価値も無く、霊的に救われる可能性は無いのか?」、「そうだとしたら、私はこの宗教団体を脱会することで、神から見放され、救いの道も断たれてしまうのだろうか?」という切実な疑問に苦悩しているとします。

 

 それに対しては、 先の(三)(四)では、マクロの視点から次のようなイメージをしてきました。

@「霊界には絶対神の愛によって無数の霊層や集団の存在が寛容されている」という多くの見霊者の共通の認識と、 

A「地上の事象は霊界の移写である、という顕幽一致の法則」という認識から、

@+A=B「現世の人間は様々な霊層に適したさまざまな宗教が必要である」ことを理解できるので、それによって

B→C「信教の自由が必要であり、かつ各宗教信徒が、全宗教を許容されている絶対神の愛への賛美と信仰の下に他教の存在を尊重し、寛容すべきである」ことになるため、

C→D「自分自身の理解力と霊層に適した宗教を複数信じることも自由であり、合わないと感じたら所属する宗教団体を変えることも、やめることも自由である」 というイメージです。

 つまり、絶対神や霊界全体というマクロな視点から、個々人の信教の自由というミクロな視点へと認識を深めてきたことになります。

 しかし、ここではもっと身近なミクロの視点からマクロな視点へと認識を深めることで、先の問いに対する解答をイメージしてみようと思います。

 例えば、ある人がシュタイナーや王仁三郎の著書の一冊を読んで救われたと感じたとします。その時に、その人は「この一冊の本の著者であるシュタイナーや王仁三郎に救われた」と思うに違いありません。確かに、近視眼的にはその通りです。

 しかし、その前に、その本を手にするためには、単にお金があれば良いだけではなく、出版を企画した人々や製本所の人々、本を輸送する人々、販売する人々の労働があったから購入できたのです。それに、製本のためには電気も必要なので発電所で働く人々も必要です。

 さらに、本の原料の樹木を伐採したり、インクの原料である原油を掘削したり、原料を加工し精製する人々、木材や原油を運搬したり、輸送のための道路を舗装したり、船や車を製造したりする人々の存在があったからこそ本が製造できるのです。

 また、過去にそうした数々の科学の研究や工業技術を発明した人々や、その発明品である機械を生産した人々も必要だったはずです。さらに、地上に樹木が大きく成長し、太古の動食物の死骸が原油になるには、地中の微生物や雨、太陽といった天地の恵みが不可欠だったはずです。さらに、こうした全ての人々が生きるために食した動植物も必要だったはずなのです。

 すると、究極するところは全ての根源である生命を創造し、育くんできた神仏の存在があったからこそ、一冊の本を手にすることができたのです。これは、一冊の本だけではなく、周囲のすべての物に対しても同じことが言えるはずです。

 

 そうすると、宗教団体の信徒は同じ神を信じる同じ団体内の人だけではなく、団体外に存在する非常に多くの人々の「愛(幸御霊)と叡智(奇御魂)と努力(荒御霊)と調和(和御魂)」という一霊四魂の働き、さらには、大自然の生物とそれを霊的に支える眷属や妖精たちの大いなる恵み、天地の神々にも深い感謝と賛美を向ける必然性を感じることになるのです。

 

 その時、人は、自身の周囲に、間接的に自分を救ってくれている人や動物や植物や鉱物という無数の神の化身である存在に気付くことができ、シュタイナーが述べたように『将来、人類のなかで発展する自由な宗教性は、単に理論ではなく、実際の人生実践そのものにおいて人間一人一人の中に神の似姿を認識する第四章■四■(五)参照)ようになるはずです。

 これを仏教的に表現すれば、周囲のすべての人々が観世音菩薩の化身に他ならないと悟ることと同じはずです。もっと簡単に言えば、『人は神の子、神の宮』という出口王仁三郎の言葉と同じことです。それを前提にすれば、宗教団体に所属する人も所属しない人も本来は神の宮のはずです。

 したがって、必ず救いの道はどのような人にも平等に用意されているはずなのです。ただし、宗教団体や数々の経典などでこうした天地への感謝を学び実感してきた人々と比べ、生前に物質界において神仏や霊的世界をまったく信じてこなかった人の場合は、死後それを理解するまでに非常に遠回りすることになる可能性が高い、ということも多くの見霊者の共通した認識です。

 その意味において、「神は宗教団体に属するか否かで人を救うのではなく、宗教的な精神性を養うことで自らを救う者を救う。」ともいう解答が導き出されると思います。

 このように、ミクロな視点で周囲を再認識してゆくと、広く大きなマクロ的な宗教認識に至るのです。その意味で、宗教は「マクロ即ミクロ、ミクロ即マクロ」、ということになります。それは、「大乗即小乗、小乗即大乗」のようなのかもしれません。

 霊界の愛と叡智は、熱(愛)と光(叡智)に譬えられます。

 物質界では、熱が高まると発火して光を生じますし、レンズで光を集めると熱が発生します。

 同様に、愛によって無数の叡智は矛盾することなく一つの叡智に結び付けられますし(マクロ)、無数の叡智を集結させるとそこに神の愛があることを発見できるのです(ミクロ)。

 

(八)苦集滅道と道法礼節(その1)

 このように絶対神の愛と人間の問題あるいは人類の問題を対比させてゆくと、仏教に云う苦集滅道(全ての苦の原因を滅する方法)とは、「苦(苦諦)は絶対神の愛から離れるという因によって生じた果であるから(集諦)、神の絶対愛を信じることでこれを滅し(滅諦)、克服する道が開かれる(道諦)。」という解釈も可能にになると思います。

 

 すると、道法礼節とは「あらゆる苦は、絶対神の愛に照らすことによって叡智に変化し、その叡智こそが自然に神への道となり、法となり、礼となり、節度となる。」と考えることもできます。これは、仏教のみならず、孔子の説く仁義礼知信の五常、老子の無為自然の道にも通じると思います。

 

 また、ヨハネ福音書の「わたしが道である。また真理であり、命である。手段であると同時に目的であるから。わたしを通らずには、だれも父上の所に行くことはできない。」という言葉にも通じているように感じられます。

 

 このように、私たちの抱えるあらゆる問題(つまり愛でないもの)に対して、絶対神の愛は時間、空間の変化に影響を受けず、論争の余地のない、永久不変の真理が内在しているので、私たちのような未熟な人間にとっては、絶対神の愛を深く信じるほど悟りはより普遍的、恒久的な真理になってゆくはずなのです。

 
 ところが、こうして神の絶対的な愛を定義して叡智に変えてゆく努力の過程で、その真理が既に遠い過去の偉大な聖人たちによって語り尽されてきたことに気付かされるのです。また、それと共に現在の自分自身がそれを実行できていない未熟な存在であることを痛感し、罪と穢れの重さに強く打たれ、良心の呵責に葛藤するはずなのです。

 

 そこに、神言や祝詞の奏上、祭祀や神社参拝による祓いや清めの必要性を感じるのです。また、仏教においては悟りの後にもその精神性を維持するための修行を続ける必要性を感じるはずなのです。

 こうして、絶対神への信仰は、人間の不満や問題を智慧へと変じて悟りへと導いてゆき、至らなき言動を反省し、悔い改め、祓い清めながら日常生活の修行をすることで徐々に魂が磨かれ、魂の曇りが消えてゆき、他界後にも修行を積み、永い時を経て天使のような存在になってゆくはずなのです。

 

 霊界物語には、次のような歌が詠み込まれています。

  「愛の徳にて真を得て    知覚するのみ言説を

    試みること敢て無し     かれ天国の天人は

   己がすでに知り得たる   ところをますます明白に

   体得せむと思へばなり   またその未だ知らざりし

   真理を覚り円満に     認識せむと努めゆく

   一たび真を聴く時は     直様にこれを認識し

   つづいてこれを知り覚る   真を愛して措かざるは

   その生涯に活用し      これをば己の境涯の

   中に同化し実現し      その向上を計るなり」 

                               (霊界物語 第二十四巻 第十六章)

 同様に、シュタイナーの場合は、次のようにも語っています。

 

 「ある事柄について議論がなされるということは、その事柄について人々はよく知らないのだというしるしです。知があれば知が語られるのであって、議論をしようとは思いません。好んで議論がなされる場合、真理についての知がないのです。

 議論は無知からはじまります。議論が開始されるのは、議論の対象となる事柄に対する厳粛な態度が失われたしるしです。知の消失が議論によって示されるのです。

 霊学の領域において、議論への意思は本来、無知のしるしなのだということを十分に把握しておくことはとても大切なことです。議論ではなく、学習への意思、理解への意思を育てなくてはなりません。」
                       (輪廻転生とカルマ)

 このシュタイナーの認識は、次の王仁三郎が高次の神霊界の天人について語った認識おいても語られており、論じている意味は同じであることがわかります。

 「高天原の最奥における霊国および天国の天人は、全て愛の善徳を完備し、信の真善を成就し、智慧証覚に充ちてをるをもつて、中間天国以下の天人のごとく、決して真を説かず、また真のなんたるかも知らないのである。

 また神の真について論究せないのである。何ゆゑならば、かかる霊的および天的最高天人は、大神の神格に充たされ、愛善信真これ天人の本体なるが故である。

 ゆゑに他界の天人のごとく、これは果たして善なりや、悪なりや、なぞと言つて真理を争はない。ただ争ふものは、中間および下層天界の天人の内分の度の低いものの所為である。」
                  (霊界物語・第五十巻・第二章)

 

 これは、老子において玄徳と表現されているものと同じことだと考えられます。そうであれば、信仰によって愛と真が常識になると、これによって身についた徳と智慧証覚とによって悪霊は近づくことができなくなるため、その場は自然に天国となります。

 また、その天国には利己的否定(悪)が存在しないので、論議や論争も存在し得ません。それ以前に、存在そのものが愛善を具足しているため、もはや愛や真や善とは何かという理屈を考える必要もないはずなのです。

 この比較対象の存在し得ない至善至愛の境地に住するならば、一切は虚空と映ります。しかし、一切の虚空に住する存在が、ひとたび比較対象の世界に出現すれば、即座に愛や真や善なる観世音菩薩のような存在として現ずることになります。これは、般若心経や観音経の功徳の源泉といえるかもしれません。

 そして、シュタイナーの『カルマ論(カルマの開示)』や、王仁三郎の霊界物語における宣伝使の精神性からすれば、さらに次の段階があることが予想されます。つまり、このように人間が悪を克服し、天使の位階にまで進歩できた時、天使は隋天使について次のような感情を抱く道が開かれる可能性があるということです。

 
 「私たちの悪の精神に感応して憑依してきた堕天使たちは、言葉では言い尽くせないほどに私たちを苦しみに陥れてきた。しかし、人間にとっての悪とは、善に対して『これは善である』として感受し、理解し、叡智とするためには必要不可欠な『可能性』そのものであり、選択の自由を得るための『自由の源泉』だったのだ。

 それに、絶対神の愛が絶対であるとすれば、隋天使とは絶対神が人間を教育するために派遣した一種の反面教師であったに違いない。そうだとすれば、隋天使さえも神の化身であると受け止めることもできる。同時に『汝の敵を愛しなさい』という絶対神の愛は隋天使にも注がれているはずである。

 ところが、隋天使たちは、今もこうして“善悪を区別できずに全てを善だと錯覚して”偽善(悪)を行ない、自分が悪だと気付かぬまま善神や天使に戦いを挑み続けては、善神に退けられて悔しがり、善神を悪者だと錯覚し、その無明のために悩み、苦しんでいる。

 一方、私たちは、堕天使に悩まされ苦しめられたことによって、他者の心の痛みを覚り、愛と赦しと忍耐と叡智と調和を獲得することができ、その大慈大悲の精神の獲得によって天使の位階に昇格できた立場にある。

 だから、今こそ吾々は、隋天使たちの『錯覚した善』(悪)の働きによって得られた真の愛と叡智の力を用いて、進化に取り残された彼らを救い癒すことで、彼らに真の恩返しをするのだ。

 

 そして、堕天使が無明から覚めたとき、彼ら自身も実は神に遣われていたことを理解し、それまでの堕天使の悪行でさえ神は人間の魂の成長のために役立てていたことを悟らせ、堕天使にも主神の愛と赦しが得られるように導くのだ。」

 

(九)苦集滅道と道法礼節(その2)

 ここでは参考までに、出口王仁三郎は、水鏡の中で苦集滅道について述べた内容について、抜粋しておこうと思います。

 

 「『苦』は苦しみである。人生に苦というものがあればこそ楽の味わいが判るのである。

 人間が飢えんとする時、凍えんとする時、あるいは重い病にかかる時、かわいい妻子に別れる時、汗を絞って働く時、峻坂(しゅんぱん)を登る時などは、かならずこの苦というものを味わうものである。この苦があってこそ、楽しいとか、嬉しいとか、おもしろいとかいう結果を生み出してくるのである.

 人生に苦というものがないとすれば、無生機物も同様で、天地経綸の神業に奉仕することは絶対に不可能である。

 人生は苦しいなかに楽しみがあり、楽しいなかに苦しみがあって永遠に進歩発達するもので、寒暑と戦い、困難と戦い、悪と戦い、そうしてこれらの苦しみに打ち勝ったときの愉快は、じつに人生の花となり、実となるものである。

 高い山に登るのは苦しいが、その頂上に上りつめて四方(よも)を見晴らすときの愉快な気分は、山登りの苦しみを贖うて、なお余りある楽しみである。

 『集』、宇宙一切はすべて細胞の集合体である。

 日月星辰あり、地には山川草木あり、禽獣虫魚あり、森羅万象ことごとく細胞の集合体ならざるはないのである。 

 家庭を作るも、国家を樹つるのも、同志が集まって団体をつくるのも、これみな集である。

 家を一つ建てるにも、柱や桁や礎や、壁や、屋根そのほか種々のものを集めなくては家ができない。人間の体一つを見ても、四肢五体、五臓六腑、神経、動静脈、筋肉、血管、毛髪、爪など、種々雑多の分子が集まらなければ人体は構成されない。

 天国の団体を作るにも、智慧証覚の相似せるものが相寄り相集まって、かたちづくるものである。これみな集である。

要するに、前にのべた『苦』は人生の本義を示し、『集』は宇宙一切の組織を示したものである。

 

 『滅』は、形あるもは必ず滅するものである。またいかなる心の罪といえども、天地惟神の大道によって、朝日に氷のとけるが如く滅するものである。

 たとえば百姓が種々の虫に作物を荒らされてこまるとき、種々(いろいろ)の工夫をこらして、その害虫を全滅せんとしているが、とうてい、これは人力では滅ぼすことはできない。ただその一部を滅しうるだけである。

 害虫は植物の根や幹や、梢、または草の根に産卵して種族の繁殖をはておるが、しかしながら冬の厳寒あるためにその大部分は滅ぼされてしまう。これは天地惟神の摂理であって、滅の作用である。

 仏教に寂滅為楽という語があるが、人間がこの天地から死滅してしまえば、なんの苦痛も感じない極楽の境地に入(い)ると説くものがあるが、これはじつに浅薄極まる議論である。

 寂滅為楽という意義は、すべての罪悪が消滅し。害悪が滅尽したならば、極楽浄土に現代が化するという意味である。

 すべて人間そのものは無始無終の神の分身である以上、どこまでも死滅するものではない。五尺の躯格は滅ぼすにしても、人間の本体そのものは永遠無窮に滅尽しないのである。しかしながら、逆悪とか、無道とか、曲神とかいうものは、きっと神の力と信仰力によって滅ぼしうるものである。これをさして滅というのである。

 

 『道』は道(みち)といい、言葉といい、神ともいう。

 宇宙に遍満充実する神の力をさして、”みちみつ”というのである。要するに苦、集、滅の意義を総括したものが道となるのである。

道は霊的にも体的にも踏まねば、とうてい天国に達し、彼岸に渡ることができない。ゆえに空中にも道があり、地上にも道があり、海の面(おも)にも道がある。

道は充(み)ち満つる意味であり、霊、力、体の三大源質を統一したる意味であって、これがいわゆる瑞霊の働きである。

仏典にはミロク下生して、苦集滅道を説き、道法礼節を開示するというも、意味は同じことである。

 要するに苦集滅道は体であり、道法礼節は用ともいうべきものである。」

 

(十)苦集滅道と道法礼節(その3)

 次に、シュタイナー講義からも苦集滅道に関連した、特に重要と思える部分を抜粋しておこうと思います。

 シュタイナーは「ゴルゴタに秘跡」についての講義の中で、仏陀の時代の生老病死苦、愛別離苦の認識と、キリストを経た時代の認識の違いについて、次のように述べています。

 

「ゴルゴタの秘跡の六世紀前と六世紀後を見てみましょう。そして、その当時に人間の魂のなかに生じた出来事を見てみましょう。

 悟りを開く仏陀の伝説ほど、人間の魂にとって偉大で意味深く感じられる出来事はほかにありません。仏陀は王家の出身です。彼は貧しい羊飼いたちの下で、馬小屋で生まれたのではありません。しかし、そのことは強調すべきことではなく、彼が王家から出て、それまでに見たことのない生のさまざまの姿を見出したことが大事なのです。

 やつれた、悲惨な子供たちを仏陀は目にします。苦は誕生を通して存在のなかに入っているのです。生は苦である、と仏陀は感じます。

 ついで、仏陀は感じやすい魂をもって、衰弱した病人を見ます。存在への渇きを通して地上に歩み込んだ人間はこのようになるのです。病気は苦です。

 老衰した老人を仏陀は見ます。次第に自分の手足の主になれなくなるとは、人生を通して何が人間に与えられるでしょう。老いは苦です。

 そして、仏陀は死体を見ます。死はすべてを破壊します。死は苦です。

 仏陀はさらに人生を考察して、『愛する者と別れることは苦である。愛さない者と結びつくのは苦である。欲するものを得られないのは苦である』と、語ります。

 この苦についての教えは人々の心と胸に、偉大で強力で、印象深く響きます。多くの人々が、存在への渇きを断つことによる苦からの解放という偉大な真理を学びました。

 

 いかに地上的・物質的存在の外に目を向けて、地上への受肉から脱け出るように努力すべきであるかを学び、いかに、存在への渇きを消すことによって苦から解放されうるかを学びました。まさしく、人類進化の頂点の一つが私たちの魂のまえに立てられたのです。

 紀元前六世紀と紀元後六世紀の間の時空の中心に、ゴルゴタの秘跡は成就されました。紀元前六世紀、仏陀は死人を見て、苦について説きました。紀元後六世紀、無数の人々が死体の掛かった十字架に目を向けました。

 しかし、この死体からは生命を霊化し、生命を通して死を克服する衝動が人類に発するのです。これは仏陀が死体を見て感じたことの対極です。

  仏陀は死体を見て、生命の価値のなさを認識しました。ゴルゴタの秘跡の六百年後に生きた人々は敬虔な情熱をもって、十字架上の死体を見上げました。この死体は彼らにとって生命のしるしであり、彼らの魂のなかに、存在は苦ではなく、死を超えて至福へと導くものであるという確信が生まれました。

  十字架上のキリスト・イエスの死体は、ゴルゴタの秘跡の六世紀後に、生命の復活と、死と苦の克服の記念のしるしとなりました。ゴルゴタの秘跡の六世紀前には、死体は、存在への渇きを通して物質界に入った人間を襲う死を認識するしるしでした。人類の進化全体のなかで、これほど大きな転回はほかにはありません。

 

 紀元前六世紀、物質界に歩み入ることは人々にとって苦痛でした。ゴルゴタの秘跡以後、生の苦の真理はどのように魂のまえに現れるのでしょうか。仏陀がいうように、誕生は苦でしょうか。ゴルゴタの丘の十字架を見上げ、その十字架と結ばれるのを感じる人々は、「誕生は人間を地球に導く。地球はみずからの元素をキリストにまとわせる可能性を持っていた」と思います。

 彼らはキリストが歩んだ地上へと歩み入ろうと欲します。キリストとの結びつきを通して魂のなかに力が生じます。この力をとおして、霊界に上昇することができるのです。そして誕生は苦ではなく、救世主を見出すための門であるという認識が生じます。救世主は人体を形成する地上の素材をまとったのです。

 
 病気は苦でしょうか。
 ゴルゴタの衝動を真の意味で理解した者は、病気は苦ではないと思います。今日、キリストともに流れ込む霊的生活とは実際何なのかをまだ理解できていないとしても、未来には理解できるようになって、キリスト衝動に貫かれ、内奥にキリストの力を吸収し、自分のなかから発展させる強い健康の力をとおしてすべての病気は克服される、ということを知るようになります。

 キリストは人類の偉大な治療者だからです。彼の力のなかに、霊から真に強力な治癒力を発展させ、病気を克服しうるすべてが包括されています。病気は苦ではありません。病気は人間がみずからの内でキリストの力を発展させるために、障害を克服するための機会なのです。

 

 老衰についてもおなじようにして、明らかにしまければなりません。体が弱ってゆくにつれて、私たちは精神において成長し、私たちのなかに住むキリストの力をとおしてみずからの支配者となることができるのです。老いは苦ではありません。

 日々、私たちは霊界のなかに成長してゆくのです。おなじく、死も苦ではありません。死は復活によって克服されるからです。ゴルゴタの秘跡によって死は克服されたのです。

 愛する者と別れるのは苦でしょうか。キリストの力に貫かれた魂は、愛はどのような物質的な障害をも超えて、魂から魂に絆を結ぶことができることを知っています。精神における絆は引き裂くことができません。

 誕生から死までの間の生、そして、死から再受肉までの間の生において、キリスト衝動をとおして精神のなかで道を見出せないものは何もありません。キリスト衝動に貫かれているなら、愛する者と長い間別れたままでありうるとは考えられません。キリストは愛する者たちを結びつけます。

 おなじく、「愛さない者と結ばれる」ことは苦ではありません。キリスト衝動を魂に受け入れるなら、すべての者をその人にふさわしい度合いで愛するようにキリスト衝動が教えるからです。キリスト衝動が示す道を見出せば、「愛さない者と結ばれる」ことはもはや苦ではありません。私たちが愛を抱かないものは何もなくなるからです。

 キリストともにあれば、「欲するものを得られない」ことはもはや苦ではありません。人間の感情、欲望はキリスト衝動をとおして純化されて、高貴なものになり、自分たちが得られるものしか欲しくなくなるのです。

 欠けているものに苦しむことはもはやありません。何かがなくて苦しんでいるなら、キリストの力は苦を浄化すると感じる力を与えます。ですから、それはもはや苦ではありません。

 ゴルゴタの秘跡とは何なのでしょうか。ゴルゴタの秘跡とは、偉大な仏陀によって置かれた苦についての事実を次第に消去してゆくものです。宇宙の生成と宇宙の本質のなかで、ゴルゴタの出来事ほど大きな事件はほかにはありません。それゆえ、ゴルゴタの秘跡はさらに作用しつづけ、来るべき人類に巨大な、確かな成果をもたらすことが理解できます。――後略――」
      (輪廻転生とカルマ ゴルゴタの秘跡 ―  聖杯の兄弟団)

 

(十一)霊的真理の追求と議論の矛盾(その1)

 出口王仁三郎の洞察からすると現代の人類は、時節の到来によって善悪混合の時代からみろくの世の移行期に生きています。

 そのため、意識して自主的に信仰と魂の向上を望んできた人とは対照的に、神仏の存在や霊的世界をまったくを信じてこなかった人々は、時代の経過と共に「悪事の自由を奪われ、社会から厳しい束縛と監視を受けている。」という息苦しさを感じるようになってくるはずなのです。

 

 こうなると、悪人にとって「みろくの世」とは、「利己主義や虚偽といった悪が許さない刑務所の世」に感じられ、愛と叡智に満ちた絶対神の存在は、閻魔大王のように悪を赦さぬ恐ろしい裁きの神に感じられてしまうはずなのです。

 

 こうした理由から、「みろくの世」到来の世界観は、同時に「最後の審判」ともいうべき黙示録のような終末観を必然的に生じさせるのです。これは、絶対神の信仰から発する世界観の光と影といえるかもしれません。

 

 それについては、ルカ福音書では『時を知れ』という福音で示されていますし、神諭では『次節』として次のように表現されています。

 「時節まいれば、何事も出来て来るのであるから、時節程恐き結構なことは無いと申すのであるぞよ。」 (明治三十六年六月十七日)

 

 「そこに成りたら、三千世界が一度に開く梅の花。艮の金神国常立尊の神徳が世界中に輝き渡りて、歓びてキリキリ舞いいたす身魂と、恐ろしくてキリキリ舞いを致す身魂とが出来て来て、世界は昇り下りで、大騒ぎを一旦は致すなれど、昔からの経綸(しぐみ)が、水も漏らさんように致してあるから、天地が動いても別条はないなれど、悪の守護神の宿りて居る肉体は、誠に気の毒なもので在るぞよ。」 
                   (明治三十四年旧四月十日)

 これらの神諭の言葉も、時節の経過と人類の霊化に際してのこうした二面性を表現していると考えられます。そうすると、吾々人間にとっては「神様程恐きものの有り難きものは無い」と言えるのかもしれません。

 実際、現代では毎日のように事件や問題が多発し、多くの人々は世の中が徐々に悪化していように感じるかもしれませんが、必ずしもそうとばかりはいえないのです。むしろ、今までなら神々に黙認されてきた人間の不正や不道徳な行為が、神々の慈悲と救済の強まりと共に、徐々に赦されなくなってきたためという側面もあるはずなのです。

 なぜなら、不正や不道徳の行為の裏には、それによって悩み、泣き、苦しむ人が必ず生じるわけであり、それを根本的に救うためには不正や不道徳を止めさせ、改心させるしかないからです。こうして、時節と共に人々が神々の叡智の光に照らされることで、社会が今までは悪だとは感じなかった多くの事柄が、「深く考えると実は悪だった」と気付き始めているのです。

 そのために、社会全体に問題や事件が増加し続発しているように感じられているということです。それによって、私たちは不正や過ちや怠慢の反省と軌道修正を強いられると同時に、社会全体が精神的に緊張や混乱や病をきたしているのです。

 そして、まさにそれこそが、弥勒菩薩による「火の洗礼」(大乗の法、霊の洗礼)の証(あかし)のはずなのです。また、王仁三郎は終戦直後に「ほんとうの火の雨はこれからじゃ」と語ったといわれますが、この火の雨とはこうした現象のことを示しているのかもしれません。


 シュタイナーは、人間の「アストラル体、エーテル体、物質的身体」という人間の三つの覆いには、それぞれに基本力である「信仰・愛・希望」

信仰 → アストラル体

愛  → エーテル体

希望 → 物質的身体 

という三段階の力に浸透され、燃え立ち、力づけられる必要があるとし、続けて「死後の審判」について、次のようにも述べています。

 「――前略―― こうして、私たちは現在において非常に重要で本質的なこと、つまりエーテル体におけるキリストの新たな出現について示唆しました。キリストの新たな出現を、物質的身体に結び付けて考えてはなりません。キリストが裁き手として地上に現われることを、私たちは示唆しました。

 ゴルゴタで苦しむキリストに対して、勝利するキリスト、カルマの主としてのキリストを、死後の審判を描いた者たちはすでに予感していました。彼らは最後の審判を描いたり叙述したりすることで、すぐにでも起こる事柄として示したのです。

 最後の審判は、本当は二十世紀に始まり、地球の終焉まで続きます。審判が二十世紀から始まるというのは、カルマの整理のことです。人類がこの啓示に接して、信仰・愛・希望を正しく認めることが時代にとっていかに重要でであるか、私たちは知りました。」

 (「シュタイナー黙示録的な信仰」  信仰・愛・希望(一))

   「最後の審判」  ミケランジェロ画

 したがって、「信仰・愛・希望」に生きる人々は、この社会問題が弥勒菩薩やキリストの救済活動によるものと解れば、先行き不透明な現代を多少なりとも勇んで暮らすことができるのではないでしょうか。

 その反面で、これに気付けないと大慈大悲の国常立尊の活動も、恐怖の閻魔大王の到来と感じられてしまうはずなのです。そう考えると、ノストラダムスが預言した「恐怖の大王」とは、艮の金神様もしくはエーテル界に出現したキリスト存在のことなのかもしれません。

 

 シルバーバーチの霊訓では、次のようにも述べられています。

 「――前略―これから先にも大きな仕事が私たちを待ち受けております。再構築の仕事です。心に傷を負い、精神的に打ちのめされた人、人生に疲れ果てた人、生きる意欲を失った人、不幸のために心を取り乱している人、暗闇の中に光を求めている人――私たちはこうした人々を快く歓迎してあげなくてはなりません。

 今や大勢の人が、これが本当に人類にとっての鎮痛剤なのかと、期待の目を持ってわれわれの方へ関心を向けつつあります。この真理、そしてこれに伴って得られる霊的な力は、たとえその数が何千何万となろうと援助し、導き、慰めてあげることができます。霊力の貯蔵庫は無限です。いかなる必要性、いかなる悩み、いかなる心配事にも対処できます。

 世界は今まさに全面的な再構築を迫られています。全ての価値観が再検討を迫られております。その大渦巻の中にあって“これこそ基盤とすべき原理である”と自信をもって断言できる人はきわめて稀です。

 再構築にはそれに先だっての破壊が必要です。基盤は何度も言ってきたとおりすでに敷かれております。計画(プラン)はできあがっているのです。今ゆっくりと、そして苦痛を伴いながらそれが姿を現し、やがて、人間の運命がいかにして改善され神から授かった能力がかにしてその発達のチャンスをあたえられてゆくかが、徐々に明確になることでしょう。そこには不安や失望のたねは何一つありません。為すべき仕事があります。手を取り合えばきっと成就し、他の人にも参加させてあげることができます。

 私たちに与えられた光栄あるその奉仕の仕事のチャンスを楽しみに待ちましょう。そしてあなた方自身に精神的改革をもたらした同じ知識を同胞に授けてあげることができることの特権に感謝し、それがその人たちにも革命をもたらし、自分が愛と叡智にあふれた神の一部であること、その神は人間が人生から美とよろこびと輝きとを引き出すことをひたすら望んでおられることを悟ってくれるように祈ろうではありませんか。」

(シルバーバーチの霊訓(二)十章 霊訓を必要とする時代 潮文社)

 こうした言葉も、先のような立替え立直しを暗示していると感じられてくるのです。



 

(十二)霊的真理の追求と議論の矛盾(その2)

 

 二十世紀初頭に社会が混迷を極め、世界的な戦争の真只中にあって、霊的見聞を通してこの新たな霊的真実の時代の幕開けを伝えようとした偉大な教師が、出口直や王仁三郎、シュタイナーであったといえるでしょう。

 彼らは単なる教師ではなく、大多数の人類が霊的な視力や聴力を失い神や霊を信じられないでいる霊的聾盲者の中に現われ、人々に神霊世界の真理を伝えにきた特別教員であったと考えられます。人類がヘレン・ケラーであれば、彼らはアニー・サリバンといえるかもしれません。

 

 そして、彼らの著書には、神霊界の真理について次のように綴られています。

 「真理には民主主義というものは存在しません。まだ考えの一致しない者同士が真理に向かうことに、すべての闘争の原因が存在するのです。」 
            (薔薇十字会の神智学・第十三章)

 

 「国会開きは人民が何時(なんどき)まで掛かりても、開けんと申して在るぞよ。神が開いて見せると申して、先に筆先に出して在ろうがな。時節が近寄りたぞよ。世界一同に開くぞよ。」
                (明治三十四年旧三月七日)

 

 「現代のごとく自由だとか、平等だとか言って、だれもかれも祝詞にいはゆる『草の片葉に至るまで言問い』すなはち議論するようになっては、神界現界ともに平安に治まるといふことはのぞまれないのであります。」 
              (霊界物語・第四巻・総説)

 

 そして、先にも取り上げましたが、シュタイナーは、特に次のようにも語っています。

 

 「ある事柄について議論がなされるということは、その事柄について人々はよく知らないのだというしるしです。知があれば知が語られるのであって、議論をしようとは思いません。好んで議論がなされる場合、真理についての知がないのです。

 議論は無知からはじまります。議論が開始されるのは、議論の対象となる事柄に対する厳粛な態度が失われたしるしです。知の消失が議論によって示されるのです。霊学の領域において、議論への意思は本来、無知のしるしなのだということを十分に把握しておくことはとても大切なことです。議論ではなく、学習への意思、理解への意思を育てなくてはなりません。」 
                  (輪廻転生とカルマ)

 

 したがって、私たちが『彼らの論述に矛盾や相違点を感じた時に取るべき態度』として最初に必要なのは、『霊的真理に関する人間同士の議論や論争とは、私たち自身の解釈や理解力の欠乏にこそ最大の原因がある』ことを意識することなのです。また、その真理への敬虔かつ謙虚な態度によってこそ、衆愚的な論争や多数決で真理を定めようとする愚策や愚案を未然に防ぐことができるのです。

 

 そうでなければ、両者の思想はイエスや釈迦の教えと同様に、吾々のような霊的聾盲者の解釈の違いによって教派や宗派としてバラバラになり、論争を繰り返す元凶となってしまうはずですし、悪魔もそれを狙っているはずなのです。

 

 また、一部の霊能者や新興宗教の指導的立場の人物が、王仁三郎やシュタイナー、その他多くの聖人の言葉を出典を明らかにせずに引用した結果、それを知らない信徒たちが教祖自身の言葉だと信じ込んで聖人扱いしているような場合も多々見受けられるのです。

 

 さらには、出口王仁三郎やシュタイナーと霊的に交信して、彼らから霊言を得たという宗教家も見受けられます。しかし、仮に王仁三郎やシュタイナーの霊示が与えられたとしても、その人物の霊格以上の霊示は受け取れないでしょうし、逆にその人物が王仁三郎やシュタイナー以上の霊格者ならば、もはや両者からの霊示を受け取る必要性もないはずですから、根本的に矛盾しています。

 

 そのため、第三者が受けた王仁三郎やシュタイナーの霊言を読むくらいなら、原典を読み込んだ方が遥かに高次であり、かつ安全なはずでなのす。

 

 したがって、シュタイナーや王仁三郎の思想は、本来、彼らの原典に忠実に学び、彼らの思想から引用した言葉は、最終的にその原典に矛盾無く帰着させる必要があるはずなのです。

 

 また、彼らの思想から二次的に導き出された論証については、(今までの内容を自己否定しているようで矛盾していとおもわれるかもしれませんが)霊的聾盲者である筆者が出版した“本書も含めて”仮説や推測(お筆先の推量節)として扱う必要があるはずです。

 

 そうしなければ、霊的聾盲者の間違った解釈が、新たな矛盾や誤解を生じさせ、最終的に本来の意味とは正反対の解釈となり、聖人の教えが虚偽であったという結論に至る危険性が多分に伴うのです。

 

 これは、シュタイナーが人智学徒に度々指摘した重要な点(第五福音書第五章末 他)であり、王仁三郎が霊界物語の口述に際して懸念した点(第五巻・序文等)でもあるのです。

 

 霊界物語にも、「――前略―― 中でも一番罪の重いのは、学者と宗教家だ。神様から頂いた結構な霊魂(たましい)を曇らせ、腐らせ、殺すのは、誤った学説を流布したり、神様の御心を取り違えて誠しやかに宣伝したり、あるひは神様の真似をするデモ宗教家、デモ学者が最も重罪を神の国に犯しているものですよ――後略――」 (霊界物語・第二十巻・第八章)とあります。

 

 そして、ルカ福音書にも次のように記されています。「盲人に盲人の手引きが出来るか。二人とも穴に落ち込まないだろうか。良い先生をえらべ。弟子は先生以上にはなれない。」

 



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制 作:咲杜憩緩

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     ルドルフ・シュタイナー
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著書:ルドルフ・シュタイナー
   と出口王仁三郎の符合