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                The agreement of Rudolf Steiner and Onisaburo Deguchi
                   ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符合
                                                                   咲杜憩緩

一■ 輪廻転生とカルマの法則が示す信仰と道徳の意義



(一)ミロク仏出現までに必要な準備(その1)

 

 シュタイナーは今後の人類の中に徐々に現われることになる変化について 「今からあと三千年の間に、多くの人々がエーテル的なキリストを見ることができるようになり、三千年後には福音書やキリストの生涯の記録を必要としなくなります。その人たちは自らの魂的生活の中に現実のキリストを見るからです。」 (仏陀からキリストへ)と述べています。

 では、エーテル的なキリストを見ることができる多くの人々とは、どのような過程を経た人なのでしょうか。また、三千年後に弥勒仏の出現があるとして、私たちはその間の三千年間をただ指を加えて待っていればよいのでしょうか。

 その一つの指針として、もっとも重要なことは、弥勒菩薩が弥勒仏となる時までに私たち自身が自らのアストラル体とエーテル体を浄化する必要があり、国常立尊の示すように「水晶の身魂」になる努力が必要なはずなのです。

 それについては、シュタイナーが今世において輪廻転生とカルマを認識する意味について語った講義の中にその手掛かりがあるように感じられます。そこで、一九一二年一月二十三日の講義内容の一部を抜粋することにいたします。

 

 「ここで、『なぜ、いま霊的な真理が人々のあいだに現れているのか。なぜ、人間が成熟するまで、霊的真理の出現が待たれることはなかったのか。』と、問うことができます。

 現代という時期と、今生きている人間が今度生れ変る時代とのあいだには、考えることもできないような大きな差異があるようになるからなのです。なんらかの霊的能力がいかに形成されるかは人間によるのではなく、進化の意味と本質によるものなのです。

 いま人類は輪廻転生とカルマを信じることが最も困難な時代(一九一二年)に生きています。

 世界にわずかしかいない人智学者や、古い宗教形態を信奉している人はべつにして、今日の外的な文化生活の担い手は、輪廻転生とカルマを信じることから遠く離れています。そして注目すべきことに、今日の人間は輪廻転生とカルマを信じるには最も適していないことによって、知的な学習に駆かられるのです。

 現代人は精神的に努力したか、物質的に努力したかに関わりなく、来世では、前世を感じる素質を持つようになります。なにに従事したかに関わりなく、現代人は生まれ変ったとき、前世について何かを体験したい、何かを知りたいという強い望みを持つようになります。

 わたしたちは、時代の転換期に生きているのです。輪廻転生とカルマについて知ろうとすることが最も少ない時代と、前世を知りたいという強い望みを持つようになる時代との転換期に、私たちは生きているのです。」
         (いかにして前世を認識するか・イザラ書房)

   

 ここまでの内容を整理すれば、大きなスケールで見ると、人類全体の霊的能力とは時間経過による進化と共に必然的に現われるものだということです。また、現代の知識偏重社会とは、霊的認識の欠落のために生じた反作用であるということになります。

 

 そして、次の転生の時代には、誰もが前世を信じるようになり、個々人の心情にそれを感じ取りたいという非常に強い衝動が起こるということです。ちなみに、シュタイナーは、輪廻転生について、原則として二一六〇年間に二度以上、男女として誕生する必要性を説いています。

そして、次のように続けています。

 

 「来世では『前世について知ることができないなら、今の人生は砂上の楼閣(ろくかく)のようなものだ。』という激しい感情を自分の内に感じることになります。そして現在、輪廻転生とカルマを否定している人々が、来世で最も苦悩することになります。どのように人生が形成されていったかを説明できないからです。

前世を知りたいという、後ろ向きの憧(あこがれ)ゆえに人智学が求められるのではありません。現在の人間が再び地上に受肉するとき、人類全体に現れることになるものを理解するために、人智学が求められるのです。

 今日、人智学者である人々は、想起する性向をほかの人々に分け与えることになります。こうして、ほかの人々も輪廻転生ということを理解するようになり、そのことを通して、魂のいとなみのなかに内的な調和を得ることになります。

 今日、人智学を否定している人々は、来世では、前世について知りたいと思うようになり、前世がどのようなものであったかを知りたいという内的な苦痛を感じるようになります。しかし、彼らは自分を悩ませ、苦悶させるものについて、なにも理解することがありません。彼らはお手上げの状態で、内的には不調和です。彼らは来世で、『あなたは、この苦痛を自分で真剣に望んだのだと思うとき、この苦痛の原因がなになのかをはじめて知る』と、いわれるにちがいありません。

 もちろん、だれでもそのような苦悩したいとは思っていません。しかし、今日唯物論者として生きている人々は、『あなたが逃れたいと思っているこの人生は、じつは自分が欲したものであったと考えてみなさい』という忠告に従うと、彼らの内的な悔恨、内的な荒廃と苦悩を理解するようになりはじめます。

 その忠告に従って、『わたしは、どうしてこのような人生を望んだのか』と考えはじめると、『たぶん前世で、わたしは【来世はこうなるかなんて、ばかげたことだ。どうして、そんなことが信じられるものか。この人生は、この人生で完結する。いまの人生が来世に力をおくっていくなんてことがあるものか】と考えていたのだろう。来世なんてものはくだらない、ばかげたことだと感じていたので、この人生が無価値で無意味なものになったのだ。そのときにわたしのなかに植えつけた思考が、この人生をこんなにも荒涼とした、空虚なものにする力になったのだ。』と、思うようになります。

 それが、正しい考えでしょう。そのような形で、唯物論のカルマ的な結果が現われるのです。今の人生はそれだけで終るのではなく、来世の原因を含むものであると確信している人の来世は、その考えによって意味あるものになります。輪廻転生など無意味だと考えている人の来世は、その考えによって無意味で空虚で荒涼としたものになります。

 このように、わたしたちが心に抱いている考えは、思考として高められて来世に移っていくのではなく、力に変化して、来世に現れるのです。霊的世界においては、わたしたちが生まれてから死ぬまでに有するような思考は意味を持たず、変化した形において意味を持つのです。

 たとえば、だれかが偉大な思想を持ったとします。そうすると、その思考は、その人が死の扉を通過したとき、思想としては消え去ります。その思想の影響によって得られた感激、感情は、死後も残ります。人智学から思想を受取るのではありません。その思想によって体験したものを、たんに一般的な基本感情としてではなく、個々の細部にいたるまで受け取るのです。

 とくに、しっかり把握しておきたいのは、『思考そのものは、物質界にとって意味のあるものである。高次の世界にとっての思考の作用について語るときは、高次の世界に向けて、その思考が変容するということを語らねばならない。
 輪廻転生を否定する思想は、来世で内面の価値のなさ、人生の空(むな)しさに変化し、内面の価値のなさと人生の空しさは、苦悩、不調和と感じられる』ということです。

 ある場所に来ると、いつも決まったものを見るのが好きだとすると、いま述べたような内的な無価値と空虚がどのように体験されるかについてイメージすることができます。たとえば、ある花がある庭の一定の場所に咲いているのを見るのになれていたとしてみましょう。無慈悲な人がその花を摘み取ってしまうと、みなさまは苦痛を感じます。自分が愛していたものがなくなると、苦痛を感じます。

 同様のことが人体組織全体についていえるのです。どのようにして、人間は苦痛を感じるのでしょうか。ある器官のエーテル体とアストラル体がいつも一定の場所に入り込んでいたのが、その器官が傷つけられて、エーテル体とアストラル体がその器官をもはやよく把握できなくなることによってです。庭の決まった場所に咲いていたバラが無慈悲な人によって切り取られたのと同じです。器官が傷つけられると、エーテル体とアストラル体は、自分が求めているものを見出せません。

 そのように、人間が抱いた思考が未来へと作用を及ぼし、その作用い人間は将来出会うのです。それとは反対に、その思考自体はなくなります。信頼や認識力を来世に送っていないと、一定の場所に思考を探求しても見出せません。その欠如が、苦痛、苦悩、として感じられるのです。

 これが、ある面からカルマ的経過を解明する方法です。人間の精神的――心魂的本質を認識するために、さらにどのようなことをおこないうるかをより深く洞察するために、このようなお話をしなければなりませんでした。」

         (いかにして前世を認識するか・イザラ書房)

 私たちは輪廻転生とカルマについて、 「もし輪廻転生があったとしても、今世で前世のことを思い出せないように、来世でも今世のことを思い出せないはずである。そうだとしたら、今世で輪廻を信じることなど全く無意味なのではないか。ましてや三千年も先のミロクの世について考えても、まったく意味がないのではないだろうか。」 というような素朴な疑問を投げかけます。

 しかし、人智学的観点からすれば、それは輪廻転生とカルマについて最も重要な要素を欠落させている考え方であり、今世で人智学によって輪廻転生やカルマについて学ぶことが来世の自分自身の魂の力となり、他人の救いになるということなのです。

 

(二)ミロク仏出現までに必要な準備(その2)

 さらに、シュタイナーは現世の思考と来世のカルマについて、次のようにも語っています。

 

 「心がけ、思考の傾向、方法は肉体に作用し、心の持ちようが霊的か唯物論的かによって来世のあり方が変わってきます。高次の世界について何かを知っている人―――霊的世界を信じているだけでも十分なのです―――は来世で中心がしっかりした肉体を持ち、神経系統が穏やかに働き、手の神経が神経組織の中枢まで穏やかに伝わっていきます。

 それに対して、感覚界にあるものだけを通用させようとする人は、その態度が肉体に伝わり、神経病になりやすい、落ちつかない、確固とした意志の中心を持たない肉体を持つことになります。唯物論者は個々の部分に崩壊します。霊は結合します。霊は統一体だからです。」
                 (薔薇十字会の神智学)

 

 こうしたシュタイナーの言葉は、大本神諭の 「……肉体の在る中(うち)に、変成男子の書いた筆先を能(よ)く腹(はら)へ置いたら、死にても、亦今度斯この世へ出して貰うても、人がたたき落としても落ちん、霊魂に徳が付くので在るから。」 (明治三十七年旧七月五日)という言葉とも一致しています。

 

 人智学的認識では、私たちは今世において「輪廻転生や霊的世界を信じる」ことで、来世における「前世とのつながり」や「魂の内的な調和」を準備しているのです。それによって、今世の経験は来世に活かされる意味のあるものになるわけです。つまり、輪廻転生や霊的世界を理解し、それを信じることは、今世と来世の間を繋ぐ一種の霊的な力の掛橋になるわけです。 

 それは、霊能者による霊視や退行催眠による前世療法(ブライアン・L・ワイス氏)などによって、過去世を認識した人の人生観が大きく改善される実例を知れば、どれほど人生全般に、この力が大きく作用しているかが理解できると思います。

 

 同時に、前世を認識することは、偏狭さや誤謬に基づく観念から人を開放するため、その人に憑依していた悪霊をも遠ざけさせたり改心させたりする力になるはずなのです。そして、人智学的な思考は、エーテル体やアストラル体に作用し、来世における神経組織の形成や外的な容貌にまで影響を及ぼすとしているのです。

 これに対して、今世で何も信じることがなければ、来世において今世との関連性に気付けないため、今世は今世のみの、来世は来世のみの意味しか感じとれないわけです。すると、無意識のうちに霊魂の永遠性を寸断することになるため、自ずと夢も希望も無い荒涼とした人生感になり、殺伐とした虚無感や、精神的な苦悩が生じてしまうのです。

 

 このことから、現在の私たちが、人生に虚無感や空虚な心情を感じるとすれば、それは「前世の唯物論的思考のカルマとして生じたことなのだ」と気付く必要があるわけです。

 

 シュタイナーは、『釈迦・観音・弥勒とは誰か』の中の「新しい形の仏教の流れ」と題する講義でも、現在の私たちが非常に重要な時代に生きており、思考と感情に根本的な転換が生じなければ、生き続けることが不可能になってくるとしています。

 「・・・・・・水中に生きることになれていた魚が(進化を遂げて)空気という新しい要素のなかにいきなければならなかったように、いま人間は新しい要素のなかに生きなければならない。人間は思考において、物質界が生み出す事実のなかに生きなければならない。

 新しい思考に抵抗しようとする人々は、準備なしに水から上げられる魚のようなものである。水のなかにとどまっていることはできない。そのような人々は、のちに、霊的な概念に関して空気が欠乏したような状態になる。そのような人々は、あえいで、口をぱくぱくさせることになる。

 今日の一元論のなかに生きつづけようとする人々は、水中にいるのと空気中にいるのとを取りちがえ、エラを保持しようとする魚にたとえることができる。能力を変化させ、思考によって事実を新たに把握する人々のみが、未来に現れるものを把握することができるのである。」
            (釈迦・観音・弥勒とは誰か 水声社)

 

 こうした警告は、大本神諭でも次のようになされています。

 「何事も筆先通りに皆出て来るから、素直に致さんと、是これから先は大間違いが出来てきて、大きな息も出来ん様になるぞよと申して、気をつけたぞよ。」         (大正六年二月九日)

 

 「神運(じ)発揚(せ)之時節(つ)が参りて喜ぶ人と、心苦しみてジリジリ舞う人とが出来るという事が、書かしてあろうがな。」
                 (明治三十六年旧正月三日)

 「自己(われ)の腹の中が、自己に見えるようになりて、自己の腹腸(はらわた)が汚くなりて、腹腸を引き摺(ず)り出して、悶え死にをする肉体も沢山(たっぴつ)あるぞよ。」
                 
 (大正三年旧九月十七日)

 

 つまり、一九〇〇年以降に輪廻転生する私たち人間にとっては、この世において霊的な認識を得て、神への正しい信仰をし、道徳的に生きる努力が非常に重要になってくるのです。そう考えると、私たち人類が三千年後や六千年後のみろくの世が、今すぐにでも来る事を望むのは時期尚早である事も理解できます。 

 なぜなら、現在の私たちが魂を磨くこともなく三千年後の高度な道徳社会に突然移行したとすれば、シュタイナーが指摘したように口をパクパクさせて苦しむ魚のようになるはずだからです。

 そして、神諭にも 「今の大本の中に只の一人でも、神世に成りた折に間に合うものが在るか、誤とり解ちがいするも自惚(うぬぼれ)にも程が在るぞよ。」 (明治三十七年旧七月十二日)とも記されているのです。 

 また、出口王仁三郎は霊界物語・第五巻・総説の中で 「宗教家の中には『御国を来たらせたまへ』とか、『神国成就五六七神政』とかいふことを、地上に立派な形体完備せる天国をたてることだとのみ考えてゐるものが多い。そして地上の天国は、各人がまづ自己の御霊を研き、水晶の魂に立替えるということを知らぬものが沢山にある。」 と語り、霊界物語・第四巻の余白歌でも 

 「ミロクの世  はや来よかしと祈りつつ 
    身慾(みよく)に迷ふ  人ぞ可笑(をか)しき」

と詠んでいるのです。

 同時に、国常立尊が筆先を読むように念を押し、出口王仁三郎が霊界物語を読むようにと何度も勧めたのも、筆先や物語によって私達に輪廻転生とカルマについての生き生きとした霊的なイメージを描かせることによって、人智学と同様にエーテル体とアストラル体にとって有効な作用をもたらし、来世の準備をさせていたのではないかと考えられるのです。

 

 


(三)ミロク仏出現までに必要な準備(その3)


 一九一一年二月三日、ニュルンベルクにおける講義の中で、今世で人智学を受け入れた人々は、輪廻転生や精神科学を知らずに他界した人々の心魂を助けることができるようになり、また今後そのような人をたくさん必要とすると述べています。

 

「一度『今受肉をしている人間の心魂が将来受肉すると、振り返って見る力、振り返りながら認識する力が現われてくる』と考えてみてください。輪廻先生思想を知らない人々にとって、この回想は恐ろしい苦しみでしょう。実際、輪廻転生の秘密を知らないのは、苦痛に満ちたことでしょう。人間が輪廻転生という大きな密儀の真理を知ることを怠ったために、過去に過去に関して何かを語ろうとする力が、人間の中に現われ出ようとしながら出てこられないのです。いま精神科学をとおして告げられている密儀の真理をしらないと、たんに理論をないがしろにするだけでなく、来世を苦しいものにします。

 『神秘劇』第二部「心魂の試練」のなかに、前兆を見ることができます。登場人物たちの前世が示唆されています。わずか何世紀か前の前世です。

 いま、賢明な世界指導者たちのよって、人々に密儀の真理を知る機会が与えられています。しかし、精神科学に出会う人々はまだわずかです。人智学者の数はいまだ少ないものです。「多くの人々は、まだ人智学に関心がない」と言えます。

 ぼんやりと世界を歩んでいて、いろいろな体験をしつつも「存在の謎を探求しなければならない」と思わない人々は、比較的はやく再受肉して、精神科学的なしんりを知る機会を見出す、というのが現在の輪廻の法則です。そうなります。私たちにとって大切な人々が人智学について何も知ろうとせず、人智学を毛嫌いしていても、私たちは心を重くすることはまったくありません。

 『精神科学すなわち人智学を顧慮しないのは、来世の苦しみの始まりだ』と、人智学者は洞察すべきです。これは本当です。私たちはものごとを軽く受け取ってはなりません。

 しかし、一方では、愛する友人・知人が人智学を知ろうとしないときでも、先ほど述べた絆が存在するので、『私がよい人智学者であったら、私が死の扉を通過したあと、私に残った力によって彼らの心魂を助けることができる』でしょう。これらの心魂は、死と再誕のあいだの中間生の時間が短縮されることによって、密儀の真理を受け入れる機会を得ます。

 来世が苦しいものにならないためには、人間は密儀の真理を受取らなばなりません。まだ、すべてが失われたわけではありません。

 人智学は現実的な力である、と私たちはみるべきです。嫌気がさいたり、悲観的に見る必要はありません。

 『私は精神科学の真理を受容するのを来世までまつこともできる』という楽観主義は誤りでしょう。もし、みんながそう考えたら、次第に人々は来世へと課題を先送りし、その結果、来世で人々を助けることができる機会が減ってしまうでしょう。

 いまは、わずかな者たちが、人智学を学ぼうとする人々に真理を知らせることができます。じきに人智学に押し寄せる人々の群れは膨大になり、物質界で、あるいは受肉しないなら高次世界から、人々に人智学を知らせる無数の人間が必要になります。

 これが、いま起こっている大きな転換から、私たちが考えねばなならないことです。

     「シュタイナー黙示的時代(輪廻思想との遭遇)より」


   輪廻転生   【(左上)西暦1000年】
 人間が再び生まれ変わってくるまでには、一定の時間が経過しなければなりません。それでは一体、いつ人は地上に降りてくるのでしょうか。ある人はこの世で霊的な世界に関心を寄せて生きました。その人は死後比較的容易に霊界へ入っていき、そしてふたたびこの世に生まれてくるのに、比較的長い時間を掛けます。霊界でより大きな進化を遂げ、より長期間そこに留まり、遙か後になってふたたび地上に戻ってくるのです。この世で物質界だけに関心を寄せる人は、比較的すぐふたたび地上に生まれてくるでしょう。
         遺された黒板絵  ワタリウム美術館:監修 高橋巌:訳より





(四)ミロク仏出現までに必要な準備(その4)

 ここまで、前世の霊的認識が、来世の精神や肉体に及ぼす影響を及ぼすことを取り上げてきました。しかし、その影響は当然のように死後の霊界での意識にも極めて重要な違いとなって現われることを、シュタイナーはキリスト出現の意義と共に次のように述べています。少々長いですが、重要かつ明瞭な講義内容なので、そのまま転記させていただきました。

 「―――前略――― 死の門を潜るときに人間が足を踏み入れる世界に目を向けるならば、精神科学(人智学)の現実的な力が私たちにとってますます明らかなものになるでしょう。現在、人間がこのような事柄を洞察することは極めて困難です。

 人間は次のように考えます。『何のために、霊界で起こることに関心を抱く必要があるのか。死んだら、私はどのみち霊界に行くことになる。そのとき私は霊界の中に存在するものを見たり聞いたりするのだ』と。

 皆さんは、このような怠惰な態度が無数の変化を遂げながら、さまざまな人によって語られるのを耳にするはずです。『死ぬ前に、霊的なものに関心を抱いて何になるのだ。死んだときに、私は霊的なものについて知るようになるだろう。私がここで霊的なに関わろうと関わるまいと、私と霊界との関係を変えることはまったくできないのだから』、と。

 しかし、実際はそうではありません。このような考え方をする人は、死んだときに暗くて陰鬱な世界と出会うことになるでしょう。このような人は、死後、私が『神智学』で霊界について記述した事柄をあまり識別することができません。というのも、この物質的な世界で霊と魂を霊界と結びつけることによって、つまりこの地上で準備をしておくことによって、初めて人間は、死後、霊界で目が見えるようになるからです。

 霊的な世界は存在します。皆さんは、霊界で目が見えるようになるためにの能力を、この地上で獲得しなければなしません。さもないと皆さんは、霊界で目が見えなくなってしまいます。精神科学とは、意識的に霊界に入っていくための能力を皆さんに与える力なのです。もしキリストが物質界に現われなかったらならば、人間は物質的な世界の中に沈み込んだ存在となり、霊界に足を踏みいえることができなくなったことでしょう。

 しかし実際にはキリストが現われたことによって、人間にはキリストによって霊界まで引き上げられ、霊界で意識を保ち、目が見えるようになる可能性が与えられました。人間が霊界で目が見えるようになるかどうかは、人間が、キリスト遣わしたもの、つまり霊と自分自身を結びつけるかどうかにかかっています。そうでないと人間は、無意識の状態に留まることになります。人間はみずからの不死性を獲得しなければなりません。なぜならば無意識の状態に留まっている不死性は、まだ真の意味における不死性とは言えないからです。

 この点に関して、既にマイスター・エックハルトが美しい言葉を述べています。『人間が王様であることを知らないならば、人間が王様になったとしても何の役に立つのか』、と。このような言葉とともにエックハルトは、『人間が【霊的な世界とは何なのか】を知らないならば、あらゆる霊的な世界は人間にとって何の役に立つのか』ということを伝えようとしたのです。

 皆さんが霊界を見るの能力を身につけることができるのは、物質界にいるときだけです。『そもそも人間はなぜ物質界に降りてきたのか』という疑問を抱く人は、この点を心に留めておいていただきたく思います。人間は霊的な世界が見えるようになるために、この地上に降りてきたのです。もし人間が地上に降りてきて、自己認識を身につけないならば、人間は霊的な世界が見えないままの状態に留まることになるでしょう。そして、もし人間がこの地上で自己意識的な本質を身につけて霊界に戻ることができるらば、光に満ちた霊界が人間の魂の前に現われるのです。

 このように、精神科学とは単なる世界観ではありません。精神科学なしでは、人間はその不死の部分において、不死の世界についてなにも知ることができなくなります。精神科学とは現実的な力です。それは一つの現実として魂の中に流れ込んできます。この場に座って、精神科学に従事することによって、皆さんは単にある事柄を知識として学ぶだけでなく、『何者か』になるために成長するのです。もし精神科学がなかったら、皆さんはこの『何者か』になることはできないでしょう。これが精神科学と他の世界観との違いです。他のすべての世界観は知識を得ることに関係しています。しかし人智学は人間の存在に関わるのです。―――後略―――」  
    (「悪と秘儀 アーリマンとルシファー」 第二章)

 

そして、シュタイナーはこうした認識は、東洋の隠秘学と対立するものではなく、むしろ東洋と西洋の認識の溝を埋めるものであるとして、上記の講義の中で次のように続けています。

「物事を正しい方法で組み立てていくならば、私たちは次のように言わなくてはなりません。つまり、まさにこのような光の中で、キリストと霊と精神科学全体が、本質的な内なるつながりのもとに現われるのです。このようなつながりを前にして、現在、表面的に語られている事柄は――例えば、『西洋が進もうとしている方向は、東洋の隠秘学が目指している方向に敵対しながら仲介するものである』といった意見は――すべて消滅することになるでしょう。

 このような事柄について語ることは許されません。二つの隠秘学などというものは存在しないのです。存在するのは、ただ一つの真理だけが存在するのです。また、西洋と東洋の精神科学の対立も存在しません。ただ一つの真理だけが存在するのです。―――中略―――

もし東洋の側の人々が『ブッダのアストラル体は保存され、のちにチャンカラチャリア(788820年:ヴェーダやインドの学問の改革を行った)に組み込まれた』というならば、それが真実であることに私たちは異を唱えようとは思いません。とはいうものの、そのことは、私たちが次のような事柄を告げる妨げとなることはないのです。

 『ナザレのイエスのアストラル体は保存され、それを写し取った幾つかの似姿が地上に現われた。つまりそれは、当時キリスト教の意味するところにおいて活動したさまざまな人々に、例えばアッシジの聖フランチェスコやチューリンゲンのエリザベートに組み入れられたのである』。

 私たちは東洋の秘教の真理を全く否定するつもりはありません。私たちが否定するとしたら、それはせいぜい東洋の秘教が西洋の叡智に関して否認する事柄だけです。ですから仮に人が、『なぜある事柄が否定されるのか。東洋と西洋の敵対関係はなぜ存在するのか』という質問をするとしても、このというに答えるのは私たちの役目ではないのです。なぜなら、それに答える義務が生じるのは、私たちがなんらかの敵意を持っている場合だけだからです。しかし、私たちはそのような敵意は持っていません。答える義務がるのは否定する側の人間であり、容認する側の人間ではないのです。これはまったく自明の事柄です。

 そしてこのような事柄を出発点とすることで、来週以降、皆さんが精神科学とゴルゴタの秘儀のつながりを魂の前に導き出すことが可能になるでしょう。そして皆さんは『精神科学的な世界運動は、キリストが霊と呼んだ、あのインスピレーションや力を実行に移すものである』ということを通して、精神科学の運動のすべての使命を、より高い領域へと引き上げることができるようになるでしょう。―――後略―――」

      (「悪と秘儀 アーリマンとルシファー」 第二章)

 このように西洋と東洋の思想を対比させる際のシュタイナーの姿勢は、人智学と大本の思想を対比させる場合にも通じるはずです。そして、それは輪廻転生やカルマの法則について双方の認識を探求するとき、多くの共通した見解を発見することができるのです。このことを踏まえて、以下、「(二)西洋と東洋の叡智の合流」に進むことにしましょう。

 
 

(五)西洋と東洋の叡智の合流


 一般的には霊学を学ぶと、人間が虚無感や絶望感に苛まれるのは、祟り霊や生霊などの憑依のためだと感じられてきます。しかし、シュタイナーの輪廻転生とカルマの正確な認識からすれば、たとえそれが憑依によるものであったとしても、その原因は自分自身の前世のカルマに起因する可能性が高いことが解ります。そして、ここにもう一つの重要な真実が隠されているのです。

 

 霊的に考えれば、「輪廻転生とカルマを否定する人は、自己の永遠性を否定するため、結果として、その思考を自分自身に負のカルマとして作用させ、来世の自分に裁きを与えている」のです。

 

そうであれば、「神様は人に自由を与えてはいるが、決して人に裁きを下すことはない」ことも理解できます。仮に、死後に冥界の閻魔大王、オシリス、モーセといった存在に裁かれるとしても、それは自身が積んだカルマによる結果だと解釈できるはずです。

 

 そう考えると、人間は「自分が自分自身を裁く」のであって、本来は「他人を裁く必要は無い」はずなのです。それにも関わらず「他人を裁く者は、そのカルマによって自らも裁かれる」ことになるのです。

 

 さらに、霊的世界を信じる人は、来世の自分を救っていることにもなるので、「正しい認識に基づいた信仰によって神を信じる者は救われる」ことになります。同時に、来世の自分を救うのは今世の自分自身の正しい認識と言葉と行動なので、「神は汝自身を救う者を救う」ことにもなるのです。

 

 このように、カルマの法則を知ると「神を否定する人=救われていない人=罪深き人」を前にしたときに、その罪人を裁くというのは矛盾するのです。なぜなら、その罪人とは「神を否定し反対する態度」によって、既に来世の自分自身を深く罰しているからです。

 

 そのため、輪廻転生とカルマの法則を理解する人は、唯物論的で神仏を信じることのできない人を哀れで気の毒な罪人として慈悲心を抱くはずなのです。したがって、『「神の名において他人を裁く人」とは「まだ真に救われてはいない人」』ともいえるはずなのです。

 

 この意味でも、現世において『キリストの福音』と『仏陀が説いた輪廻転生とカルマの法則』が一つの真実として互いの真実性を支え合い高め合うことになり、よりいっそう強い力となるのです。そして、こうしたキリストの福音と仏陀の教を学び信じることが、来世における自分自身を救済する非常に重要な手段であることに改めて気付かされるのです。

 

 シュタイナーは、一九一一年に「今日、私たちは仏教とキリスト教の合流点に立っている」と述べたといいます。また、こうした西洋と東洋の認識について次のようにも述べています。

 

 「今日、人類はこの薔薇十字の偉大な教えに、二つのものをもたらすことができます。その二つは、将来キリスト教を理解しようとするときに、非常に重要なものになります。今日の精神科学=霊学をとおして、このことがなされるべきです。

 精神科学=霊学は、スキティアノス(註1)、ゾロアスター、ゴータマ仏陀の教えを、古いままの形でではなく、今日研究しうる、まったく新しい形で世にもたらすべきです。私たちは彼らの教えから学ぶことのできる基本的な要素を、まず文化に合体させることからはじめます。

 キリスト教は仏陀から、輪廻転生とカルマの教えを学ぶことができます。なぜ今日、輪廻転生とカルマの教えがキリスト教のなかに流れ込んでいるのでしょうか。仏陀が輪廻転生とカルマについての教えを仏陀の方法で理解したように、秘儀参入者たちが現代的な意味で輪廻転生とカルマを理解できるようになったからです。

 同時に、スキティアノスも理解されるようになります。スキティアノスは人間の輪廻転生だけではなく、永遠に存在するものについて教えました。このようにして、世界の本質、地球世界の中心存在たるキリストの本質が把握されてきます。」

 

 (註1・スキティアノス・シュタイナーによれば、中世初期に生きた高次の秘儀参入者であり、肉体の秘密を伝えるアトランティスの太古の叡智を保管していたとされる。)

 (シュタイナー用語辞典・・・スキティアノス:最高の秘儀参入者の一人。アトランティス時代の霊視力・叡智を保管する。ヨーロッパからシベリアまでを活動の舞台とし、ヨーロッパ文化の指導者・スラヴ民族に霊感を与えた。紀元前の密儀において、木星神霊の影響下に仏陀、ゾロアスターと共同した。仏陀、ゾロアスターとともに菩薩の受肉であり、薔薇十字の三大導師である。)

 

 一方、出口王仁三郎も次のように述べています。

 「……この物語もまた決して日本のみに偏重したことは述べていない。世界統一的に神示のままに記述してあるのだ。まだ新論的迷夢の醒めない人々は、この物語を読んで、不快に感ずる人もあるであろうが、しかし真理は石の如く鉄のごとく、感情や意志をもって枉(ま)ぐることはできない。 

 神道も仏教も耶教(やきょう:キリスト教)も、時代と地方との関係上、表面別々の感があるやうだが、その最奥をきはむれば、同一の神様の教えであることを覚り得らるるのである。ゆゑに神の道を研究する人は、広き清き偏頗(へんぱ)なき心をもつて、真面目にかかつていただきたいものであります。」(霊界物語・第四十七巻・総説)

 

 私たちは弥勒仏が出現するまでの三千年の間に、輪廻転生を通じて「仏教的な叡智」と「キリスト教的な博愛」を自分自身に作用させる必要があるはずです。現代の私たちは、西洋においてはルドルフ・シュタイナーの人智学を学び、東洋においては出口王仁三郎の霊学を学ぶことができる時代に生きています。

 

 それは他でもない、シュタイナーが語ってきた西洋と東洋の合流の時代そのものであると言えるのではないでしょうか。

 

注 : 第一章 ■七■(一)参照
注 : 第四章 ■五■(一)~(四)参照
注 : 第四章 ■六■(七)(八)参照

 

 

(六)善と悪とカルマの法則(その1)

 シュタイナーの人智学(薔薇十字会の神智学)からすれば、究極的には悪魔とは、神の断念によって存在が可能となり、運動霊(ディナミス)たちが主神の意志に従って悪を演じたことによって生じたとされ、太陽紀にアーリマン、月紀にルシファーが存在していたことは、既に取り上げました。

 

 そして、神は 「人間が自由意志を持ち、そこから善と愛を選び取り、悪を寛容によって克服することで霊的な進化とを可能にした」という意味では、人間にとっての悪は人間に自由を与えると共に、神にとっては至善至愛の行為であることも、先に考察した通りです。

注:第二章■四■(三) 参照
注:第四章■四■(六)~(十)参照
注:第四章■五■(五)参照
注:付録■2■参照

                

 

 それでは、人間にとっての善や悪とは、何を基準にすべきなのでしょうか。私たち人間は、神を信じるようになると、神を信じる人が善で、神を信じない人が悪であるように感じられてくることが多いはずです。実際、マヤ文明などはキリスト教徒によって悪とみなされ、すさまじい迫害を受けたとされています。したがって、神の断念によって悪魔が存在できることや、最後の晩餐でイエス・キリストがユダを寛容したことを、間違って解釈してしまう恐れが生じます。

 

 例えば・・・・・・、「主神の意志と行為が全て、至善至愛であるのなら、人間が行なうどんな行為も究極的には善であり、たとえ自分が悪いと感じる事をしてもそれは広い視点から見れば善なのだ。それに、イエスのように悪が存在してもそれを放任するのも善だし、オシリスのように改心させるために悪を罰するのも善なのだ。

 結局、すべてが善なのだ。だから、主神を信じる私は何をやっても善だし、神を信じさせるためには嘘も方便であり、神を信仰させるためならば手段を選ぶ必要など無いのだ!……」と、極端に言えば考えてしまうかもしれません。こうした思考には、宗教に熱狂する人間を魅了する非常に強い魔力が秘められており、霊界物語の高姫にもみられる危険な心情です。

 

 ところが、『カルマの法則』を考慮する時、こうした考えがルシファー的な悪魔による誤謬であり、自滅的な思考であることが明確に理解できるのです。カルマの法則を考慮すると、私たち人間が「善」だと感じるのは、自分が過去にその「善」なる行為を行なったことが、正(プラス)のカルマとして自分に返ってきたということを意味しています。つまり、「善」であると感じることは、自分が他に対して行なった事が「善」だったからなのです。

 

 その反対に、私たち人間が「悪」だと感じるのは、自分が過去にその「悪」なる行為を行なったことが、負マイナスのカルマとして自分に返ってきたということを意味しています。つまり、「悪」であると感じることは、自分が他に対して善だと思い込んで行なった事が「悪」だったために生じたのです。

 

 そして、この無知や利己心による小善こそが悪の原因であり、悪が自らにカルマとして返ってきたものが自らの心や体の苦になるのです。その事が理解できると、先のように主神を信じているからといって、全ての行動が善だと考えることが、カルマ的な自滅を招くのは当然であることも理解できるのです。

 

 従って、私たちが感じる「善」や「悪」とは、私たち自身の心と言葉と行動の「心の鏡」を見ているわけなのです。この「心の鏡」を神道では、神棚の前に丸い「神鏡」を置くことによっても示しています。浅野和三郎著の『小桜姫物語』の小桜姫も霊界において鏡の前に鎮座して修行する場面が描かれています。

 

 その意味では、神鏡とは「カルマの表象」でもあるのです。例えば、自分に対して周囲の人々が怒ったり、泣いたり、苦しんだりする表情を浮かべるとすれば、神鏡はその通りに、私たちの負のカルマの状態を在りのままに映し出しているのです。微笑み、喜んでいる表情が映るとすれば、それは正のカルマを表象しているわけなのです。

 

 このことについて大本神諭には、次のようにも記されています。

 「他人が悪いと思うて居ると、全部自分の事が鏡に写りて居るのであるから、他人が悪く見えるのは、自己に悪い処や、霊魂(みたま)に雲が掛かりて居るからであるから、鏡を見て自己の身魂(みたま)から改心いたさす様に、此の世の元から変性女子の霊魂がこしらえて在りての、今度の二度目の天の岩戸開きであるから、一寸(ちょっと)やソットには解る様な浅い経綸(しぐみ)で無いから、改心いたして身魂を研くが一等であるぞよ。」 (明治三十六年旧四月十六日)

 

 つまり、すべて他人が悪いと思っているうちは、自分自身の悪にもまったく気づけていない証拠なのです。また、変性女子(王仁三郎)を悪と感じていた人は、実は自分自身が悪なのだと筆先は語っているのです。

 

 また、シュタイナーも 「――さらに美しい象徴は鏡です。私たちの周囲にあるものは、精神的なものの鏡だと、しばしば言われます。実際、外的なものはすべて、精神世界の反映に他なりません。みなさんはそれを自分で、物質生活において観察できます。」 (色と形と音の瞑想)と語っています。

 

 仏陀は、この法則を「善因善果、悪因悪果」「因果応報」といった言葉によって示しています。また、イエス・キリストはこの法則を「何事によらず自分にしてもらいたいと思うことを、あなた達もそのように人にしなさい。」という言葉で示しています。よって、「仏陀は叡智によって法を示し」、「イエスは愛によって法を示している」ことが理解できます。

 

 

(七)善と悪とカルマの法則(その2)

 さらに、この正負のカルマの法則は、前世の人間の行為が今世に影響を及ぼすことによっても生じます。そのため、私たち人間は、前世の負のカルマのために、一生懸命正しいと感じることを行なっているのに苦悩や不幸が続き、全く報われないということも生じてしまうのです。その逆に、前世の正のカルマによって、あまり意図せずに行ったことが喜びや成功に繋がるようなことも生じるのです。

 

 大本神諭には、「人民と云うものは、前世(まえよ」の因縁(いんねん)が皆あるから、我身を恨めて置かねば、我身に罪科(めぐり)があるのじゃぞよ。」 (明治三十一年旧三月二十四日)と書かれています。

 一方、シュタイナーも 「特に、神秘的な修行において目的を達成できないとき、他人ではなく自分の責任にすることによって、心魂に平静さ・冷静さを発展させるのはよいことです。それが最も、前進に寄与します。いつも責任を他人になすりつけ、いつも方法を変えようとすると、ぜんぜん進歩できません。是は重要なことです。」 (イエスからキリストへ)としており、意図していることは同じであることが解ります。

 このようにカルマの法則を認識すると、これまで周囲の責任にしていた境遇が、実は自己の過去の因縁もその一因になっていたのだという認識に変化してゆきます。すると、一時的には自己嫌悪的な反省を促される反面、その認識の深まりと共に周囲に対しての言葉や態度が良い意味で謙虚で慈悲を含むようになってきます。

 

 すると、周囲からの自己に対する認識も改善されてゆくので、さらに、自分自身も周囲への理解を深めることができるようになり、結果として自己のカルマが少しずつ正(プラス)に向かってゆくわけです。そして、それこそが、身魂磨きの修行でもあり、霊的な進歩につながるはずなのです。

 もちろん、個々に見れば実際はそれほど単純な事ではなく、客観的には非常に恵まれた境遇に居る人がその豊かさを実感できずに不幸を感じている場合も非常に多いはずですし、その半面、過酷な境遇の人がそれを生きがいにして生き生きと生活している人もいるはずです。ただ、仮にどのような境遇にあったとしても、霊的な認識が深まり、身魂が磨かれてゆけばそれまでは不幸であったと感じていた事柄が、むしろ恵まれた感謝すべき境遇だったのだと感じられてくるはずなのです。

 

 儒教などでは、正のカルマの貯金を「善徳」 、負のカルマの借金を「悪業」とも呼んでいます。そして、徳を積むことによって、悪果の原因である「悪業」を未然に防ぐこともできるのだ、としているわけです。特に、陰録(いんしつろく)という古典では、正のカルマである徳を意識的に積むことを強調しており、善行を「功」 、悪行を「過」として、これを表現しています。

 

 これに対して、「負のカルマが必ず清算しなければならないものならば、苦しんでいる人を救うことは、負のカルマを清算する邪魔になるのではないか。」と問うことができます。これに対しては、シュタイナーの洞察を参考にすれば、次のような譬え話ができると思います。

 

 「ある紳士にはマラソンで四二・一九五キロ先のゴールまで到達しなければならないという、負のカルマがありました。しかし、彼は三十キロ地点で咽喉が渇いて走る気力を失ってしまいます。ところが、偶然そこにいた貧しい少女が水筒に水を入れて、彼に手渡してあげたのです。

 彼はその水を飲めたお陰で気力を取り戻してゴールまで到達できたので、負のカルマも無事清算できました。そして、ゴールした彼は洋服店を商っている人だったので三十キロ地点で出会った貧しい少女への感謝の気持ちとして、彼女に素敵なドレスをプレゼントして写真を撮ってあげました。そして、それは彼女にとって一生忘れられない幸せな想い出になりました。」

 

 このような時、負のカルマとは必ず清算されなければならない性質のものですが、これに関与して助力することは、相手のカルマを早く楽に清算させてあげることを可能にします。また、少女は水で正のカルマを積み、紳士は水で救われたため、少女にプレゼントをすることで損をしていますが、少女の正のカルマもプレゼントを受け取ることによって清算されます。

 

 この時、プラスマイナスはゼロになるのではなく、双方には喜びと友愛と絆(仁徳)が残ります。そして、この徳は、死後の霊と霊、来世の人と人の関係に有効に作用するはずなのです。これに対して、もし水筒を持った少女が、苦しむ紳士の前を無視して素通りしたとすれば、紳士は少女を憎んでいたかもしれません。また、少女も自らの冷淡さのために、水筒の水を洋服に変えることができないのです。

 

 つまり、相互に憎しみ合い傷つけ合うことが双方の苦しみの原因(悪業)であるならば、持つ物を分け合い助け合うことは双方の喜びの原因(徳)になるのです。そのため、前世の負のカルマに嘆くのではなく、今世の努力で正のカルマを関与させることは、非常に効果的なカルマの解消手段だということができるのです。

 

 シュタイナーは、次のように語っています。

 「カルマでの関係でいえば、善、賢、真、正が貸しになり、悪、愚が借りになるのです。そして、人間はいつでも自由に、カルマの帳簿に新たな計算の内訳を記入できるのです。ですから、人生は人間の手では変えることのできない運命の法則に支配されていると思うべきではありません。カルマの法則によって自由が妨害されることはありません。

 過去からのカルマを考えるのと同様、未来へのカルマを考えねばなりません。私たちは過去の行為の作用を受け、過去の奴隷なのですが、未来の主人、支配者でもあるのです。良い未来を創造しようと思うなら、可能な限り良い内訳を人生の帳簿に記入していかねばなりません。」 
                 (薔薇十字会の神智学)

 

 また、儒教では誰にも知られずに善行をすることを「陰徳」と呼び、それが最も高い徳になるとされていますが、それはマタイ福音書では 「あなたは施しをするときに、右の手のすることを左に悟られてはならない。これは施しを隠しておくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。」という福音に示されていることが解ります。

 

 このことは、霊界物語においても、次のように書かれています。

 「――前略―― 私の初陣として、あなたの御病気の全快を神様に祈らせて下さいませぬか。」

 「それは是非ともたのまねばならぬ。しかしながら不言実行だ。お前さまが私の宅(うち)に来て間もなく、私の病気が知らぬまに癒えるようになさらぬか。願わしてくれ・・・・・・なぞとおっしゃるのが間違ってをる。まだおまえさまはチツとばかり名誉慾の魔が憑いておりますな。」

 「ハイ恐れ入りました。それならモウ決して祈りませぬ。あなたの病気には無関係ですから、さう思って下さい。」

 「ハイハイ分かつた分かつた。お互い神様の御子じゃ。右の手より施す物を左の手が、知らぬようにするのが、誠の不言実行、三五(あなない)の教えだ。」 

               (霊界物語・第二十巻・第一章)

 

(八)善悪の基準と断念の修行

 

 私たち人間は、自分がして欲しいことを他人に行なっても、それが他人とって喜べないことであったり、迷惑であったりする場合も多々あるものです。人間の趣味趣向というのは、千差万別だからです。王仁三郎も「善言美詞は対者による」として、次のようにも語っています。

 

 「善言美詞は対者によることであって、車夫が同士に対しては車夫の言葉、ちょっと聞いてはなはだ悪言暴語のような言葉でもそれが善言美詞であるし、地位名望のある人たちのあいだには、それ相当の美しい言葉が交わされねばならぬ。

 『まだ生きてけつかるのか、米が高くてこまるぞ、よう。』というと、『やあ、手前(てめい)もまだ生きていたのか』。これはわたしが荷車をひいていた時代に、これらの社会において、たがいに取りかわさるる善言美詞である。

 こうした暴(あら)い言葉の底にひそむ、友を思うの情はたがいに充分に相通じ了解されるのである。

 舌の下には心あり、と神歌のごとく、要は心の問題で、敬愛の心からでる言葉は表現はまずくとも善言美辞となって表わるるもので、この心なくて美辞を使うと、それは阿諛諂佞(あゆてんねい:口先だけで相手に上手くへつらうこと)となり、欺言(ぎげん)、詐語(さご)となる。」
                  
(昭和五年一月・月鏡)

 

 このように、言葉も相手の身魂相応に使わなければ、返って礼を欠くことになる場合もあるのです。そこに、カルマの法則の解釈の難しさがあるのです。

 では、どのように善を表現したら、私たちは正のカルマによって、自分自身が善だと喜べる徳を積むことができるのでしょうか。

 当然のことですが、人間は誰でも相手の心の中を完全に透視や霊視でもできない限り、必ず善だと思って行なったことで、悪を行なってしまうことがあります。だからこそ、カルマの法則によって、自分にとって悪や苦と感じることがあったら、自分の行為を顧みて反省し、他人の振り(不理)を見て、我が振り(不理)を直す必要があるのです。

 

 そして、「悪」を行なっている人に対しては、「腹を立て、頭に血を上らせて、怒る」のではなく、「相手がこれ以上負のカルマを積まないようにするため」という、相手への善意から「良くなるように、気づかせてあげる」という意識が大切なのです。

 

 また、それに対して、「うるさい、迷惑だ」と言われ、喧嘩や言い争いになるとすれば、それは注意の仕方が「悪」かったことを反省すべきということになります。また、それは、自分自身に他人を諭すだけの徳の力が足りないからだという解釈もできるはずです。

 

 よって、「怒る」と「叱る」の意味の違いは、見た目は同じように見えてもカルマ的には「負のカルマ」と「正のカルマ」になるはずです。そのため、自分自身の負のカルマによって生じた結果を棚に上げて、他人に全責任があるとして、腹を立て、他人の責任のみを追求し、それに裁きを与えるとすれば、その人は自分自身が同じ過ちを犯してしまった時には、カルマの法則によって同じように裁かれるはずなのです。

 しかし、他人から悪を為されるのは、自分の負のカルマにも原因があるためだと反省し、相手を赦した上で、相手への愛情から、相手が二度と同じ過ちを繰り返さないよう「注意し、説得し、諭す」のであれば、それは裁きではなく、相手を向上させ、自分に正のカルマを及ぼしたことになるはずなのです。

 結局、他人の罪を赦すことができる精神性と、自分自身が注意されたことに感謝できるような人格にさえなっていれば、負のカルマは自己の向上のための良薬として役立てることができるのです。そして、負のカルマが軽減し、徳が身に付いてくれば、今度は他人を注意したとしても、他人から感謝されるようになるはずなのです。

 例えば、シュタイナーは次のように述べています。

「よい食事や飲み物を好む人が教師や教育家になった場合、その人の語る言葉は生徒に届きません。欲望の多い教師が語る言葉は、生徒の耳を素通りしていきます。それなのに、このような教師たちは、自分の煩悩を省みないで、生徒の理解の悪さを叱るのです。

 高い次元から人生を理解し、中庸を守り、必要以上の食事を摂らず、とくに、運命を受入れるよう心掛けている人は、やがて、自分の語る言葉が霊力を有するようになっているのに気づきます。言葉だけではなく、視線も力を持つようになります。

 それどころか、生徒のそばにいて、晴れ晴れとした思考をもつだけで、生徒を励ますことができるのです。どれほど深く、自分の要求を断念しているかにかかっているのです。」
(薔薇十字会の神智学)

 

 同様に、王仁三郎の場合は 「わが心を清め、その行いを修めたるのちにあらざれば、人を善き道にいざなうこと、もっとも難きものなり。そは、不正無行の人のいざない導きの言葉には、信なく義なく、力なきゆえに、人を感ぜしむることあたわざるものなり。」 
(道の栞・第二巻・下・一〇)と記しています。

 

 そして、大本神諭では次のように示されています。

 「肚(はら)の中に誠(まこと」という精神を有(も)ちて居ると、善いお話しが何となく耳に入りて、結構が腹へ滲(し)み込みて、他(ひ)とから見て、あの人は違うた人であるという事がよく分りて、他が崇めるし、神徳が受かるから人徳が出来るし、一つは各自(かくじ)の行為(おこない)善くば、神徳がよく分りて来るなり、

 従来(これまで)とは違うて、今度の二度目の世の立替えは、さっぱり何彼(なにか)の事、精神の持ち方を変えて貰(もら)わんと、従来の事は些(ちっ)とも用いられんから、守護神が辛くなるぞよ。」
                 (大正七年旧三月十五日)

 「学や智慧やぶつを力に致す中は、誠の霊魂(みたま)は研けて居らんぞよ。」 
               (大正五年旧十一月八日)

 また、王仁三郎は 「我国(わがくに」は 徳主法従(とくしゅほうじゅう)神国(みくに)なれば) 理屈りばかりで 治まらぬ国」 と詠んでいます。

 

 この意味では、本書で学や智慧であれこれと理屈を述べるようでは、まだ徳が身に付いておらず、霊魂が研けていない証拠であると言えます。ただ、シュタイナーは 「人間を再び霊的世界へ引き上げる力は二つあります。一つは智、もう一つは徳です。」 としており、知識偏重型の現代においては、徳について学び、智を深めることも必要なことであるといえるでしょう。


 

(九)カルマと輪廻転生の法則


 シュタイナーは、カルマの法則について「カルマ論集成」の五冊の中で様々な角度から語っていますが、ここでは「薔薇十字会の神智学」からその一例を抜粋してみたいと思います。

 

●世界の偉大な叡智は、苦悩と苦痛を静かに耐えることによって得られるのです。苦しみと痛みを静かに絶えることが、来世において叡智を創造します。

 

●大勢の人々が苦痛と苦悩を嘆いています。高次な観点から見れば、苦痛や苦悩を克服することで、来世においてこの苦痛と苦悩が、叡智と思慮と洞見の源泉となるのですから、嘆くのは正しくないのです。

 

●もし、かつて多くの真実を考えたのなら、再受肉(転生)の過程で優れたアストラル体を獲得できます。

 

●真実を語る者は進化に奉仕し、虚偽を語る者は進化を妨げています。それゆえ、霊的に見れば虚言は殺人行為であるという神秘学的法則が存します。虚言はアストラル的な形象を殺すだけでなく、自殺行為でもあります。嘘をつく者は自分の人生を害することになるのです。霊界のいたるところのこのような作用が見られます。霊視者は人間が考え、感じたことがアストラル界に影響を及ぼすのを見ます。

 

●人類の未来の進化のために霊学は必要なのです。……現在の受肉において真理を受け入れた人は、来世以降、深い真理を表す外見を有するようになります。

 

●嘘をつく傾向のあった人は、死後、人間に対する激しい情動を感じ、嘘に対する強い傾向が示されます。その結果、次の人生においては、単に虚弱な身体ではなく、異常な構築のされ方をした身体組織を持つ事を、精神科学は示しています。

 

●邪悪な傾向や情欲を発展させた人は来世で、不健康な肉体を持って生れます。……肉体的素質における限りの健康、病気は自ら作り出したものなのです。

 

●周囲のものすべてを愛し、どのような人とも愛情をこめて接する性向を持ち、愛が溢れ出るような人生を送った人は、来世でいつまでも若々しく、いきいきとした肉体を持つことになります。すべての存在への愛、共感の達成は、いつまでも若々しい肉体を生み出します。

 

●病気に耐えると、しばしば来世で美しい体に生まれます。……病気、とくに外的な原因による病気を通しての体の毀損(きそん)と次の人生での肉体の美しさとは、このように関連しています。

 

●多くの人が『自殺をした人は、人生にうんざりしたのだから、人生に執着していないのではないか。』と、いう。それは誤解である。まさに自殺した人が、非常に人生に執着しているのである。満足が得られず、楽しみが拒まれたために、死を選んだのである。そのために、物質体(肉体)を失ったことが、言葉では言い表せないほどの苦しみになる。

 

●金銭をためたいという激しい営利心を持つ人は、来世で伝染病にかかりやすい体質に生まれます。……金銭を儲けようとせず、人類全体のために働きたいという客観的な努力は、エーテル体の中で一つの性向となり、来世において伝染病に対する抵抗力を生み出します。

 

 こうしたシュタイナーの霊的洞察を整理すると、おおよそ次のような法則性があることになります。

 

■今世の外界を見聞した体験【物質界からの体験】 

→ 来世のアストラル体に作用し、その体験に適った感情、知覚、思考の特性を引き寄せる。

 

■今世の苦楽などの精神的体験【アストラル界の体験】

→ 来世のエーテル体に作用し、気質、性向、才能となる。

 

■今世の永続的な性格や素質【エーテル界の体験】

→ 来世の肉体の健康、病気、若々しさ、老化、伝染病に対する抵抗力といった体質となる。

 

■今世の肉体的苦痛や言動の真偽【物質界への行為】

→ 来世の身体的な美醜や外部からの物質的事実として行為者に返ってくる。

 

 例えば、私たちは「カルマの法則が真理なら、今の自分に富と名誉があるのは前世の徳があるからではないか。だから自分さえ良ければ、他人の飢餓や貧困など関係ないし、それは自業自得なのだ。」と考えがちです。

 

 しかし、その無慈悲さ故に死後の世界で物質的な富も名誉も何の役にも立たなくなった時に、霊的に何も誇れるものがなく、他人から感謝されることも無く、霊的な意味での飢餓(自責の念)や貧困(後悔)に苦しむことは、十分に考えられます。それに、他国を植民地化したり、地位と名誉を利用して身分の低い人を奴隷扱いしたり、労働者の成果を貪欲に搾取したりしていたとすれば尚更のことです。

 

 反対に、前世の負のカルマのために、この世でどんなに働いても報われず、地位の高い人々に搾取され続けたとしても、次の転生の際には、逆の立場として地位と名誉を得られるようになるかもしれないのです。そうでなくても、苦労と努力が報われる喜びと充実感に満たされた人生になるはずです。

 

 大本神諭には、次のようにも書かれています。

 「余り上へ上がりて、栄耀(えいよう)を致して居りた人民、世が上下(うえした)へ変えるから、上に立つ者程苦しまねば成らん様に成るぞよ。罰(ばち)が当たりて、頭に足が生えて、逆様(さかさま)に歩くという事が譬(たと)えに申すが、下の人民を苦しめたものは、其の通りに成りて、恥じさらさな成らんぞよ。」
                (明治三十六年旧正月三十日)

 「根に葉の出るは虎耳草(ゆきのした)、上も下も咲かねば、此の世は治まらぬ。上ばかり好くても行けぬ世、下ばかり宣(よ)くても此の世は治まらぬぞよ。」       (明治二十五年旧正月)

 

 そのため、地位の高い者は、地位の低い者を正当に尊重してこれを助け、地位の低い者は、地位の高い者の徳を尊重し、その慈悲に感謝するようになれば、双方に徳が身に付き、正のカルマは双方に積まれるようになるはずなのです。霊界物語・第六巻・第五十章には、次のように詠み込まれています。

 

人を審判(さばく)は人の身のなすべき業に非ざらめ

下を審判くな慈しめ 下がありての上もあり 

上がありての下もある  上と下とは打ちそろい

力を合わせて村胆の 心を一ひとつに固かためつつ

世の曲事(まがごと)は宣(のり)直し 直日(なおひ)の御魂(みたま)に省(かえり)みて

神の心に叶えかし

 

 こうした法則を考慮すると、戦争を画策したフリーメーソン結社の人々は、戦争で殺し合った軍人や兵士たち以上に、深く重い負のカルマを積んでいたわけであり、悪魔に魅入られた非常に気の毒な人々であったと感じられてきます。そのため、こうした人々の来世は、最貧困層の飢餓と伝染病の蔓延する地域の国民となるかもしれません。

 

 それによって、貧困の苦しみを知り、他人からの慈悲に感謝できるようになり、地位と富と名誉のもっとも有効な使い方を考えるようになるはずです。そうすれば、次からは地位も富も名誉も正のカルマとして作用させることができるようになるはずなのです。また、そうした組織が存在する国家の子孫や国民には、負のカルマの清算のために、今後もテロのような人災や、ハリケーンや竜巻、集中豪雨、旱魃、大地震、津波、大寒波、猛暑、などの天災が次々と起こるかもしれません。

 

 それについて王仁三郎は 「現代の賢き人間は、天災地妖と人事とには、少しも関係無しといふものも多いけれど、地上の神人の精神の悪化は、地上一面に妖邪の気を発生し、宇宙を混濁せしめ、天地の霊気を腐穢し、かつ空気を変乱せしめたるより、自然に天変地妖を発生するに至るものなり」 (霊界物語・第六巻・十五章)と述べています。

 

 さらに、大本神諭では、この負のカルマの清算について次のように述べています。

 「天(てん)の大神様が、いよいよ諸国の加美(かみ)に、立替の命令を降(くだ)しなされたら、艮の金神国常立尊が総大将となりて、雨の神、風の神、岩の神、荒(あれ)の神かみ、地震の神、八百万(やおよろず)の眷属(けんぞく)を使つかうと、一旦は激しいから、可(な)る成(べ)くは静まりて世界の守護を為せるなれど、昔の純粋(きっすい)の日本魂(やまとだましい)の活神(いきがみ)の守護に成りたら、此の中へ来て居(お)る身魂に申し付けてある事を、みな覚えて居るであろうが、一度申した事は其の様に致たすから、神の申すことを一度で聞く身魂で無いと、十分の事は無ないぞよ。」
               
 (大正四年旧十一月二十六日)

 

 また、シュタイナーの場合は、 「自然現象および霊的・道徳的現象の上部に、一つの真の現実が存在し、この現象の中に道徳的な現れ方はするが、同時に、道徳的行為を自然現象と同じような作用へと変容させる力が含まれている。」 と自伝の中に記しています。
ルドルフ・シュタイナーと人智学協会(二)参照)

 

 ただし、シュタイナーは『カルマ論』の中で、天災によって亡くなる人の全てが必ずしも負のカルマによるものではなく、早死することで来世の正のカルマとして強いアストラル体を準備する場合もあるとしています。つまり、自然災害などで罪の無い子供などが短命で他界するような場合は、来世にその力が還元されるということも忘れてはならないことだといえます。

 

 さらに、シルバーバーチの霊訓では、人間の邪心と害虫や寄生虫の関連性の会話の名で、次のようにも語っています。

 「いいですか、大自然は今なお進化の過程にあるのです。自然界のバランスは人類の行為如何によって左右されており、人類が進化すればするほど、自然界の暗黒が減っていくのです。人間の霊性の発達と自然界の現象との間には密接な関係があるのです。人間の存在を抜きにした自然界は考えられないし、自然界を抜きにして人間の進化はあり得ません。

 双方の進化は大体において平行線を辿っています。人間は神によって創造されたものであると同時に、神の一部として、宇宙の進化の推進者でもあり、自分自身のみならず、自分の属する国家を司配する自然法則に影響を及ぼします。


 私は今、人間と自然界の進化は“大体において”平行線を辿ると言いました。両者にはどうしても少しずつズレが出てくるのです。なぜなら、過去の世代が残した業(ごう:カルマのこと)はかならず処理していかねばならないからです。」
          
(第5巻 第七章 動物は死後どうなるか)

 この内容は、大本の『教旨』である次の言葉を思い起こさせます。
 「神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の主体なり、
          神人合一して茲に無限の権力を発揮す。」


 そして、出口王仁三郎は次のようにも語っています。

 「――前略―― 人間は苦労を作るために、けっしてうまれてきたのではない。人間は、神の生宮神の御子、天地経綸の使用者として神の御用のために世に生まれて来たものである。惟神の心になってなにもかもことごとく、天地の神に打ち任せさえすれば、自然天地の恵みが惟神的にして自然のままに行きわたるものである。

 しかるの神に在らざる人間の根蔕(こんたい)は、ともすれば揺らつき、動きだし、自然の規定を我から破って、神を背にした道を踏むために、ついに神の恵みに離るるにいたるのである。――中略―― 

 しかしながら人間はけっしてこんな悲惨なものではなく、永遠の生命と永遠の安楽とを与えられて世に生まれ、大なる神業をもって、神の御用のためにでてきたのであることを覚らねばならぬ。

 それはただ、神を知ることによってのみ得らるる人生の特権である。」 
 
                   (月鏡 昭和四年五月)

 

(十)カルマにおける信仰の意義(その1)

 儒教では「道とはなにか」「善とは何か」ということを明確にするために、論語や中庸、大学といった学問を重んじるようになったといえます。しかし、これも究極的には善であるとは言えず、通常の私たちは論語読みの論語知らずになってしまうのです。

 

 では、なぜ論語読みの論語知らずになってしまうかといえば、カルマの法則を信じていないために、道徳を学び、道徳を実行することの重要性を感じないからです。では、カルマの法則を信じない原因は何かといえば、仏陀やキリストの言葉を学ぼうともせず、信じようともしないからです。では、なぜ仏陀やキリストを信じないかといえば、その人が神霊や仏の存在を信じないからです。

 

 そう考えると、『全ては主なる神の存在を信じることから始まる』ことになります。そして、イエス・キリストの「罪についてとは、人々がわたしを信じないことが罪であること。」という福音のように、主の存在を信じないことが罪の根元だということが理解できます。

 

 同様に、出口王仁三郎は 『絶対の善』 について、次のようにも語っています。

 「神様は殺人や放火や強盗をしたくらいでは罰せぬ。神様に反対したら罰するのである。この世の中に善はどんな書でも半分は悪があるのである。しかし絶対の善がこの世の中にないと考えてはいけない。神を愛し、神を理解し、神を信ずる事が絶対の善である。神は罰を当てぬが、人は罰をあてるから人に憎まれぬようにせよ。」
                     (新月の光・下巻)

 さらに、『輪廻転生』について、次のようにも述べています。

 「――前略―― 神様は、愛善の特に満ち給うがゆえに、いかなる悪人といえども罪し給うようなことはないが、人間の怨霊(おんりょう)くらい恐ろしいものはない。

 ゆえに人間は人間に対し、かりにも恨まれるようなことをしてはならぬ。どこまでも愛と善とをもって地上一切に対すべきである。

 人間の怨霊が猛獣毒蛇となり、その人に仇を報いたり、あるいは牛となって恨みの人を突き殺したりして、禍(わざわ)いを加うるのであって、神様が直接に罰を蒙(こうむ)らせらるるようなことは、全然ないものである。

 仁慈無限の神様は、すべての人間が私利私欲の念より相争い、相殺し、恨み恨まれ、修羅、餓鬼、畜生道に堕ち行く惨状を憐(あわれ)み給うて、至善至愛の惟神(かんながら)の大道を智慧暗き人間に諭して、その苦しみを救わんがために、神柱をこの地上に降し、誠の道を説かせ給うのであって、じつに有難き大御心である。」 
                 
(昭和五年七月・月鏡)


 これに対して、こうした神罰やカルマについて、大本神諭には次のように書かれています。

 「人民と云うのは、前世(まえよ)の因縁が皆あるから、我身を恨めて置かねば、我身に罪科(めぐり)があるのじゃぞよ。天地(てんち)の御神様(おんかみさま)に御詫(おわ)びが第一等(だいいっとう)であるぞよ。御詫びが叶えば結構になるが、此の世の人民、天地の御無礼は言い尽くされぬぞよ。御詫び致せば赦(ゆる)してやるぞよ。何事も判る世になるぞよ。水晶の世になるぞよ。神代(むかし)に復古(もど)るぞよ。」
              (明治三十一年三月二十四日)


 また、霊界物語にも、「天地の律法はもつとも厳重にして毫末も犯すべからざるものとはいへども、発根より改心と認められたる時は直ちにこれを許さるるものなり。実に改心にまさる結構はなかるべし。」 (第三巻・第十二章)とあるのです。

 

 仏教においては特に、『修証義』 第ニ章「懺悔滅罪(ざんげめつざい)」 の中では、次のように説かれています。

「仏祖憐(あわれ)れみの余り広大の慈門を開き置けり、

是れ一切衆生を証入(しょうにゅう)せしめんが為なり、

人天(にんでん)誰か入(い)らざらん、彼(か)の三時

の悪業報(あくごっぽう)必ず感ずべしと雖(いえど)

も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、


又滅罪清浄(しょうじょう)ならしむるなり。・・・・・・」 

 

 したがって、無知の結果として重ねてきてしまった罪は、神仏へ謝罪と反省によって軽減されうることがわかります。しかし、それは同時に、謝罪や懺悔の対象が神仏という精神の世界の存在であるが故に、心の底からの深く真剣な謝罪であり、改心でなければ、罪の軽減や許しは得られず、罪業による心の傷や病も癒されないであることも理解できます。

 

 ところが、現代では釈迦の唱えたカルマの法則性やキリストの唱えた福音を理解していないで、倫理を道徳だと錯覚てしまっている場合が多いのです。そのため、いくら法律や校則を詳細に取り決めして、それを守れと教育したり強要したりしたとしても、それを守る意義を見失ってしまい、逆に自由を束縛する傾向にある校則や法律を軽んじるようになってしまうのも、実に当然といえば当然のことなのです。

 

 物質至上主義的な社会の産物である法律は、一見すると正しい善のように見えますが、神仏の存在とカルマの法則を抜きにした場合は、誤用されて善人に罪と罰を課し、裁きを下す可能性を生じさせてしまうのです。その意味で、現在の法治国家の最大の弱点は、道徳や法律の根本的な意味を、物質至上主義や経済優先主義のために、まったく見失っている点にあるといえるのです。

 

 実際、イエス・キリストは、大司教や聖書学者の間違った戒律の解釈によって、安息日の救済行為を罪だとして罪人扱いされています。大本の出口王仁三郎は、法律によって不敬罪に問われ、国家から二度に渡る弾圧を受けています。シュタイナーも三分節化運動をナチスによって妨害されています。

 

 このように真の意味でのカルマの法則の認識に基づかない宗教戒律や法律というのは、小善や誤謬によって悪を正当化し助長させてしまう可能性を多分に秘めているのです。

 それは、シュタイナーが語った、「ある時には非常に優れた善であるところのものが、さらに自己を保持し続けるならば、それは硬化したものになり、進歩を妨害することで善に反抗し、疑いもなく悪になってしまいます。」 という言葉の現実的な実例ともいえます。

 

 同じような意味で、出口王仁三郎は、霊界物語・第一巻・第十二章の中で、次のように語っています。

「天国浄土と社会娑婆とは、その本質において、毫末の差異もないものである。かくの如く本質においては全然同一のものでありながら、何ゆゑに神俗、浄穢(じょうえ)、正邪、善悪が分るのであろうか。要するに此の本然の性質を十分に発揮して、適当な活動をすると、せぬとの程度において、附したる仮定的の符合に過ぎないのだ。善悪というものは決して一定不変のものではなく、時と処と位置とによって、善も悪となり、悪も善となることがある。」

 

 この双方の言葉を総合すれば、善悪とは時と処と位置によって常に変化するものであり、それを固定観念にして執着してしまうと、善は融通の利かない悪になってしまうということです。

 

 例えば、真夏に冷たい水を飲んで喜んだ人に対して、真冬にも同じように冷たい水を出すのは小善(悪)になります。ナイフで人を刺し殺すのは悪ですが、果物の皮を剥いてあげるのは善であり、ナイフは人の心次第で善にも悪にもなるのです。企業の運営資金を集めるため、あるいは援助するために善人同士の取引を前提として作られた株式の制度も、企業と株主の双方が利己的になり損をしたくないと考えだすと、法の抜け道を悪用するようになり、善人同士の善意のある取引であれば必要のなかった法律が新たにいくつも必要になり、複雑になってゆくのです。

 

 つまり、利他的な意図で作られた物や制度であっても、利己的な悪人が増えるほど、詳細な規制や法律が必要になってゆき、それは善者の自由を束縛する場合すら生じてしまうのです。

 

 その意味において、旧約聖書のモーセの十戒は、確かにその当時は厳守するべきだったはずですし、現在でも正しいはずです。しかし、人類が置かれている霊的な立場を考慮すれば、その次の時代にはモーセの叡智の中に、イエス・キリストがもたらした愛を注ぎ込み、愛によって自然に叡智を実践できることが、人類の霊的な課題であり救いとなったはずなのです。

 

 例えば、『お年寄りには親切に』とは大切な教えですが、それを 「他人から親切だと思われたい利己的欲望からする」 のか、単に 「宗教的戒律による義務感や正義感によって自分が神に救われたいがために実行する」 のか、「お年寄りへの愛情や労わりの真心から実行する」 のかによっても、外的な物質的行動は同じに見えても、霊的にはその意味合いがまったく変わってくるはずなのです。

 

 こうした例を一つとっても、ただ単に規則や法律を守れば良いだけの人生なら、人は冷たいロボット以下の存在になってしまうことに気付けるはずです。また、難行苦行に耐えることや、厳しい戒律を厳守するだけの信仰を絶対とするなら、人間は我慢大会で優勝した者が最高次の聖者になってしまいます。それでは、仮に人間は宗教戒律に忠実であったとしても、神の愛に育まれていることに感謝し、他人の過ちを赦し、自らも赦され、謙虚に生きることはできないでしょう。

 

 また、ハムラビ法典は「目には目を、歯には歯を」として、争いを制御し、同時にカルマを即座に解消させようとしましたが、それでは、最初に目や歯に起因する負のカルマについての考えが欠落しているのです。そして、負のカルマや悪因縁を断ち切る手段でもあるキリストの愛と赦しの精神が欠落していることも理解できるのです。過ちに対して罰のみで、赦しが与えられないとすれば、そこには徳を育む場も、愛を共感する場をも生ずることはないのです。

 

 

(十一)カルマにおける信仰の意義(その2)

 例えば現代においては、国際的テロ組織が多くの人々を殺害していますが、自分の霊魂の不滅を信じている人間が、他人の肉体を滅ぼせば問題が解決すると考えること自体、根本的に矛盾しているのです。

 自分の霊魂が不滅であると信じているのならば、対立する相手の霊魂も不滅のはずなのですから、その問題は物質次元の問題から霊的次元の問題になると考える必要があるのです。

 したがって、こうしたテロ活動もカルマの法則に照らせば、霊的に負のカルマになるのは当然のことであり、来世は異教徒によって迫害され、殺されるような負のカルマを自ら作っているようなものなのです。また、死後の世界においても、同じように他人を否定する価値観の人間が集まる霊界に行くはずです。

 

 もちろん、こうした組織が先進諸国に対立を示すのは、そこにフリーメーソンや猶太の経済による支配体制に危機感を示し、こうした方向性に強く反発しているような場合があることも考慮する必要があります。

 しかし、そうであっても、 「戦うのは神のため、勝利するのは神のお蔭、戦死するのは天国に行くため・・・・・・」といった信仰による、肉体的・物質的な対抗手段では、霊的なカルマを悪循環させる危険性は避けられないのです。したがって、どんなに戦争をして勝敗を争っても根本的な解決は決してできないのです。

 出口王仁三郎は「裏の神諭」の中で、 「人は各々罪と穢に染まざる者無し。故に罪ある人の身を以って、同胞(ひとびと)の罪を裁く可き資格なし。互いに相慎(あいつつし)みて罪を避け、善に進む事を勉(つと)むべし。」 (伊都能売神諭)と述べています。

 このように、どんなに真実として語られる叡智も、愛情と慈悲とに照らしてから実行に移す慎重さが必要なはずなのです。また、私たちが愛だと思っていたことが、単なる執着や独善や小善の場合もあります。従って、どんなに愛情から為される行動だと感じても、真実と叡智に則した霊的法則性を学ぶ努力が必要だということです。愛の伴わない真理は健常者に巻きつける付ける包帯のようであり、真理の無い愛は無免許の薬剤師の調剤のように危険なものなのです。

 それは、論語における 「子の日わく、学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばされば則ち殆(あや)うし。(学んでも考えなければ物事が明確にならず、考えても学ばなければ独断に陥って危険である)」 (巻第一為政第二 一四)という言葉に明確に表現されています。

 

 こうしたことを考慮した上で「大本神諭」を読むと、国常立尊がいかに現代の世の中におけるこうした問題を、的確に語っているかが理解できます。

 「今の人民はエライ取り違いを致して居(お)るなれど、戦争(いくさ)と天災とで人の心が直るなら、埒(らち)能(よ)う出来るなれど、今度の世の立替えは、其んな容易(たやす)い事でないぞよ。」
               (大正四年旧十二月二日)

 「世の立替えと申すのは、身魂の事で在るぞよ。」 
                
(大正元年三月八日)

 「従来(これまで)の心の持ち方を変えて、遺り方を薩張(さっば)り変えさすから、今が転換期(かわりめ)で、誠に辛い所であるぞよ。辛いのが行であるぞよ。」 
               
(大正七年旧三月十五日)


 私たちは、世を嘆き、主神を悪だと感じるような時には、自分自身の負(マイナス)のカルマがそう感じさせているのだ、という事に気付く必要があるようです。

 そして何より重要なことは、私たちが敵と感じる相手と戦争する事を止め、互いに戦わずに和解する方法を模索するために、我を通すことを断念し、忍耐し、葛藤し、苦しむことなのです。それによって、物質次元の戦争は、個々人のアストラル次元(御魂)の戦いへと昇華されてゆくのです。

 そして、その断念、忍耐、葛藤、苦によって、負のカルマが抹消され、そこに問題を解決する『叡智』を感得し、その高次の叡智によって、それまでは敵と感じられた相手に対して『愛』によって接することが可能となるはずなのです。このことは、 「汝の敵を愛しなさい」 という福音によって、この真理を万民に理解できるよう示されていることがわかります。

 シュタイナーは 「世界の偉大な叡智は、苦悩と苦痛を静かに耐えることによって得られるのです。苦しみと痛みを静かに絶えることが、来世において叡智を創造します。」 として、薔薇十字会の神智学の中で『断念』の重要性を様々な角度から説いています。
注:第四章■四■(九)参照

 王仁三郎も、 「アゝ人生における、全ての美はしきもの、尊きものは、千辛万苦、至善のために苦闘して得なくてはならぬと思ふ。」 (霊界物語・第五巻・総説)としています。また、禅僧が只ひたすらに座禅を組み続け、難解な公案に苦悶、葛藤することによって、大悟し、智慧と証覚を獲るのもこの理由であるといえます。
注:第四章■四■(十三)参照

 そうであれば、王仁三郎が 「釈迦如来 八万四千の 経巻も 煎じつむれば 断念の二字」 (霊界物語・第十九巻・第二章・余白歌)と詠んでいることが、仏教の真諦を語っていることがわかります。

 さらにシルバーバーチの霊訓では、「この世になぜ多くの苦しみがあるのでしょうか。」という牧師の質問に対して、シルバーバーチは「神の真理を悟るには苦を体験するしかないからです。 苦しみの体験を経てはじめて人間世界を支配してる摂理が理解できるのです。」(第五巻・第十一章 青年牧師との論争)と答えています。

 そして、大本神諭には 「艮の金神が三千年余りて世に落ちて居りて、陰から世界を潰さんように、辛い行をいたして経綸(しぐみ)をいたしたので、モウ水も漏(も)らさんように致してあるなれど、……」(明治三十一年旧五月五日)とあるように、地球を主宰している国常立尊は人類のために三千年以上、忍耐と断念をしてきたと語っているのです。



制作者関連

制 作:咲杜憩緩

ブログ:地球の救い方
     ルドルフ・シュタイナー
        の人智学に学ぶ


著書:ルドルフ・シュタイナー
   と出口王仁三郎の符合